スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

私の投資における「リスク分散」の考え方(1)~真面目に働いているけど貯金しかない人へのおすすめ~

普通に働いていては大した収入が得られない今の世の中、収入を補うという観点からも、貯蓄だけでなく投資をすることが必要不可欠です。

 

投資については、以前から書いてきていますが、投資にはリスク分散という考え方があります。

 

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まずは、基本から。

ある会社の株式に投資することを考えます。

会社が株式を買ってもらい、お金を集めます。株式というのは、会社へお金を貸すわけではなく、ある意味、会社にお金をあげることになります。その代わり、利益が出た時に配当をもらうという約束(権利)です。利益が出なければ配当はなし。投資したお金も戻ってきません。これが基本です。

 

他方で、「株式」というモノではないものは、モノではないにもかかわらず、売り買いすることも可能です。

そして、会社が利益を出して、配当をもらえるような株式については、買いたいという人がいます。そういう時に、もともと投資した金額より高い値段で売れたら、利益が出ます(売却益)。

現実には配当よりもこの株式自体を売却した時の売却益が投資の目的となっています。

 

1 商品リスクの分散

株式を購入しても、その会社がうまく行かず、利益が出ないとやがて倒産します。

そうすると株式は無価値になります。昔は株券という証書が発行されていましたから、「紙くず」になると言われました。

これが一つのリスクです。投資している会社がうまく行かない、極端な場合には倒産して株式が無価値になる。これを「商品リスク」と言います。

 

商品リスクを回避するためには、複数の商品(株式)を買うことです。

1つの会社がうまく行かなくても、他の会社がうまく行って利益が出たらいいという考え方です。広くいろいろな種類の株式を買うことでリスクの分散を図るというのがよいということになります。

 

でも、これは結構手間がかかります。なんとかならないか。

ということで考え出されたポピュラーな金融商品があります。「投資信託」です。投資をする人が色々調べて複数の会社に投資するのではなく、複数の(それも多数の)会社に「投資する人」がいてその人にお金を出すという仕組みiです。「投資をする人」を運用会社と言います。

簡単にリスクを分散しながら投資をするために、投資信託に投資をすることができるという仕組みが準備されているという訳です。

 

 

2 時期的リスク

投資信託を買ったのはいいけど、買った後に値下がりして損が出てしまったということは、投資である以上、仕方ありません。

ただ、これもリスクを最小限にする方法があります。

 

基本的には、1度に株式を購入すると、その後株価が下がって大きく損が出る可能性があります。そこで、少額で複数回に分けて投資することが勧められています。

複数回に分ける方法としては、定額で複数回(株式が安い時には多く買う)、同じ株式数を複数回買うなどが考えられますが、理論的に「定額で複数回」というのが効率がいいということになっています。これがドルコスト平均法というやり方です。

詳細な説明はネットで検索するなどすれば、いくらでも出ていますのでここでは書きませんが、結論として、「定額を複数回」と覚えておけばいいと思います。

 

積み立て投資が勧められているのは、こういう考え方があるからです。

 

(2)に続く

 

今年のまとめと人生の抱負~仕事を断捨離してミニマルな生活へ~

あと少しで今年も終わりです。

五十数年生きてきて、今年は「退職」という最も大きな変化のあった年でした。

 

 

 

話は違いますが、前にこのブログに書いたとおり、私はゆるいミニマリストをめざしています。

 

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モノを少なくしたいと考え出したのは、結構前のことで、少なくとも20年以上前です。「ミニマリスト」という言葉もなく、こんまりさんの片付けがブームよりも更に前だったと思います。

 

当時は結婚していて子供が2人いました。共働きでしたから、人並みにモノを持っていました。日用品のほかに、子供の学用品やおもちゃなども、それなりにありました。

それに加えて、貰い物がとても多く、いろいろな贈り物をいただいたりしていました。

 

片付いてはいましたが、家には使わないモノが多く、それに囲まれて生活していた感じです。

そんな中、少しづつでもモノを減らそうとし始めたのですが、苦難の連続でした。

今は、ミニマリストの方々がおられて話が通じるのですが、当時は「モノを減らしたい」と言っても理解されませんでした。母には「戦争を経験してないと、モノのありがたみがわからない」と言われて、本気で喧嘩したこともありました。

 

当時の妻も、「そうよね。モノを少なくすっきり暮らしたいね」と言いながら、生活は全く変わりませんでした。夫婦双方の両親や親せきも同様で、継続してモノが送り付けられてきました。

みんな良かれと思ってしてくれるので、文句を言う筋合いではないのはわかっています。けれど、説明しても理解すらしてもらえず、前述の母のように喧嘩になったり、そこまで行かなくても微妙な雰囲気になったりもしました。

 

仕方がないので、一人で淡々と片づけたり処分したりしていたのですが、片付くスピードよりも増えるスピードの方が速いし、片づけてスペースができると、すぐにそこに何かが運び込まれる。

ギリシャ神話のシーシュポスは、神から罰を受けて、大きな岩を転がして山に運び上げては転がり落とすという無意味な作業を永遠に続けなければならなくなるのですが、シーシュポスと愚痴を言いたい気分になりました。

 

そういう状況が10年以上は続いたと思います。

 

時を経て、様々な事情から5年前に離婚することになり、子供たちも一人暮らしをして間もなく独立するのではないかというところまで来ました。

離婚を機に、私の周りのモノは激減し、子供が一人暮らしをするようになって、更に減りました。

 

1年くらい前に、ほぼミニマルな状態になったかな・・という感触がありました。

でも、今年、退職を機に見直したところ、いくらでも改善の余地があることがわかりました。

ミニマムな生活というのは、モノについてだけではないということに気づきました。

 

ミニマリズムは、生活の無駄を省き、自分の理想とする生活に近づける一つの方法です。人生の理想を実現することに集中するために、時間や余裕を作り出す有力な方法なのだと思います。

モノを減らすのと同様に、人間関係とか、しょぼいところだと年賀状を出す手間とか色々なものを断捨離していく姿勢を持っている人がミニマリストなのだと思います。

 

 

私の今年の最大の断捨離は「仕事」でした。

モノを超えて、生活を整理するというところまで手がついたという感じです。仕事をしていてはできなかったことができるようになり、「よりよい人生のスタートライン」に付けたような気がします。

仕事が無くなった私の人生の「穴」に何が入ってくるのかは、まだ模索中ですが。

 

来年はミニマムな生活を維持することを楽しみつつ、人生の目標に向けて歩んでいきたいと考えています。

 

 

 

以上、今年のまとめと来年の抱負でした。

 

人生をどうしたらいいかは「自分」が知っている話(仏教の自灯明、法灯明)

人生は停滞したり動いたりの繰り返しです。

退職前は仕事に忙殺されるような環境で、長い間過ごして大きな閉塞感を感じていました。人生としては長く停滞していました。

今年7月末に退職という大きな動きがあり、その後その勢いでいろいろ試してみています。このブログもその中の一つです。

 

ところがここに来て、動きが停滞しているように感じます。

仕事のない生活がどういうものかが感覚的にわかるようになり、ブログなど新しく始めたこともひと段落してきました。体調を整えて、これからのことを考えて動いてはいますが、新たな収入源を確保できたわけでもなく、将来のビジョンが明確になった訳でもない。退職前に無意識に恐れていた停滞状況なのかなと思ったりもします。

 

 

 

自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)

釈迦入滅の際に弟子に対し遺言として残した言葉とされています。「自分を灯明の明かりとして進み、また、正しい法則を灯明の明かりとして進まねばならない」という意味です。

 

自分や客観的な法則以外のもの、例えば人の評価や世の中の常識などに惑わされてはいけないということだと思います。

人生の大きな転機では多くのことを考えるものですが、結局どうしたいのか、どうするのがいいのかは、実は自分は知っている。あとは、客観的な論理に照らして間違っていないならば、その道をすすんでいけばいい。そう言われると説得力があります。

 

私の好きな言葉です。

 

前に記事にしたとおり、一人時間に自分と向かい合うことは大切だと思いますが、それは、結局、自分が本当に求めているものは何なのか自分に問いかけるための時間とも言えると思います。悩んでいても、実は自分がその解決法、答えを知っているのだから、自分と対峙する時間が大切ということです。

自分がどうしたいかがわかれば、あとは世の中の摂理に従う人生を歩めばいいのだと思います。

世の中として何が正しいとか、他人の言うどうすべきとかは関係ない。

 

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逆に言えば、どうしても人生の一歩を踏み出せないとき、停滞していると感じる時は、その場に留まり自分と対話するチャンスなのだと思います。「自灯明」を忘れず、あせらず着実に自分と向かい合う時間を取るようにしています。

はたから見れば、何やってんだ?という状況かもしれませんけど。

 

顧みても、停滞の時期が自分を大きく変えてきたという実感があります。

だから、自分を信じて、「どうしようか」と、今、一生懸命、停滞しています。

 

ちなみに、ユングという心理学の巨匠も、沈み込みが深いほど高く飛ぶことができると言っています。停滞する時には、必要なだけ停滞し、次の動きに備えたらいいのだ。今は「なんだかなあ」と思うけど、これでいいのだ。

 

自分の人生を生きるには ~一人時間が重要性~

退職して人生を大きく変化させようと、いろいろ考えてはいるんだけど、なかなか決断できませんでした。

 

退職したいと漠然と考えるようになってから、実際に退職するまで20年以上の時間を要しました。お金の問題とか、メンタリティーの問題もありましたが、こういう問題が解消されても、なお決断ができなかった原因がありました。

 

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1 ただ思うことと考えることの違い

通勤電車の中や、職場の休憩時間など、「ああ、もう辞めたい」と考えることは多かったと思います。でも、これは、嫌なことがあった際に(通勤自体いやでしたし)、それに反応して「もう辞めたい」と思っていただけなんです。

 

本当に退職しようと決断した時のことは、よく覚えています。多忙を極めていた時期でしたが、1人で公園を歩いて桜を見ていた時に自分の今後の人生について。「このままでは、人生の展開はないから、仕事は辞めよう」と突如決めることができました。それまでも、あーでもない、こーでもないと1人で考えてきましたが、その瞬間に「辞めるしかない」と納得できたという感じです。

 

何か違うのかと言うと、何かに反応したのではなく自分が主体となって考えたということだと思います。

 

普通の生活の中では、自分の周囲のいろいろな出来事に反応して、考えています。問題が起きたからどうしようかとか、嫌なことがあるからどうしようかとかです。

自分の人生の方針など重要なことを考えるためには、単発の刺激とは関係なく、自分はどうしたいのかという心の声に向き合う時間を作る必要があると思います。

 

自分が主体的に考えるには、刺激の洪水から離れて、あえて1人になって自分の考えを巡らせることが有効ということです

 

 

2 ライフスタイルに落とし込む

そのためには、1人で考えることを生活に組み込むことを考えてもいいと思います。

 

一人旅をすると移動時間にいろいろなことを考えることができます。

1人で飲みに行くと、自分の世界に没入して考えられます。じゃないと、間が持たないですからね。そのために一人飲みすると言ってもいい。

散歩もいいと思います。ある程度長い時間歩くことを楽しむようにすると、自分の深いところで暖めていた思いが浮かんできます。

美術館とか博物館などにも1人で行くと、展示からインスピレーションやサジェスチョンを得られることがあると思います。

一人時間は、それ自体を楽しみながら、自分の人生を自分が主体的に考える機会になります

 

人生の岐路というほどのことでなくても、一人時間を積み重ねることで、主体的に考え実行に移すできますから、人生が徐々に変わる可能性が高まります。

 

 

 

ちなみに、私は、息子たちに、人生の決断を要する時に親に相談してはいけないと伝えています。

親は、保守的な安全な選択をするようにと言うことは目に見えています。そんなものに惑わされる位であれば、一人時間を過ごして、自分で決めるようにしてほしいと思うからです。

 

 

一人時間は、それ自体が贅沢時間でもあります。

というわけで、週末は新宿御苑を1人で散策してきました。

新海誠監督の「言の葉の庭」という映画の舞台になったところです。主人公が雨の日にいつも来ていた東屋は・・・「立ち入り禁止」でした。残念。

主人公が一人時間を過ごしていたところです。

 

「人に迷惑をかけないよう頑張る」という考えは捨てた方が楽になる。

2億年以上前から繁栄を極めた恐竜が絶滅したのは6500年前、大きな環境変化に対応できなかったためと言われます。氷河期か隕石の衝突か日照りかはわかりませんが、そういうものに対応できなかった。

今に生きる我々も同じだと思うことがよくあります。

 

公務員をやっていたときに、大変申し訳ないのですが、目の前にいる人が恐竜に見えることがよくありました。ブラキオサウルスとかトリケラトプスプテラノドンもいたな。

一度決めたことをどんなことがあっても修正できない上司、自分の若い頃のやり方に固執するベテラン、人のやり方の批判ばかりで自分が変わろうとしない若者・・・。

でも、他人事ではありません。自分もそうだったのです。

 

自分も、自分の考えを変えることができなかった。

「人に迷惑をかけてはいけない」「頑張らなければならない」という考えに囚われて、そういう生き方を続けていました。文句を言いながらも、人より頑張り、迷惑をかけないように休暇も取らず働き続けました。

そういう考え方がいつも間違っているわけではありませんが、金科玉条のように固執し続けたら、自分が壊れてしまいます。

 

20年前、過重な仕事に押しつぶされそうになっても逃げずに頑張って、うつ病を患いました。

病気を治すには、薬を飲めば楽になるのか、休職したらいいのか・・・いろいろ悩みましたが、病気になった根本的な原因は、自分の考え方、ものごとに向かう姿勢を変えられないことに原因があったのだと、今は思います。

人生の局面に応じた考え方ができるようになることが必要だったのだと思います。

 

気づくまでに、長い時間を要しました。

人に迷惑をかけないように頑張っては、それに報いない社会や組織にストレスを溜める・・・という悪循環からなかなか抜け出せませんでした。

でも、頑張りを搾取されるような組織、社会に生きていて、「頑張らなくてもいいし、人に迷惑をかけるのはお互い様」と次第に思うようになりました。

だからと言って、自分勝手に人に迷惑をかけ始めた訳ではありません。仕事のやり方生活自体は、それほど変わりはしませんでした。でも、考え方が変わったせいで、微妙に日々の仕事や問題に対する姿勢が変わりました。文句を言われても休暇を取るとか、機会も捉えて意見を述べるとか、気づかれないようにバックレルとか・・・。

 

それでもいいんだと意識するようになってしばらくして、いつのまにか病気が消失しました。

 

また、「頑張らなくてもいい」という発想は、人生の重大局面での判断にも大きな影響を与えました。

仕事がどんどん忙しくなり、これ以上働いていても、状況が良くならないと気づいた時、「人に迷惑をかけてもいいから、頑張らなくてもいい人生にシフトチェンジする」という決断ができました。「迷惑をかけないように頑張る」という考え方を変えていなければ、周囲の人のことを気にして、結局、退職せずにずるずると元の生活を続けていたと思います。

 

更に、前にも書きましたが、同じ考え方を持ったまま人生の決断をしても、例えば、同じような職場に転職してしまい同じような苦労をするなど、同じような人生を再び歩むようになることに気づきました。

退職を決断できたことも重要ですが、退職後に求める人生の内容も重要です。

 


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「頑張って人に迷惑をかけないようにする」というのは、多くの人にとってテッパンの価値観となってはいないでしょうか。この価値観は、日本の教育における信仰の対象であるかのようです。

でも、そういう価値観も絶対的なものではありません。自分が恐竜のように絶滅する前に柔軟に変えた方がいいことも多いと思うのです。

 

ミニマムな生活 ~年賀状の断捨離~

年末が近づいてきて、年賀状を書く季節になってきました。今年は、年賀状じまいというのが話題になっています。でも、私には関係ありません。なぜなら、もう30年近く年賀状は出していないからです。

 

昔は「ミニマリスト」という言葉もありませんでしたが、30年前くらいから自分の周りの物を減らしたいと痛切に思うようになりました。精神的な病気になり、結構長い時間休職せざるを得なくなり、その時に「やらなければならないことが山ほどあり、物が山積みになっていて、つらいなあ」としみじみ思ったことが最初のような気がします。

茶道や禅の考え方などに触れる機会があり、さまざまなことに執着する生活に疑問を感じるようにもなっていました。

 

こういうミニマリズム的に年賀状じまいをした私としては、ちょっと今年の年賀状じまいのやり方には疑問を感じます。

ネットで検索してみると、年賀状をやめるにあたって、今年の年賀状に記載することの注意点がヒットします。そうか、年賀状じまいというのは、最後の年賀状のことなんだと初めて理解しました。

概ね以下のようなことを書いて今年の年賀状を出すことを推奨しています。

1 年賀状じまいの理由
2 全員に出している旨や今後の付き合いは変わらないこと

3 いつから辞めるか

4 SNSやメールなどの連絡先

 

年賀状をやめるのにも、ものすごい手間をかけるんだなあと感心してしまいます。

反面、私としては、感心はしますが、自分には絶対できないとも思ってしまいます。

 

年賀状をやめる理由は「もう必要ないから」に決まってるし、「付き合い」を続けたくない人には何て書くんだろうと思うし、いつからやめるかって、それは「今でしょ!」。

SNSの連絡先を記載することに至っては、年賀状だけの付き合いで済んでいたものが、簡単に連絡が来るようになり、今後手間が増えるのではないかと心配にさえなります。

 

 

だから、私は、基本的には何も言わずいきなりやめてしまえばいいのではないかと思うのです。

30年前ですら、自分が付き合っていきたいと思う人はみな理解してくれました。

 

 

「君子の交わりは淡きこと水のごとし。小人の交わりは甘きことれいのごとし」という故事成語があります。

「小人物との交わりは甘酒のように甘ったるしくべとべとしている」というのです。言い得て妙だと思います。だから、そういう交わりは早期に断捨離した方がいい。

過剰な情や利害得失から距離をおいた「君子の関係」を大切にしていけばいいのではないかと思います。

窮地に陥ったとき小人は離れて行く。君子はそういう時こそ助けようとする。

 

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学問のススメ 炎上させるのではなく、議論することの重要性

ワールドカップも終盤です。

ビールを飲みながら、「そこで選手交代だろー」とか「何でそこでシュートしないんだあ」とか言いながらスポーツ観戦するのって、楽しいです。

そんな昭和なオヤジは、息子たちからするとうるさいらしく、「じゃあ。自分でやってみろ」と言われたりもします。

 

 

そういう私ですが、ネットやマスメディアを見ていると、「じゃあ、自分でやってみろ」と言いたくなることが頻繁にあります

今回のワールドカップなどのスポーツだけではなく、本当に様々なことについて、公的な場で批判的なことを述べる人に対して、「じゃあ、自分はできるのか」と突っ込みを入れたくなることが本当に多いのです。

 

ワールドカップサッカー日本代表に対する中傷は、そういう社会の縮図のような気がします。自分は安全地帯にいながら、他人の上げ足を取ったり、批判をする。そういう人が世の中に溢れています。

 

少しさかのぼりますが、コロナが流行し始めた時、政府の決断が遅いとか間違っているとか連日、朝から晩まで非難をしていたマスメディアを思い出します。誰も正解がわからない状況で、批判ばかりを繰り返していました。

あらゆることについて、実際にその問題に対峙している人に対する敬意が全くない社会、そのなれの果てが炎上社会なのだと思います。

 

 

1か月ほど前、港区三田の慶応大学の中にある「福沢諭吉記念 慶應義塾史 展示館」に行ってきました。

 

建物は歴史を感じる重厚なもので圧倒されますが、勇気を出して入ってみました。平日だったこともあり、中は人が少なく、アカデミックな雰囲気に酔いながら、展示に没頭することができました。

福沢諭吉の言ったことや書いたことがパネルでわかりやすく説明されています。

 

福沢先生は、「日本人は欧米がいいとなれば無批判にその結論を追い求め受け入れようとする」と指摘されていて、自分の頭で考えて、必要があれば議論をして判断をすることの重要性を説いていました。

 

「これが正しい」という結論を求めて右往左往する日本人を見るに見かねたのでしょう。自分の頭で考えて、自分で判断する。そのためには、必要があれば、人と議論をして反対の立場をも深く理解し結論を模索することが重要と、明治の社会に発信していたのです。

 

企画展示では、千葉県の小さな村落が「学問のすすめ」の影響を受けて、言論で当時の行政を動かした「長沼事件」を取り上げていました。

 

言論を対等に戦わせながら、結論に迫っていく姿勢の大切さを強く感じました。そういう過程で反対の立場の考え方への理解も深まります。

安全地帯から自分の考えを人に投げつけて炎上させるのとは、一線を画する考え方です。とても勉強になりました。

 

 

前述のコロナ報道を挙げるまでもなく、マスメディアの批判の洪水には目に余るものがあります。

ただ、それに付和雷同しているのは我々です。結局、みんなと同じ「正しい結論」が欲しくて、それを与えられることで安心してしまう。だから、マスメディアも「これが正しい」という結論を示そうとするのではないでしょうか。

 

個人的には、そういう風潮には厳に惑わされず、一般に良いとされていることを批判的に検討し、悪いとされていることもその背景を理解した上で悪いのかどうかを検証するという姿勢を失わないようにできたらいいなと今回の展示を見て改めて思いました。

ともすると反対意見を理解しようとする姿勢自体が批判されるような社会ですが、目立たなくても、粛々と人生を歩んでいきたいと思います。

自分は自分、人は人ですから。

 

 

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