スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

正しいことの残酷さ(2) ~「愛」や「正義」は幸福につながらない。~

この世の中から「間違い」を排除することはできません。

間違いを嫌い、執拗に糾弾する社会は幸せを招きません。

 

他方で、「これがあれば幸せ」と考えられているものがあります。そして、大多数の人(おそらく「全ての人」と言ってもいいくらい)が、これだけは間違いないと思っている。

それは「愛」とか「正義」です。

 

でも、「愛」から出た行為が人を傷つけ、貶めることが頻繁に行われています。

子どもを愛するあまり、子どもの自主性を奪い引きこもらせてしまったり、恋人を愛するあまりストーカー化して犯罪を犯してしまったり、生徒のことを考えるあまり暴力をふるってしまったり・・・。

正義を標榜して、人を平気で傷つける人も多い。

ユーチューバーが逮捕を繰り返したり、不倫をした人を執拗に批判したり、マスク警察として因縁をつけたり・・・。

こういう例は、極端なものですが、同じようなことは他にいくらでもあります。

 

実体験として言えば、前職で部下職員のパワハラ行為が問題となり、そのパワハラをした職員と面談をしたことがあります。なぜハラスメントをするのかをじっくり聞いたところ、「ハラスメントを受ける人が間違っている。自分は正しい。彼(彼女)のためを思ってやったことだ。」ということでした。

その人は「自分は被害者だ。」とも言っていました。

hatasan2.net

結局、パワハラをした人は、「愛や正義のためにやったことでハラスメントではない。」と言う訳です。本気で信じている様子でした。

 

間違いを許さない社会で暮らしていると、人を激しく糾弾することの反作用として、常に「自分は間違っていない。」ことを主張標榜する必要が出てきます。これは、とても苦しいことです。

この苦しさを何とかやりすごす方法として、「自分は愛を持ってやった。」とか「正義のためにやった。」と言うようになります。

 

今、社会にはこういう人が溢れています。

 

こういう「愛」や「正義」によりかかっている人たちは、実は、「愛」とか「正義」とかについて、深く考えたことがないのではないかと感じます。

こういう人たちの言う「愛」や「正義」は、言い換えれば「正しさへの執着」ではないかと思います。

 

現代社会は、何となく「愛」や「正義」を至上の価値として取り扱っています。それを無批判に受け入れた人は、苦しみから逃れるために「愛」や「正義」を振りかざします。そのことによって、人を無自覚に傷つけ続けています。

でも、そうまでして自分を守りながら、実は、その人自身も、自分が批判されることを怖れ、とても苦しんでいる。

 

こんな世の中で生きていくことは大変です。

そういう世の中で、自分が苦しくなく生きていくためには、どうしたらいいのか?

 

「正しさへの執着」を手放すことだと思います。「愛」や「正義」で人を判断することを止めることです。「愛」や「正義」に寄りかからずに物事を判断したり、人も見ることは、実はとても大変です。「正しさに執着」している間は、物事や人を正当に判断することはできないと思います。

 

正しさに執着しないで、物事を見ると、もっと人生が楽になるのではないかと思います。前回、裁判を題材に述べたように、人生の次のステップに進むことができるようになる。

 

もういい加減に、「愛」だとか「正義」だとか言うのを止めて、物事を見るようにした方がいいのではないかと感じています。