スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

組織を改善することの難しさ ~日経平均バブル後最高値更新のニュースで考えたこと~

現在の日本経済に関する雰囲気は、こんな感じでしょうか?

大企業だけとは言え株価も上がっている。給料も不満はあるものの増額されている。だから、これからだんだん経済も上向いていい感じだよね。

昨年から最低賃金をもっと上げようという話は出ていましたが、こういう雰囲気を決定的にしたのは、今年(令和6年)2月の日経平均がバブル後最高値を更新して3万1000円に迫ったというニュースからだと思います。

 

1989年12月に日経平均がつけた平均値を34年ぶりに上回ったことは、衝撃的に報道されました。どのニュースも肯定的で明るいニュアンスで伝えていました。

 

でも、おかしくないですか?

言葉を変えて言えば、34年前の株価にやっと戻ったということです。

34年前に投資をした人は、今になってやっと損益がプラスマイナス0になったということです。

 

これに対して、アメリカの経済指標の一つであるNYダウは、1990年初めが2900ドル 現在が大体3万8000ドルです。軽く10倍以上になっています。

このことに触れているニュースはほぼありませんでした。

(私は経済の専門家ではありませんから、データの見方などにズレはあると思いますが、大局としては間違っていないと考えられます。)。

 

私は、様々なことを国のせいにしたり、組織のせいにしたりするのは、好きではありません。でも、30年以上にわたる経済運営に関しては、国(政治家)や財界の責任であることは論を待たないと考えています。政治家や財界の偉い人の言うことややることは、既得権者に配慮して酷いものです。

 

こういう経済の停滞が、様々なところに影響を与えています。

 

日本は、まじめに働く人が損をするような仕組みになってしまいました。だから、だれもがまじめに働こうとしない。まじめに働くと多くの些末な事務を押し付けられ、働かない人の尻拭いをさせられる。

「こんな社会に誰がした?」と言いたい。

 

「日本は生産性が低い。」とよく言われます。

当然のことながら、まじめに働いた人の労働力がきちんと成果に反映されれば生産性は上がります。でも、そうならない仕組みに日本はなっています。

 

・旧態依然とした組織の意思決定方法

・システム構築の稚拙さ

などもよく指摘されますが、こういうところが改善されない理由が更にあると、私は考えています。

 

自分の経験から感じるのは、

とにかくルーティンワークが変わることを嫌う体質が染みついてしまっているということです。

 

どんなことであれ組織を改善しようとすると、一時的に業務量が増えます。ルーティンの他に組織を改善する業務を行う必要がある訳ですから、当たり前のことです。

でも、これを避けようとするあまり「なぜ、そんなことをしなければならないのか?」とか「今しなくてもいいのではないか?」とか抵抗する人ばかりの状態です。

そして、そんなことを30年以上も続けてきたら、世の中ではコンプライアンスだとかワークライフバランスだとか、それ自体としては生産性を上昇させない(*)手間のかかることをやらなくてはならなくなってきて、そのことが余計に組織改善のための余力を削っています。

コンプライアンスワークライフバランスは間接的には生産性アップにつながります。また、本質的な意味合いからも推進すべきものです。

 

今の日本の組織には、組織改善に向ける余力はほぼゼロというところが珍しくないのではないかと思います。

 

本当は、ルーティンの中にも組織改善に向けた業務が織り込まれているはずなのですが、「自分を楽にするために」見て見ぬふりをする人が大勢います。組織のトップであっても同様だと思います。失敗するかもしれないこと、批判されるかもしれないことを敢えてやらなくても、自分の任期中だけ無事に過ごせたらそれでいい。

そうじゃなくても忙しいのにリスクのある業務を上乗せするようなことはしない。

 

前職の職場で、「これからの職場はどうあるべきか」という話をすると、「それは組織の幹部が考えることだ。」とか「自分の仕事ではない。」とか「時間がない。」とかいう反応ばかりでした。

また、役所などはその傾向が著しいのですが、現状を批判的に検証できない。現状が間違っているとは認めたくない。この態度も現状維持を後押しします。

でも、組織改善(イノベーションとか色々言い方はあると思う)は、どこから始まるかわからないんですよね。現に、いくら待っても組織の幹部からそんな動きはない。少なくとも「失われた30年」と言われる期間は何も無かった。

 

自分自身は、めんどくさくても「『社会がよりよくなるため何かできることがないか。』という姿勢で生きていきたいな。」と考えています。意外と真面目に。

 

ミニマムな生活 ~ストックを減らす。~

ミニマムな生活は、支出を減らし、やる事を減らし、生活のクオリティを高めます。

小さな話ですが、そのための一つの課題として、「ストックを減らす」ということがあります。

 

ストックとして考えられるのは、

・衣類(下着、シャツなど)

・電池

・文房具

・タオル

・トイレットペーパーやティッシュ

・ハンカチやバンダナ

これだけでなく、継続的にチェックしてみると、おびただしい量のストックが家の中に眠っています。これらを、どう整理するか・・・ですが。

 

1 一気に捨てるもの

すべてのストックに共通する考え方として、「自分で買ったものではないモノ」「もらい物」については、1年使わなかったモノは全て処分していいと思います。

ただ、その踏ん切りがつかない場合には、溜まっているモノは直ちに使ってみて、その上で使い勝手が悪かったり要らなかったら処分することだと思います。とにかく使ってみる。

もらい物は、必要があって買ったものではないので、基本的に不要なはずです。でも、「もったいない」から早急に使ってしまう。そして処分する。

 

2 ストックをするものの種類、量を減らす

「将来的に必要があるから」という理由でストックしたものもあると思います。ただ、こういう将来に備えて自分で購入したストックが、家の中にかなりの量、滞留しています。

 

こういうモノも、実はそんなに多く必要ではないモノがたくさんあります。

私は、ストックは基本的に持ちません。

具体的には、

・下着(靴下、アンダーウエアなど)

・タオル

・Tシャツなどの衣類

・ハンカチ

などは全く持っていません。緊急で必要になる事がないからです。必要になってから買えば間に合う。

 

他方で、例外的にストックを(少量ですが)するものは明確に決めています。

・電池

・文房具(マジックなど)

・調味料

・洗剤

・トイレットペーパー、ディッシュペーパー

です。電池は非常用という意味もあります。文房具はマジックは突然書けなくなることがあるので。

ただし、ストックも持ち方を決めています。電池は基本的には充電式のものを使っていますから、それ以外に非常用に必要な懐中電灯用の単2電池数個に限っています。文房具も水性、油性のペンを1~2本(あとどれくらいあるか、すぐに思い浮かべられるくらいの量)。

調味料、洗剤は、使用中の洗剤の残量が半分を切ったくらいの時期に、ストックを購入します。

トイレットペーパーは1個、ティッシュペーパーは3個までと決めています。

 

3 おすすめのストック

モノを減らせば減らすほど、細かいところに目が行くようになります。「これも要らないんじゃないか。」とか「こっちの方がいいのではないか。」と常に考えるようになります。

 

私の場合、その一つがトイレットペーパー。

特に高級なものを使いたいという希望は無いので、以前はドラッグストアの安いものを購入していました。そうすると、一度購入すると必然的にストックが8ロールになる。それなりの場所を必要としていました。

でも、ある時気づいたのですが、コストの安いトイレットペーパーはすぐに無くなる。ロールされている紙が短いのと、質が悪いためどうしても多く使ってしまう。

そういう問題を解決するものを見つけました。

トイレットペーパー長巻ダブル | 無印良品 (muji.com)

無印良品のトイレットペーパーです。紙自体がしっかりしているので一回に使う量も少なくて済むし、125メートルもあります。持った感じが他のものとは全然違って、重い(結構、びっくりするくらい重いです。)

だから、なかなか無くならない。これは、1個ずつ売っています。

これに出会ってからは、トイレットペーパーのストックは1個だけになりました。

 

同様に、ティッシュペーパーも無印良品のものを使っています。こちらは、4個組ですので、ストックは最高3個です。

竹100%ティシューペーパー | 無印良品 (muji.com

また、洗剤もまとめられるものは、まとめています。

シャンプーとボディソープ、手洗い用の石鹸は、同じものを使っています。

シャンプー、ボディソープ、石鹸のストックが1個だけになります。

 

「そんなことか。」と思われるかもしれませんが、本当にモノが少なくなってくると、「そんなこと」にまで目が行くようになるものです。そういうところに目が行くようになると、モノを減らすのも楽しくなってきます。

ミニマムな退職生活 ~生活自体を断捨離する~

退職をするとお金のことが心配になります。

再就職をするにしても、それまでの間は収入はありません。他方で、支出はなくなることはありません。

だから、どうしたら支出を減らすことができるのか真剣に考えました。試行錯誤をしましたが、最近、自分の嗜好や考えを整理して一つの方法にたどり着くことができました。

 

結論から言うと、

・本が好きな人

・ジョギングを習慣にできる人

・料理をすることを厭わない人

は、劇的に支出をカットすることができることがわかりました。

 

1 本が好きなこと

仕事を辞めると時間ができます。多くの人は趣味に生きたいと考えたりします。

読書は、あらゆる趣味のうちで、多分、最も安上がりです。図書館で借りたら、限りなくコストは0です。

それにもかかわらず、大きな人生への恵みをもたらしてくれます。

 

2 ジョギングを習慣にできる人

走るだけですから、当然、これもコストは0。読書と同様です。

気持ちいいし、健康にいいことは言うまでもありません。

 

3 料理をすることを厭わない人

自炊できると大きく支出をカットできます。「一人暮らしならば外食の方が安い。」という人がいますが、多分違います。

安く外食しようとするとどうしても偏った食事になりがちです。バランスよく栄養を摂ろうとすると、それなりのコストになってきます。

自分で考えて、適度な量でバランスよく栄養を摂る事ができれば、健康にもいいし、ダイエット効果などにも直結します。

 

 

書いてみると「何て当たり前なんだろう」と思いますが、一度、読書とジョギングと自炊だけという生活を体験してみることを強くおすすめします。

落とせるところまでコストダウンしたら、「でも、やっぱりこれはやりたい。」ということが出てくると思います。

その段階で、そういうことを付け加える。

 

仕事をしていると、自分の生活を見直すということが本当に後回しにされます。よく考えてみれば自分の人生に必要ないことをだらだらと続けています。

自分自身、仕事を辞める前は、

・カフェでゆっくりしたい。

・旅行とか外食とかを楽しみたい。

・新たな遊びも経験したい。

等々、妄想していましたが、結局、よく考えてみたら、

・読書して

・ジョギングして

・自炊を楽しんで

いたら、自分は基本的には満足なんだということに気づきました。

旅行は、余裕ができたときに行ければいいし、外食も思ったほど魅力的ではない(最近は特に混んでるし)。

 

基本となる最低限の生活ができたら、お金を使ってでもやりたいことを考えます。

私は、趣味のテニスをやっています。スクールには通っていません。私的なサークルに入れてもらっていて、その付き合いでそこそこのお金はかかります。コート代(わりかん)とたまにある飲み会くらいですが。

あと、それ以外の交際費もあります。もとの職場や趣味を通じて知り合った人との交流が少なくないので、そのためのお金は必要です。ただ、これも自宅を徹底的に断捨離したことで人を招くことに抵抗がなくなり、コロナ感染防止の観点からホームパーティ形式で飲み会をやってみたところ思いのほか好評で、今では家に人を招いて懇親を深めることの方が多くなりました。たくさん外食する人に比べると、著しく安く上がっています。

また、再就職をしてから間もなく半年が経ちます。有給休暇を取得できるようになるので、そうなったら一人旅をしようと考えています。

 

こんな感じで、生活を整理したら、人生を無駄なく、でもめいっぱい楽しんでいるという実感が持てています。

モノを減らすというミニマリズムとは、やや話はずれますが、生活をシンプルにして、充実した人生を目ざすという視点からは、発想は同じだと思います。

だれかの参考になればいいな・・・と夢想しています。



 

正しいことの残酷さ(3) ~世の中の「原因と結果」を考えることの方が大切~

過剰に正しさに執着する現代社会ですが、これが幸せにつながらないことは、今の閉塞感や圧迫感に押しつぶされそうな世の中を見ていれば明らかだと思います。

 

本当は、正しさに執着するより、「こうなったらいいな。」ということを実現するためには、「どうしたらいいのか。」を考える方が断然いい。

今の自分の行いは、将来に繋がっています。今の自分の行いが「正しいかどうか」ではなく、「将来の良い結果の原因になっているかどうか」を模索して生きることが、自分の幸せにつながると思います。

同様に、自分の行いが「人に良い影響を与えるか」、「社会に良くなる原因になるか」を模索することが、良い社会の実現に繋がる。

 

「自分は正しいのに、社会や人がおかしい」等と嘆くのは終わりにして、今何をしたらいいのかという自分の問題に向き合うことが大切です。

 

そう考えて、自分は何をすべきか色々考えています。笑笑

 

2年前に漠然と考えていたことは、「退職という思い切った決断をして、自分の人生を良い方向に変えたい。」ということでした。

実際に退職することで、時間ができ、自分の人生について掘り下げて考えることができました。

 

退職後、次に、考えたのは「自分や社会に良い影響を与えられることはないか?」ということでした。

国の組織で公務員として働いていた時に感じていた問題点、つまり仕事が大変だからと言って辞めてしまったら人生が立ち行かなくなるという問題を、個人として乗り越えるためにはどうしたらいいかを考える中で、実際に就職活動をしてみました。

この経験はこのブログの「退職から人生再建へのモデル」というカテゴリーにまとめました。文字通り一つのモデルは作れたのではないかと思います。

 

現在は、再就職をして半年ほどが経とうとしています。

生活は安定しつつあります。

次は、どうしようか。楽しみながらも、真剣に考えているところです。

 

正しいことの残酷さ(2) ~「愛」や「正義」は幸福につながらない。~

この世の中から「間違い」を排除することはできません。

間違いを嫌い、執拗に糾弾する社会は幸せを招きません。

 

他方で、「これがあれば幸せ」と考えられているものがあります。そして、大多数の人(おそらく「全ての人」と言ってもいいくらい)が、これだけは間違いないと思っている。

それは「愛」とか「正義」です。

 

でも、「愛」から出た行為が人を傷つけ、貶めることが頻繁に行われています。

子どもを愛するあまり、子どもの自主性を奪い引きこもらせてしまったり、恋人を愛するあまりストーカー化して犯罪を犯してしまったり、生徒のことを考えるあまり暴力をふるってしまったり・・・。

正義を標榜して、人を平気で傷つける人も多い。

ユーチューバーが逮捕を繰り返したり、不倫をした人を執拗に批判したり、マスク警察として因縁をつけたり・・・。

こういう例は、極端なものですが、同じようなことは他にいくらでもあります。

 

実体験として言えば、前職で部下職員のパワハラ行為が問題となり、そのパワハラをした職員と面談をしたことがあります。なぜハラスメントをするのかをじっくり聞いたところ、「ハラスメントを受ける人が間違っている。自分は正しい。彼(彼女)のためを思ってやったことだ。」ということでした。

その人は「自分は被害者だ。」とも言っていました。

hatasan2.net

結局、パワハラをした人は、「愛や正義のためにやったことでハラスメントではない。」と言う訳です。本気で信じている様子でした。

 

間違いを許さない社会で暮らしていると、人を激しく糾弾することの反作用として、常に「自分は間違っていない。」ことを主張標榜する必要が出てきます。これは、とても苦しいことです。

この苦しさを何とかやりすごす方法として、「自分は愛を持ってやった。」とか「正義のためにやった。」と言うようになります。

 

今、社会にはこういう人が溢れています。

 

こういう「愛」や「正義」によりかかっている人たちは、実は、「愛」とか「正義」とかについて、深く考えたことがないのではないかと感じます。

こういう人たちの言う「愛」や「正義」は、言い換えれば「正しさへの執着」ではないかと思います。

 

現代社会は、何となく「愛」や「正義」を至上の価値として取り扱っています。それを無批判に受け入れた人は、苦しみから逃れるために「愛」や「正義」を振りかざします。そのことによって、人を無自覚に傷つけ続けています。

でも、そうまでして自分を守りながら、実は、その人自身も、自分が批判されることを怖れ、とても苦しんでいる。

 

こんな世の中で生きていくことは大変です。

そういう世の中で、自分が苦しくなく生きていくためには、どうしたらいいのか?

 

「正しさへの執着」を手放すことだと思います。「愛」や「正義」で人を判断することを止めることです。「愛」や「正義」に寄りかからずに物事を判断したり、人も見ることは、実はとても大変です。「正しさに執着」している間は、物事や人を正当に判断することはできないと思います。

 

正しさに執着しないで、物事を見ると、もっと人生が楽になるのではないかと思います。前回、裁判を題材に述べたように、人生の次のステップに進むことができるようになる。

 

もういい加減に、「愛」だとか「正義」だとか言うのを止めて、物事を見るようにした方がいいのではないかと感じています。

 

正しいことの残酷さ(1) ~正しさへの執着は幸福な人生を生み出さない。~

大学で法律を学びました。

大学で学んでいた頃は、法律で社会をより良くできると信じていました。争いになったら、どちらが正しいかを判断し、悪いことをした人がいれば、処罰をして被害者を救う。法律があることで社会が正しく運営される。

困った時には助けてくれるものが法律であると単純に考えていました。

 

こういう感覚は、結構長い間、無意識に持ち続けていたと思います。

ただ、ある時、「どんな制度や仕組みにも間違いがある。」と意識するようになりました。人間が運営する以上、かなりの頻度で間違いがある。

 

法律を制度として生かすものとして裁判があります。

裁判に間違いはあってはならないということで、憲法三審制を採用して、基本的には地方裁判所高等裁判所最高裁判所で3回審理を見直すことができる制度になっています。それでもさらに間違った場合に備えて、再審という制度すらあります。

間違いを無くすための制度ではありますが、三審制や再審という制度があること自体、「人間は間違う」ということを前提にしています。

 

もちろんこれだけ厳格な制度、手続になっている訳ですから、大きな間違いは滅多にないかもしれない。でも、これだけやっても間違う可能性を0にすることは、絶対にできない。

 

 

じゃあ、手続を尽くしたけれど間違えた結論になってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?

 

すべての手続を踏んだならば裁判は終わりです。納得できなくても、それ以上はどうにもなりません。(*)

だから、それはそれで納得せざるを得ないということになります。

* 制度としては再審申立を繰り返すということも考えられますが、実効性の点で疑問もありますし、ここでは取り上げません。

 

間違いがない制度はありません。そうなってしまえばそれを受け入れるしかない。

「受け入れる」というのは、どういうことでしょうか?

受け入れるとは、「それがいいこと」と許容したり、「どうせ、そんなものだ」と諦めたりすることとは違います。間違うことが不可避な人間の社会では「そういうこともある」と納得することだと思います。

 

そうすることで、その問題としては決着をつけて、次の人生のステップに進むことが想定されている訳です。

裁判を一つの区切りとして、その問題に関わることをやめて、次のことを考えるということが大切なのです。

 

 

裁判という制度を例にしましたが、世の中のあらゆるところで同様に考えることができるのではないかと思います。

多くの人が「納得ができない。」と言って、一生恨む気持ちを捨てられなかったり、人につらく当たったりするということがあります。でも、ある程度で区切りをつけて、その状況を受け入れて、次に進むことが大切だと思います。

 

最近は、いつまでも人を恨んだり、非難したりすることが多くなっています。社会もそれを推奨するような傾向が強まっています。

人の間違いを許さず、声高に人の間違いを糾弾し、執拗に批判を繰り返します。

でも、こんなことをしていたら、間違えた人は必要以上に排除され、簡単に社会から抹殺されるようなことも起こります。それと同時に、批判する人も恨みに囚われ、次々とそういう批判の対象を探すようになります。誰も幸せになれない。

間違えを根絶することなど、不可能なのですから。

 

「人は間違える」ということを前提に、一度考えてみてもいいのではないでしょうか。

 

先延ばしにしてきた人生の課題 ~本当にやるべきこと~

一昨年の7月までは、仕事は忙しく、目の前のことを処理するだけで毎日が消費されていきました。平日は仕事、休日も仕事があったり、家事や少しの息抜きで終わってしまっていました。場当たり的に生きていたと言ってもいい。

「これではいけない。」という思いもあり、一昨年7月末58歳で退職をしました。

 

人がやることには4つの分類があると言われます。

1 急ぎで、重要なこと

2 急ぎじゃないけど、重要なこと

3 急ぎで、重要じゃないこと

4 急ぎじゃないし、重要でもないこと

これまでの生活では、できる限り4は省くようにしつつ、1や3、要は急ぎの仕事や課題に振り回されて来ました。

でも、人生のスパンで考えた時、本当にやるべきなのは、2の「急ぎではなく先延ばしになっているけど、重要なこと」なのではないかと思います。

 

目先の生活に振り回されて、今まで考えてこなかったけれど、例えば「自分が幸福になるために本当にやるべきこと」とか「人生において優先してやるべきこと」とか、真剣に考えて実行すべきことが結構あったりします。

 

 

その中でも、いつかはある程度の時間をかけてじっくり考えたいと思っていたことが『「死ぬ」ということについて』です。

 

親や親せきの死も経験しました。また、仕事をしている時に、目の前で仕事の関係者が亡くなったこともありましたし、親しい職場の知り合い、同僚も4人病死しました。

死の宣告は、突然やってきます。

昨日まで、普通に生活していたけれど、どこかが痛くなって医者に診てもらったら、癌だったとか・・・。

 

死の宣告をされて衝撃を受け、「そんなはずはない。」と悩み苦しみ、最後に「仕方ない」と死を受容して亡くなるという経緯が一般的だと言われます。

 

近しい人の死を見るたびに、「死」が自分にとってどういうものか、いざ死の宣告を受けた時にはどうしたらいいのか等々、考えておいた方がいいと思いました。でも、とても大事なことだけれども、日々の生活にかまけて、先延ばしにしてきた。

 

 

「死」について考えることは、「どう生きるか」を考えるのと表裏の関係にありますから、これからの自分の人生を考える際に大きな指針となります。

 

 

昨年の今頃、職探しを始めました。幸い、生活に困って職探しをしているという訳ではなかったので、あわてず淡々と活動を継続していました。

でも、その中で、社会の矛盾は強く感じることになりました。就職氷河期と言われる時期に就職できなかった人が、今尚、救済されず放っておかれていることが端的に示すとおり、労働市場に関する問題は、政治的に、意図的に、手つかずのままになっています。

こういう状況に強い憤りを感じました。

 

他方で、大きな問題ではありますが、そんなことに自分の人生の時間を割くのは得策ではないとも感じました。自分が生活できるだけのお金などがあれば、あとは好きなことをやって生きるのがいい。

もっと、「自分の好きなこととは何なのか」ということを深く考えることに時間を割いた方がいい。

 

好きなことというのは、娯楽とか趣味とかもありますが、自分が死ぬときに「ああ、こういう経験ができてよかった」と思えることだと思います。自分の心が、そう感じて、死を迎えられたらいい。

今の生活では、常に「何をしたら、自分は充実していると思うのか。」と自分自身に問いかけ続けているような気がします。自分に刺激を与えてくれること、生きていく上での価値観を深めてくれること、端的に楽しいこと・・・何が自分の人生を深め、意義あると実感させてくれるのか、その都度考えています。

 

これからはもう、場当たり的に生きるのはやめようと思います。

社会が重要だと言うことが必ずしも自分にとって重要だとは限りません。自分の価値観に照らして重要かどうか、考えつつ今後の人生を送っていけたらいいなと思います。