スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

図書館考 ~「参考書を持ち込んで学習をしてはいけない図書館」は当たり前なのか?~

1 図書館の現状

以前の記事で書いたのですが、今の多くの公立の図書館は朝からお年寄りが占拠しています。開館したら直ちに入館して主に新聞や雑誌を読んでいます。

こういう図書館で、現役世代や学生が閲覧席を使おうとすると、かなりのプレッシャーを感じます。

hatasan2.net

 

もちろん、シニア世代が新聞や雑誌を読むのも自由です。そのことについてとやかく言うつもりはありません。

でも他方で、やはり現役世代や学生などは使いにくい。

 

使いにくい理由としては、図書館が学習を禁止していることがあります。

「資格試験の勉強をしたり学生が試験勉強をするのは、遠慮してください。」ということです。新聞や雑誌を含め蔵書の閲覧はできるけれど、自分で持ち込んだ本や資料を読んだり勉強をすることはできない。

でも、現役世代や学生が図書館を使うとすると、大抵は勉強、自習をする場所を求めているのではないかという気がします。確実にそういう需要はある。

 

また、パソコンなどの電子機器の使用を禁止しているのも理由の一つではないかと思います。

現在、何らかの調べ物をしようとしたら、ネットで調べることは不可欠ですが、それが禁止されている。「図書館の外でやってください。」ということです。

調べ物をしようにも使いにくい。

 

現状は、多くの公立の図書館はお年寄りに新聞雑誌を読んでもらう場所になっています。自習を禁止して、電子機器の使用も制限してその他の世代が使いにくいから、図書館の利用者はお年寄りに偏っているわけです。

 

2 図書館で学習することは悪いことなのか?

私は昔からずっと疑問に思っていました。

そして、一度ならずこの疑問を口にしたこともあるのですが、大体「図書館は図書館にある本を読むためのところであって、自習をするところではない。」とか「図書館にある本を使う訳でもないのに、図書館で勉強するのはおかしい。」とか言われました。

でも、この理屈に私は納得できません。

 

「図書館はその蔵書を読む場所」という理屈が必然的に、自習を禁止することに結びつかないと思うからです。

そもそも図書館は国民や市民の教養を深めるためにあるもので、そのためには図書は不可欠ですから、国や地方公共団体が図書館を運営しています。

でも、教養を深めるために必要なものは図書に限りません。

だからこそ、最近(と言ってもかなり前からですが)では、図書館によっては蔵書だけでなく、視聴覚室があったり、現在ではインターネットに接続したパソコンがあったりする。図書だけではなく、DVDなどの記憶媒体やネットなどから、知識を吸収することが、最近の図書館では想定されてきているわけです。

こういう状況の下、多くの図書館で、利用できるものを図書館の蔵書や限定された(備え付けの)電子機器に限定し続ける理由とは一体何なのでしょうか。

 

すでに時代は、図書館が「勉強をするための場所」となることを求めているのではないだろうか?と私は思ってしまいます。

図書が図書館のものかどうかとか、電子機器が図書館備え付けかどうかとかいうのは、些末なことなのではないか?知識を吸収するための物が自分で購入した参考書や本であっても、あるいは持ち込んだパソコンで検索した情報であっても、そこで勉強、自習をすることは許されるというのが自然な考え方なのではないでしょうか?

 

3 新しい形の図書館

結局、図書館をどういう風に使ってほしいのかというのは、もっと自由に図書館側が決めていいのではないか。「図書館で自習は禁止」というのを当たり前の前提とすることなく。

 

そんなことを考えていたら、都内に見つけました(ここには具体的に書きませんが、ネットで検索したら簡単に見つかります。)。

正面から自習を認める図書館です。また図書館で声を出して読んだり、ディスカッションをすることも想定されていて、コワーキングスペースがあったりします。持ち込んだパソコンの使用が許されている席も多くあります。

行ってみたら、閲覧スペースがとても広く、席数も多く確保されていて、すごくいい感じでした。とても。

 

全体の印象としては、勉強している人が多い。勉強している人の属性としては、現役世代や学生など多岐にわたる印象です。もちろんシニア世代が新聞、雑誌を読んでいたりもする。

図書館が、全世代に開放されている感じを受けました。それぞれの人がそれぞれの方法で教養を身に着けようとしている。

やっぱり、図書館はいろいろな人が利用できるようにした方がいい。偏狭な理屈で排除する人を作らない方がいい。

 

4 図書館の役割

伝統的な図書館の在り方についても、それぞれに根拠があって、それなりの合理性はあったのだろうと思います。一概にダメだと言うつもりはありません。ただ、他方でそれがすべてだとも思わない。

時代に合わせて役割は変化してもいいんじゃないですかね。

 

新しい試みをしている図書館に行って思ったのですが、本を読んだり、パソコンのサイトを見たり、皆それぞれの方法で一生懸命に自分を向上させようとしていることが感じられました。こういうスペースが増えると、優秀な人材が自然と増えてきたりもするんじゃないですかね。

 

今の日本は人材を育成するモチベーションが著しく低い。また、優秀な人材を外国から受け入れようとしているようにも見えません。こういう弊害を打破するためにも自らで研鑽する人をサポートするような施設の存在は不可欠だと私は感じます。

また、様々な人材が育つことにより多様性を後押しすることにもなるような気がする。

 

図書館の役割は大きいと思う。

会社員や公務員の将来について ~33年組織で働いて気づいた課題~

退職をする頃、心配していたことがあります。

日本社会は、このままで大丈夫なのか?

 

私の印象ですが、自分自身が若い頃(四十代中頃まで)は、「利用者である国民のために組織はどうあるべきか」とか「日本の社会の動きを勘案しつつ自分たちの組織は将来どうなるべきか」ということを意識しながら仕事をしていたと思います。

別に、日々のルーティンでそういうことを考えていた訳ではなかったけれど、ちょっとした仕事を処理する時に、それを考えているのと考えていないのとでは大きな差があったと思います。

よく「ほうれんそう」が大事だと言われますが、じゃあ、何でも報告、連絡、相談をすればいいかというとそうではない。常日頃から、そういうことを考えていれば、問題が起きた時に自分自身で判断でできる幅も広がります。

当時はすぐに「どうしたらいいでしょうか。」と上司にお伺いを立てる人を見ては、「使えねえ奴」と思っていました。

 

ところが、退職する頃には、「とにかく上に報告して、相談しろ」という風潮に完全に変わっていました。

自分限りの判断で問題を解決しようとしたりするのは言語道断で、問題が起こったらすぐに上と相談しなければなりませんでした。「どうしたらいいでしょう?」と。

 

こんなことがありました。

コロナが流行し始めたころ、職場の出勤率を半分に下げたことがありました。

エッセンシャルワークと言われていた職種であったため、全てリモートとはならず、自分の部署でも管理職である私一人とその他数人が出勤していました。人手が足りず、みんな必死に目の前の仕事をこなしていました。そういう状況の中、その日はクレーム対応が数件(4~5件)ありました。結果的には、部下職員では手に負えず、私が対応して納得してもらった案件もありました。

 

後日、その日のことが話題となった時に、怒られました。

報告がないことと、勝手に対応したことについて、「なぜ、クレームが入った時点で報告しないのか」、「なぜ勝手に対応するのか」ということでした。

 

最近は「クレームが入る」ということ自体が報告をしなければならないことになってしまっています。

独自の考え方で理屈を振り回してくる利用者に対して丁寧に手続きを説明するような場合、つまり通常業務の範囲内のことであってさえも報告を求められるようになってしまいました。

クレーム対応がデフォルトのような職場でしたから、それをいちいち報告していたら現場の仕事は回らないのに。

 

じゃあ、報告、連絡、相談をしたら、きちんと組織として対応ができるのかと言うと、そんなこともありませんでした。むしろ、話がややこしくなる。

 

 

もう一つの例です。

私の働いていた職場の建物は大きな建物でしたが、来庁者の安全のため、通常は屋根のあるところまで車を横付けすることは禁止されていました。

ある日、車椅子で来ていた人が帰ろうとしていました。でも、その時は、ちょうど台風が日本列島を直撃していて雨風がピークに差し掛かる頃でした。

 

そういう状況ですから、建物を管理する部署に連絡し、屋根のあるところまでタクシーを付けられるように了解を取りました。

ただ、大きな組織でしたので、その調整は複数の部署を介して行わざるを得なかったので、一抹の不安がよぎり、車椅子の人たちが帰るときに、私も建物の出口まで同行しました。

案の定、建物の入り口に立つ警備員から「タクシーは、建物に横付けはできない。」と言われました。

 

その後の対応については、ここに書くことは省略しますが、こういうことが頻発していました。報告、連絡、相談をしても、組織がうまく動かない。

 

 

ただ、私は「こんな風に自分のいた組織は最低だった。」と言いたいわけではありません。多くの職員は一生懸命に仕事をしていたし、組織としてもとても真面目だったと思います。

それなのに、どうしてこんなことになってしまうのか?

私が思うに、些末なことで忙しすぎて仕事の全体像を見る人がいなくなってしまったことが原因ではないかと思います。

そのクレームは組織全体として共有しなければならないものなのかとか、配慮が必要な人がいた時に、最終的にどういうことをしなければならないのかとか・・・、そういうことを考えイメージする余裕があれば、不必要にすべての報告を求めたり、逆に、連絡調整をしなければならないことが漏れたりすることはなくなるのではないかと思うのです。

 

日本の社会は、些末な間違いに目くじらを立て、執拗に攻撃する異様な様相を呈してきています。私のいた職場だけでなく、多くの職場がそういう本質とは関係のないものへの対応や準備といった「ブルシットジョブ」で埋め尽くされ、本質的なことを考えることができなくなっています。

でも、世の中の大きな流れは未来永劫同じではありえません。

社会の流れが変わって、もっと「本質的なことを考えよう。」という風潮が出てきたとき、心ある公務員や会社員の人が健康でいて、活躍できることを祈るばかりです。



 

自己決定の大切さ ~他人に決めてもらう人生からの脱却~

山本文緒さんの「恋愛中毒」を読んで思いました。

自分の人生を自分で決めて来なかったことの反動は、おそろしい。

「自分勝手。」と言われても、「わかっていない。」と言われても、自分で自分の人生の方向性を決めることが重要。人に合わせて生きるようなことはしない方がいい。

そうでないと、常に、人に依存することになる。

 

この小説は、結末が物議をかもしています。

色々な感想がありますが、私は、この結末しかあり得ないと思う。自分の人生を人に委ねた結果は、これしかないと私は思います。

私たちは、ストーカーと化したり、完全に壊れてしまったりした人を自分からかけ離れた存在として感じているけれど、実はこんなにも近い距離にいるということに気づきました。

 

主人公の考えるようなことは多くの人が考えるのではないでしょうか。でも、主人公が取った行動を多くの人が起こすかというと、それはそうではない。そこには溝があります。でも、その溝は皆が考えるほど、実は深くも大きくもない。

考えることと行動することの間には、一般に思われているほどの距離はない。何かの拍子に、自分もその溝を跳び越えて、同じ行動を取ってしまうかもしれない。

そう自覚した方がいいじゃないかと感じました。

 

溝を跳び越えないためには、自分の人生の方向性を含め、自分のことは自分で決めることだと、この作品は訴えているように感じます。

主人公と同様な思考パターンに陥り、自己主張せず、周囲に合わせて波風を立てずに生きるのは、自分の人生を他人に決めてもらうことと同義です。他人に依存し、他人に決めてもらう。自分の人生がうまくいかないと他人を恨む。

そういう過程を経て、他人を傷つけることを、正当化して生きていくことになる。

 

自分で自分の人生の方向性を考えない若者は、自分の人生がうまくいかないのを親のせいにし、学校のせいにします。壮年になって生活がうまくいかないと、政治や社会のせいにします。年を取ってからは、変化した社会や国の施策のせいにする。

確かに、親にも落ち度はあるし、学校や社会にも至らない点がある。でも、完璧な親もいないし、完全な学校制度や社会も存在するわけがない。

気持ちはわかるけれど、親や社会の問題点は棚上げして、自分はどうするのかを考えていこうとする努力が大事です。

 

自分の人生を自分以外のものに委ねてしまうのは楽です。

でも、人に決断をゆだねる人生、そんな人生、楽しいですかね?

早期退職後の理想の生活 ~人生の目標を考える。~

前の職場にいた時には、常に目の前の仕事に忙殺されて、なかなか人生について考える時間がありませんでした。

このブログを読んでくださっている方には、「理想の人生」のイメージを聞いてみたいという衝動を覚えたりもします。

 

仕事に忙殺されていた頃は、理想の生活は、

1 仕事上の異常なプレッシャーや仕事量に押しつぶされない。

2 家族の健康、あるいは介護などの問題に向き合う余裕を持てる。

3 楽しいことをする時間がある。

4 自分の人生に向き合う時間がある。

というような、その時の生活ではできなかった不満なことを裏返しにしたものでした。

 

でも、早期退職をして、実際に時間ができてみると、1~4は自分の人生を生きるための条件であって、「理想の生活(人生)」とは呼べないことに気づきました。

「1~4までの条件を充たす生活ができたとして、具体的にどういうイメージなの?」ということです。

 

 

どういう人生が理想かは人それぞれですが、・・・。

少なくとも、私は、目の前の仕事や問題に忙殺されたまま人生を終えるのは嫌です。できる限り、自分の人生は自分でデザインしたいと思います。

今、これまでの人生をベースにしつつ、これからの人生はどうしたいのかを考えています。

 

このブログに書いてきたとおり、前職を辞めて再就職をしました。給料は激減しましたが、他方で得難い経験もさせてもらっています。また、退職後2年が経って、経済的には大きな心配はなく暮らしていけることも実感としてわかってきました。

そこで、現在の目論見としては、

現在の仕事を年内を目途に辞め、その後は、ここまでの経験を生かした仕事をすることを模索しようと考えています。そのための準備は現時点ですでにスタートを切っています。

 

まだ、どうなるかはわかりません。でも、再度新しいことにチャレンジすることで、人生の理想像も見えてくるかも知れないと思っています。

 

振り返ってみれば、退職後すぐの頃は、「50代での再就職は厳しいと言うけれど、実際どうなのか」、「退職してからどうやったら生活していけるのか」を実際に体験してみようと企てていました。新しい経験をすることへの期待もありましたが、不安でいっぱいだったのを思い出します。

現在も同じような心境です。

ブログの更新をさぼりつつ、いろいろ考えています。

 

もうすぐ60歳(還暦)、これからの人生のこと ~退職後の人生のモデルを更に考える~

今、考えていることは、「これから、どうしようかなあ。」ということ。

一昨年7月に早期退職してからもうすぐ2年が経過します。そして、7月の誕生日で今年60歳(還暦)になります。

 

振り返ってみると、退職してから半年は社会的な活動は全くせず、ひたすら体を休めました。その後10か月ほど求職活動をして、現在の職場で働いています。週に4日、パート労働者です。半年ほど働きました。

現在の生活に不満があるかと言うと、特にありません。仕事は、そこそこ面白いし、投資もまずまずうまくいっているし、贅沢を言わなければ、これから食うに困ることはなさそうだということは、ここまで生活してみて、はっきりわかりました。

退職という自分の人生における大きな変化を経験したものの、最近、落ち着いてきている。高望みしなければ、このままでもいい。

 

でも、最近、何か違う気がしています。「自分の人生これが続いていいのかな?」、「もっと何かできるのではないか?」と考えることが多くなってきました。

今働いている教育業界については、初めての経験で得るものも多いし、新鮮な出会いもある。でも、この業界でこのまま頑張っても、前職の時のような組織や制度の根本を考えるようなポジションに就くことはもう無いと言ってもいいと思います。

 

他方で、退職から2年で大きく変わったことは、時間ができたことです。時間ができたことで変わったことは、

・本を読めるようになったこと

・いろいろな人と食事に行ったりする機会が増えたこと

・ブログを書いたり、生活に瞑想を取り入れたりして、自分の考えを整理する機会ができたこと

・規則正しく生活し、適度な運動ができるようになったこと

などです。

 

そういう生活をしていると、自分の心の声のようなものに向き合うことになります。これは、退職当初は予想していなかった大きな変化です。

 

心の声と接して気づいたのは、退職してから現在の落ち着いた生活を構築することは一つの目標ではあったけれど、次の目標がまだあるということでした。「人生の最終目標」かもしれません。それが何かということを含めて、もっと考えないといけない。と言うか、考えたいという気持ちが強くなってきました。

 

現時点で考えているのは、ここまでの経験をまた別の形で今後の人生に生かしていけないかということです。

現在の仕事は長くても年内に辞めようかと考えています。

その上で、前職を退職して、無職の期間を経て再就職という経験で気づいたことなどを、それを必要としている人に伝えていく機会を作れないか?このブログでも、かなり詳細に書いてきましたが、さらに深く掘り下げて伝えられないか?

 例えば・・・。

・退職をする準備として必要不可欠な投資について、「なぜ投資をした方がいいのか」という根本的な考え方を掘り下げて伝えたり、私が持っている銘柄、金額、利回りなどを具体的に伝えたり、

・求人を出している企業の具体的な事情や考え方を更に忌憚なく語ったり、

・再就職をして気づいた求人側の問題点、求職側の問題点などを公平な観点から本音で分析したり

そういうことができないかと考えています。

 

このブログの更新は少し間が空きました。それは、こんなことを考えていたからです。

単純にFIREして終わりでもなく、かと言って再就職や次の人生の展開にいたずらに悩むこともなく、力を抜いて将来を模索していく方法はないのかを、更に試行錯誤しながら考えていきたいと思っています。

 

日経平均バブル後最高値更新のニュースで考えたこと ~日本の組織の問題点、「チャレンジしたくない。」症候群~

現在の日本経済に関する雰囲気は、こんな感じでしょうか?

「大企業だけとは言え株価も上がっている。給料も不満はあるものの増額されている。だから、これからだんだん経済も上向いていい感じだよね。」

昨年から最低賃金をもっと上げようという話は出ていましたが、こういう雰囲気を決定的にしたのは、今年(令和6年)2月の日経平均がバブル後最高値を更新して3万1000円に迫ったというニュースからだと思います。

 

1989年12月に日経平均がつけた平均値を34年ぶりに上回ったことは、衝撃的に報道されました。どのニュースも肯定的で明るいニュアンスで伝えていました。

 

でも、おかしくないですか?

言葉を変えて言えば、34年前の株価にやっと戻ったということです。

34年前に投資をした人は、今になってやっと損益がプラスマイナス0になったということです。

 

これに対して、アメリカの経済指標の一つであるNYダウは、1990年初めが2900ドル 現在が大体3万8000ドルです。軽く10倍以上になっています。

このことに触れているニュースはほぼありませんでした。

(私は経済の専門家ではありませんから、データの見方などにズレはあると思いますが、大局としては間違っていないと考えられます。)。

 

私は、様々なことを国のせいにしたり、組織のせいにしたりするのは、好きではありません。でも、30年以上にわたる経済運営に関しては、国(政治家)や財界の責任であることは論を待たないと考えています。政治家や財界の偉い人の言うことややることは、既得権者に配慮して酷いものです。

 

こういう経済の停滞が、様々なところに影響を与えています。

 

日本は、まじめに働く人が損をするような仕組みになってしまいました。だから、だれもがまじめに働こうとしない。まじめに働くと多くの些末な事務を押し付けられ、働かない人の尻拭いをさせられる。

「こんな社会に誰がした?」と言いたい。

 

「日本は生産性が低い。」とよく言われます。

当然のことながら、まじめに働いた人の労働力がきちんと成果に反映されれば生産性は上がります。でも、そうならない仕組みに日本はなっています。

 

・旧態依然とした組織の意思決定方法

・システム構築の稚拙さ

などもよく指摘されますが、こういうところが改善されない理由が更にあると、私は考えています。

 

自分の経験から感じるのは、

とにかくルーティンワークが変わることを嫌う体質が染みついてしまっているということです。

 

どんなことであれ組織を改善しようとすると、一時的に業務量が増えます。ルーティンの他に組織を改善する業務を行う必要がある訳ですから、当たり前のことです。

でも、これを避けようとするあまり「なぜ、そんなことをしなければならないのか?」とか「今しなくてもいいのではないか?」とか抵抗する人ばかりの状態です。

そして、そんなことを30年以上も続けてきたら、世の中ではコンプライアンスだとかワークライフバランスだとか、それ自体としては生産性を上昇させない(*)手間のかかることをやらなくてはならなくなってきて、そのことが余計に組織改善のための余力を削っています。

コンプライアンスワークライフバランスは間接的には生産性アップにつながります。また、本質的な意味合いからも推進すべきものです。

 

今の日本の組織には、組織改善に向ける余力はほぼゼロというところが珍しくないのではないかと思います。

 

本当は、ルーティンの中にも組織改善に向けた業務が織り込まれているはずなのですが、「自分を楽にするために」見て見ぬふりをする人が大勢います。組織のトップであっても同様だと思います。失敗するかもしれないこと、批判されるかもしれないことを敢えてやらなくても、自分の任期中だけ無事に過ごせたらそれでいい。

そうじゃなくても忙しいのにリスクのある業務を上乗せするようなことはしない。

 

前職の職場で、「これからの職場はどうあるべきか」という話をすると、「それは組織の幹部が考えることだ。」とか「自分の仕事ではない。」とか「時間がない。」とかいう反応ばかりでした。

また、役所などはその傾向が著しいのですが、現状を批判的に検証できない。現状が間違っているとは認めたくない。この態度も現状維持を後押しします。

でも、組織改善(イノベーションとか色々言い方はあると思う)は、どこから始まるかわからないんですよね。現に、いくら待っても組織の幹部からそんな動きはない。少なくとも「失われた30年」と言われる期間は何も無かった。

 

自分自身は、めんどくさくても「『社会がよりよくなるため何かできることがないか。』という姿勢で生きていきたいな。」と考えています。意外と真面目に。

 

ミニマムな生活 ~ストックを減らす。~

ミニマムな生活は、支出を減らし、やる事を減らし、生活のクオリティを高めます。

小さな話ですが、そのための一つの課題として、「ストックを減らす」ということがあります。

 

ストックとして考えられるのは、

・衣類(下着、シャツなど)

・電池

・文房具

・タオル

・トイレットペーパーやティッシュ

・ハンカチやバンダナ

これだけでなく、継続的にチェックしてみると、おびただしい量のストックが家の中に眠っています。これらを、どう整理するか・・・ですが。

 

1 一気に捨てるもの

すべてのストックに共通する考え方として、「自分で買ったものではないモノ」「もらい物」については、1年使わなかったモノは全て処分していいと思います。

ただ、その踏ん切りがつかない場合には、溜まっているモノは直ちに使ってみて、その上で使い勝手が悪かったり要らなかったら処分することだと思います。とにかく使ってみる。

もらい物は、必要があって買ったものではないので、基本的に不要なはずです。でも、「もったいない」から早急に使ってしまう。そして処分する。

 

2 ストックをするものの種類、量を減らす

「将来的に必要があるから」という理由でストックしたものもあると思います。ただ、こういう将来に備えて自分で購入したストックが、家の中にかなりの量、滞留しています。

 

こういうモノも、実はそんなに多く必要ではないモノがたくさんあります。

私は、ストックは基本的に持ちません。

具体的には、

・下着(靴下、アンダーウエアなど)

・タオル

・Tシャツなどの衣類

・ハンカチ

などは全く持っていません。緊急で必要になる事がないからです。必要になってから買えば間に合う。

 

他方で、例外的にストックを(少量ですが)するものは明確に決めています。

・電池

・文房具(マジックなど)

・調味料

・洗剤

・トイレットペーパー、ディッシュペーパー

です。電池は非常用という意味もあります。文房具はマジックは突然書けなくなることがあるので。

ただし、ストックも持ち方を決めています。電池は基本的には充電式のものを使っていますから、それ以外に非常用に必要な懐中電灯用の単2電池数個に限っています。文房具も水性、油性のペンを1~2本(あとどれくらいあるか、すぐに思い浮かべられるくらいの量)。

調味料、洗剤は、使用中の洗剤の残量が半分を切ったくらいの時期に、ストックを購入します。

トイレットペーパーは1個、ティッシュペーパーは3個までと決めています。

 

3 おすすめのストック

モノを減らせば減らすほど、細かいところに目が行くようになります。「これも要らないんじゃないか。」とか「こっちの方がいいのではないか。」と常に考えるようになります。

 

私の場合、その一つがトイレットペーパー。

特に高級なものを使いたいという希望は無いので、以前はドラッグストアの安いものを購入していました。そうすると、一度購入すると必然的にストックが8ロールになる。それなりの場所を必要としていました。

でも、ある時気づいたのですが、コストの安いトイレットペーパーはすぐに無くなる。ロールされている紙が短いのと、質が悪いためどうしても多く使ってしまう。

そういう問題を解決するものを見つけました。

トイレットペーパー長巻ダブル | 無印良品 (muji.com)

無印良品のトイレットペーパーです。紙自体がしっかりしているので一回に使う量も少なくて済むし、125メートルもあります。持った感じが他のものとは全然違って、重い(結構、びっくりするくらい重いです。)

だから、なかなか無くならない。これは、1個ずつ売っています。

これに出会ってからは、トイレットペーパーのストックは1個だけになりました。

 

同様に、ティッシュペーパーも無印良品のものを使っています。こちらは、4個組ですので、ストックは最高3個です。

竹100%ティシューペーパー | 無印良品 (muji.com

また、洗剤もまとめられるものは、まとめています。

シャンプーとボディソープ、手洗い用の石鹸は、同じものを使っています。

シャンプー、ボディソープ、石鹸のストックが1個だけになります。

 

「そんなことか。」と思われるかもしれませんが、本当にモノが少なくなってくると、「そんなこと」にまで目が行くようになるものです。そういうところに目が行くようになると、モノを減らすのも楽しくなってきます。