スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

「大人の恋」が理解される社会、理解されない社会

生活に余裕ができて、読書をする時間が増えました。最近は、テーマを決めて読むようにしています。ある作家を中心に読むとか、日本の歴史を切り口を変えたテーマごとに読むとか。

現在は、ある雑誌の特集記事に紹介されていた小説、


『はだかんぼうたち』江國香織
『木暮荘物語』三浦しをん
アナベル・リイ』小池真理子
『恋愛の発酵と腐敗について』錦見映理子
『ミーツ・ザ・ワールド』金原ひとみ

を読んでいます。特集のテーマは「大人の恋」です。

 

読んでみると、現実にこんなことがあったら社会的に非難されたり炎上したりということがたくさん出てきます。オンパレードと言ってもいい。登場人物は、読者がはらはらするような方向へ人生を歩んでいきます。

でも、読者はどんどん登場人物に感情移入していきます。批判的には見ない。

批判的にならない理由は、自分も登場人物のように感じたり、生きたりする可能性が十分にあることがわかるから。そして、そういう生き方が人生に厚みを持たせると何となく感じるから。

 

 

三浦しをんさんの木暮荘物語には、一人の女子大生が出てきます。

誰とでも寝ちゃう、軽い感じの女子大生です。木暮荘は壁が薄いから、声も聞こえちゃう。周囲の人は眉をひそめて彼女を見ています。でも、物語が進むにつれて、彼女の背負うものが見えてきます。

彼女のやっていることは、社会的に見れば間違っているんだけど、彼女自身は周囲にとても優しい。

人を執拗に批判したり、排除したりはしない。

社会的に正しいかどうかは置いておいて、人に共感したり、自分と違う考えを受け入れたりできる。

 

 

また、江国香織さんの小説には、娘の性的な価値観がどうしても許せない母親が出てきます。

当初は、娘たちの奔放な生き方に嫌悪感を抱き、娘たちの価値観を否定します。娘の直面する問題を理解せず、自分の価値観ばかりを押し付けます。そのことが娘たちを傷つけていることに気づかない。

でも、複数の女性と付き合う男性をパートナーにしたり、既婚者をパートナーとする娘たちと時間を共有することで、娘たちの価値観を否定しないようになっていきます。

肯定はしませんが、拒絶、否定をしないで受け入れるという態度です。

異なる立場の人の価値観にも目を向ける余裕を持ち、否定したり排除はしない。肯定はできなくても、受け入れる。

そういう態度は人を傷つけません。また、その人の人生を豊かにする。それを、この小説は教えてくれます。

 

 

 

現在の間違いを許さない社会の風潮は、こういう小説の登場人物のような人を決して許さないでしょう。正しいかどうかをジャッジして、正しくないものを否定、排除し、正しさを人に押し付けようとします。

 

例えば、私の働いていた職場でも、社会で正しいとされていることを、現場や部下に要求しました。事務処理を間違うな、男女は平等、子育て支援をせよ・・・・。

でも、小説の登場人物は、間違えるし、男女間だけでなく不平等だらけ、子育てが最上の価値ともされない。

 

 

でも、そういう間違いだらけの世界の方が人が生きていく環境として瑞々しさを感じます。思い返してみると、職場は正しいけれど本当に殺伐としていました。

「大人の恋」が理解されるような社会っていいなと思いました。

 

「いじめは、いじめる人が悪い」という当たり前が通用しない日本(2) ~それでも生きていくために~

いじめ問題について、いじめられる側のことを、更に考えてみたいと思います。

社会的に見れば、いじめられる側の被害者に「逃げる」ことを強いるのはおかしい。ただ、それと同時に、実は「逃げる」ことが、被害者にとって、現実的で有効な問題解決の手段であることは前回のブログで書きました。

 

 

「逃げる」ということは、否定的に捉えられがちですが、言葉を変えて言えば「距離を置く」ということだと思います。加害者であるいじめる人から、距離を置いて自分自身の安全を確保する。

今いるところ以外の別の自分の居場所を見つけることは重要で、学校でのいじめであれば、放課後や休日のスポーツなどの活動、家庭など学校以外の居場所が必要だと思います。それで問題が解決しなければ転校して距離を置く。

 

 

逃げるとか距離を置くと言うと、消極的に聞こえるかもしれませんが、私は、そうは思いません。

自分を否定するような居場所から離れて、新たな居場所を求めるのは、勇気や精神的、体力的エネルギーを要することです。自分の人生を自分で切り開くと言ってもいいと思います。

いじめから離れて考えてみても、あらゆる場面で今の居場所から離れる決断をしなければならない時というのはあるのではないでしょうか。

それができる人は、自分の人生を生きられる人です。

 

職場でハラスメントを受けた時、ハラスメントをする人との会話をできる限り少なくしたり、異動を申し出たり、それでもダメなら退職したりすることは、重要な決断です。毒親との関係を解消したい時、接触する時間をできる限り持たないようにする、親が高齢の場合には施設に入ってもらう、究極の選択としては会わないなど、様々な決断があると思います。

 

 

こういう時に、最も妨げになるのは、実は「身近にいる常識人」です。

「がんばることがいいこと」、「子供は親を大切にすべき」と言う人の影響力は思うよりも大きく、自分の決断を鈍らせます。いじめにおいては、「もう少し頑張ってみたらいい」、「あなたにも悪いところはある」などと言われて、加害者から離れることができなくなります。

しかも、こういう人の良くないところは、親切心に基づいて言っているというところです。それがわかるから無下にもできず、その人のことを尊重している間に、時間が経ってしまい、大きなダメージを受けるということは少なくないと思います。

 

 

だから、いじめられた人に必要なのは、加害者から逃げることだけではなく、一般常識に基づいてモノを言う周囲の人から逃げることです。

 

そういう人たちは、一つの世界を構成しています。その世界は「世間」と繋がっています。世間は、昔ながらのこと、多くの人が考えることに至上の価値を置く人たちです。そういう人が実は親だったということも多い。だから、親を拒絶できる人は、自分の人生を生きることができる人だと思います。

そういう人たちから離れて、自分を理解してくれる人に出会えば、楽になると思います。

 

 

私自身、60歳を目前にして、そう思うことが多くなりました。

退職という周囲の人とは違う選択をしたことで、今、多くの常識的な価値観からの攻撃にさらされています。(笑)

でも、実際に辞めてみると、そんな常識なんて関係ない人や、積極的に私を認めてくれる人・・・様々な人との出会いがありますし、これまで付き合ってきた人のそういう面を発見したりすることもあります。漫然と生活しているとわかりませんが、意識して見れば、そういう自分を理解してくれるような人たちは確かにいます。

いじめられるような人は、多数の人とは違った価値観を持っていることが多い。その価値観は才能に繋がっている可能性も結構あると思います。

そういうところに目を向けて生きていけたらいいなと思います。

 

「いじめは、いじめる人が悪い」という当たり前が通用しない日本(1) ~ミステリと言う勿れ~

King Gnuの「カメレオン」という曲がいいなあと思って聞いていました。

これって、ドラマ「ミステリと言う勿れ」の主題歌なんですね。初めて知りました。

 

これがきっかけで、ドラマを見てみました。少し前にTverで無料動画配信がされていました。1話~3話限定ですが・・・。

感想は、「面白かった。」です。

現在、4話以降を「有料で」見るか迷っているところです。近々映画化もされるようなので、その頃に全話無料配信されるかもしれないし・・・。笑

 

 

 

このドラマ、菅田将暉演じる主人公のセリフが印象的です。

第3話の、いじめについてのセリフです。

「僕は常々思っているんですが(これは主人公の決まり文句)、どうしていじめられている方が逃げなければならないんでしょう。恥ずかしくて問題があるのは加害者の方なのに・・・」

いじめの解決法として、現在は、「いじめられたら逃げてもいい」ということがよく言われていますが、掘り下げて考えれば、それは何だかおかしい。素直に考えたら、いじめる人がいなくなることが直接的、端的な解決法です。なぜ、被害者が逃げなければならないのか?

考えてみれば当たり前なんだけど、社会的には見落とされがちな点を主人公が明らかにして見せるわけです。

それを指摘することで、いじめられた人は救われた気持ちになる。ドラマでは、そう描かれています。

 

さらに深堀してみたいと思います。

なぜ、加害者であるいじめた方に対して対策を取らず、被害者であるいじめられた方に「逃げろ」と促すのか?

それは、被害者にそうさせる方が簡単だから。

社会(周囲の大人や学校等々)が、加害者にコンタクトして反省させ、以後いじめをしないように促すというのは、膨大な手間がかかります。まず、いじめがあったのかどうかを把握することが難しい。次に客観的事実が明らかになっても加害者側からの反発も予想されます。「これには理由がある。」、「被害者側に問題がある。」・・・云々。

 

反対に、被害者であるいじめられた人に対しては、「我慢しろ。」、「逃げろ。」、「お前の考えが甘い。社会は厳しい。」と言うだけで済んでしまう。きわめて簡単に一件落着となる(と思っている。)。

 

いじめられる人の属性としては、気が弱い、優しい、・・・などがありますから、余計に被害者側に我慢を強いることが横行するようになる。

 

この構図が温存されている日本社会には、大きな問題があると思います。

 

 

でも、問題はここでは終わりません。

仮に社会が本腰を入れて、いじめ撲滅に取り組んだとしても、根絶することはできません。必ずいじめる人は出てくる。現在の、いじめを放置するような構造は改められるべきですが、その努力にも限界はあると思われます。

その場合には、やはり被害者がどうすべきかという問題が出てきます。

 

現実にいじめに遭った場合、社会がそれを是正してくれればいいですが、そうではない場合には、被害者側で何とかしなければならない。その場合には、やはり、頑張るのではなく「逃げる」という選択肢が出てきます。現実には、被害者側で取り得る最も有効な手段なのだと思います。

 

 

そうすると、主人公が言うことは理想であったとしても、結局、現実は「逃げる」しかないではないかという疑問が湧いてきます。少なくとも現在の日本では、そうなのでしょう。

他方で、ドラマでは「被害者が逃げなければならないのはおかしい。」という言葉で、いじめに遭っていた青年は救われた気持ちになります。「被害者に対する理解」が人を救う面があるということを描いています。

 

 

 

いじめに限ったことではなく、就職氷河期で就職できなかった人たち、職場でハラスメントを受ける人たち、犯罪被害者など、制度が行き届かず辛い思いをしている人は多いです。そういう問題についても、社会として制度を改善していくことに加えて、周囲の人たちが「努力が足りない」とか「我慢が大事」とか「被害者にも落ち度はある」とか言うことをやめて、その被害者側の人たちの努力を超えて、その人たちが理不尽な扱いを受けることで感じる痛みに目を向け、まずは、理解をしていくことが大事なのだと思います。

相手を尊重することの連鎖と生きることの価値 ~WBC日本代表のチェコ戦に思う~

WBC日本代表が順調に4連勝。1次ラウンド突破を決めました。

 

今回のWBCは野球に勝つ負けるのほかにも、面白い要素が多いですね。

大谷翔平はやっぱりスターだし、ダルビッシュ有のチームをまとめる力が光る。佐々木朗希の164キロは度肝を抜くし、山本由伸の面白くないほど完成された投球術は感心しきり。ピッチャーだけでこんなに話題性がある。

 

 

印象に残ったのは、チェコ戦で佐々木選手が相手バッターのエスカラ選手に160キロ越えの球を当ててしまったとき。大けがに繋がってもおかしくない状況ですが、エスカラ選手は起き上がり、走って一塁へ。プレーが再開するまでの間のエスカラ選手に注目が集まり、スタンドからはどよめきや声援、拍手が起きます。

佐々木は帽子を取って謝り、一塁手の山川選手も声をかけるなど、紳士的なふるまいでした。

まあ、ここまでは相手選手も国を背負って頑張っているし、日本の観衆もいつも通りフェアだよなという印象でした。

 

ただ、ご存じのとおり、これには続きがあり、その回チェンジになってマウンドを降りる時、佐々木選手が再び帽子を取って謝ります。

その後、試合が終わると、ベンチからチェコの選手全員が出てきて、日本の勝利を祝福。これに大谷がリスペクトのゼスチャーを返しました。

試合後も・・・。

 

全部は書きませんが、一連のやりとりは本当に心を温かくするものだったのではないでしょうか。

 

 

野球の実力では、おそらく圧倒的に日本が勝っていたのだろうと思います。でも、ノンプロ集団のチェコが野球で頑張り、スポーツマンシップという観点からも高いレベルを示してくれました。

野球というゲームの中で、「野球で勝つかどうか」という以外の価値観、ものさしが際立った出来事だったと思います。

 

 

人生という尺度で見ると、実は「野球で勝つかどうか」という観点よりも、「相手からリスペクトされるかどうか」ということの方が大事なような気もします。

人をリスペクトすることによって、自分の行いや、自分の存在が人に安心感や満足感などプラスの感情を与える。巡り巡って、自分がリスペクトされる。この循環がよい社会に繋がっていく。

 

幸せな世の中の基本構造なのではないかと考えてしまいます。

 

 

だから、人生においては、一生懸命生きていく中で、まずは人をリスペクトすることから始めるのが大切なのではないかと思います。そういう姿勢を維持していれば、きっと、自分自身も(自分が気づくかどうかは別として)リスペクトされる。リスペクトが循環する。

 

ただ、言うは易く行うは難しで、違う国の人をリスペクトすることが難しいのは、スポーツで乱闘や暴動が起きるところからも容易に理解できます。

同様に、個人レベルでも、考え方の違う人をリスペクトするのは想像以上に難しいことです。

 

でも、リスペクトされることを求めるのではなく、まずは自分がリスペクトする姿勢を持つこと。簡単ではないけれど、それがきっかけなのだと思います。

 

エーリッヒ・フロムは「愛するということ」という本の中で、「どうしたら愛されるかよりも、どうすれば愛することができるかを考えなければならない。」と言っています。

日本酒、酒造の魅力 ~ワインの方が美味いのか?~

旅行に行くと、決めていることがあります。

一つは、その土地の資料館に行ってみること。小さな資料館でもその土地のことを知ることができます。本当に面白いと思います。

もう一つは、そこの酒造に行ってみること。

 

優劣の問題ではないのですが、ワインを愛する人から言われたことがあります。

ワインの歴史と世界的な広がりに比べたら、日本酒は全然大したことはない。

 

それが正しいかどうかを論じるつもりはないのですが、私は、日本酒の良さは確かにあると思いますし、大好きです。

 

 

初めて日本酒の良さに気づいたのは、出張で寒い時期に富山に行ったとき。

地元のチェーンの居酒屋でなんとなく刺身と熱燗を頼んだら、これがびっくりするくらい美味しくて、「胃の腑に染み入る」とはこういうことなのか!と思ったことを覚えています。ちなみに銘柄は「立山」の醸造酒(*)でした。

* 醸造用アルコールを加えた日本酒です。そのままでもいいし、温めて燗にしてもいいです。価格は、吟醸酒と比較して安い。

 

 

それから、日本酒そのものととともに酒造、酒蔵もいいです。いろいろな酒造を訪れて見学をしてみると、杜氏の方が熱く語ります。私が訪れたところでは、100パーセント熱かった。

どこの酒造見学でも、ハズレだなと思ったことはありません。

 

例えば、東京であれば、小澤酒造。東京で一番の大手ですが、私は年に何回かは必ず訪れます。澤乃井ガーデンは多摩川のほとりのオープンエアで気楽にお酒を楽しめるエンターテイメント性の高い施設です。また、併設の「ままごと屋」は、落ち着いて食事とお酒が楽しめます。

ままごと屋-自家製豆腐、ゆば料理(小澤酒造 株式会社) (mamagotoya102.com)

 

 

印象深かったのは、麒麟山酒造。

新潟の酒造ですが、見学に行くには、新潟駅からでもかなり時間がかかるところにあります。でも、まずは酒造のある場所がいい。風光明媚としか言いようがないところにあります。更に、見学に行くと、こだわりが半端ない。米から地元のものにこだわり、酒造の人が米を作っている!!!

オーソドックスな日本酒で、酒飲みの日本酒という感じ。

私が麒麟山という日本酒を知ったのは、豊洲市場にある寿司屋に行ったときです。

観光気分でその寿司屋に入ったのですが、平日の空いた時間帯であったためか、お店の方と話ができて、「外国人が、マグロが美味いとか、カニが美味いとか言って、根こそぎ採って行ってしまうけれど、旬の美味いものというのはそれだけではない。」と言っておられたのが印象的でした。

その寿司屋で麒麟山を出していました。

これを風光名義と言わずして、何と言う?という感じです。

 

 

京都の佐々木酒造も面白かった。

俳優の佐々木蔵之介さんの実家だそうです。二条城のすぐ北側にある小さな酒造ですが、聚楽第という日本酒がとてもいい。

「通常、酒造は米どころの近くにあるのですが、京都はそうではない。なぜか。」とか、京都の日本酒の歴史、利き酒のやり方や、同じ京都の酒造でも伏見とは水が違うなどじっくりと教えてもらいました。

 

その他にも全国に本当に多くの酒造があって書ききれませんが、おすすめです。

 

 

 

世界のお酒もそれぞれ美味しいです。ワインも造詣は深くないですが、小布施ワイナリーに行って2~3本担いで持って帰ってきたりもします。

でも、同時に、日本酒もどこの酒にも負けない美味しいものだと思います。

証明はできないけど、絶対そうだと思う。

成田悠輔さんの高齢者の集団自決発言について ~炎上ではなく議論することの重要性~

「老人は集団自決したらいい」というのはけしからん、と炎上しています。

 

対談番組での成田悠輔さんの発言のようです。

その際、「現代日本では、コミュニケーション能力すら疑われるような高齢者が高いポジションンに居座っていることが多く、そういう人を周囲が持ち上げている。本当は、そういう人に対しては、軽蔑したりする態度を取って、退場を促す圧をかけることも必要なのではないか。そうでなければ、世代交代は進みませんよ。」という趣旨のことも言っています。

また、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか。」とも言っています。

 

もっともだと思います。

高齢になっても肩書などにすがりつくような構造になっている日本は、裏返せばそれが無くなれば価値のない人間だということが暗黙の了解事項となっている訳ですから、そういう社会は変えた方がいいと私も思います。

 

hatasan2.net

 

 

「経済的な価値や肩書という価値しか認めない社会を突き詰めていけば「集団自決」を要求する社会に行きつきますよ。」という風に私には聞こえます。

 

 

ネットでは「老人に集団自決を求める考えなどけしからん!」と騒いでいますが、そういうことを言いたいのではないのは明らかです。

討論などを全体として理解して、その上で発言の当否を考えることは手間はかかりますが、議論をする上では必須の労力です。コメントとは違って、会話や討論、文章などは全体として伝えたいことがあるのは自明のことです。殊更に単語やフレーズを抜き出して、全体を理解しようとしない態度が目立ちます。

もういい加減、人の発言の一部を切り取って炎上させるのはやめた方がいいと思います。

 

ただ、こういったネットの風潮を煽るマスメディアや知識人もいます。

有名な方々が、いろいろ言っておられますが(いちいち取り上げませんが)、要約すると「集団自決などということを言うのは倫理的に許されない。」というものです。

それなりのメディアや知識人であるならば、倫理観にすがるのも、いい加減やめた方がいいと私は思います。

 

倫理的な価値は時代や状況によって変わります。それに頼っていると本質が見えなくなります。

太平洋戦争で集団自決が賞賛されたのは軍部が悪いという程度しか検証されてこなかった日本ですから、戦争中の集団自決をするようなことになったのは、本質的に何が悪かったのかという議論がなされて来ませんでした。

集団自決を現実にするなどという暴挙がまかり通ったのは、その時代の倫理観、価値観を多くの国民が結果的には受け入れていたからではないでしょうか。

 

 

同様のことが、東京大学の入学式の来賓あいさつでもありました。

映画監督の河瀨直美さんが、

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?

と述べたのです(これは東京大学のHPに掲載された原文です。)。

 

これが炎上しました。

「ロシアは悪ではないのか。」、「ロシア擁護」などの言説が溢れ、あろうことか学者の中にも「今のロシアを悪と言えない学問はいらない。」などという感情的な批判をする人すら出てきました。

 

 

河瀨監督の言っていることは、私には至極まっとうな問題提起だと思われます。学問はどちらが正しいかという幼稚な議論をするものではありません。国際紛争を解決できるのか、できるとするとどういう方法で・・・と地道な検証が求められます。

どちらかの立場に立って正義と悪を決めるだけでは、問題は解決しないのです。

 

価値観に頼ると、ち密な議論ができません。

成田さんの発言については、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか」という問題提起について、もっと真剣に議論したらいいのではないでしょうか。

河瀨監督の来賓あいさつを契機として、ロシアの歴史的な事情や現在の世界情勢などからなぜ戦争に至ったのか、それを終結させるにはどうしたらいいのかを、真剣に学び議論したらいいのではないでしょうか。

 

 

 

もう少し、議論ができるような素地が日本にもできたらいいなと思います。

福沢諭吉先生も「日本人は、西洋からの「思想の結論」のみを追い求めているが、それではいけない。その思想が日本においてどうなのかを議論をし納得した上で、取り入れるべきだ。」という趣旨のことを言っています。

 

hatasan2.net

 

毎年3月11日に思い出すこと ~東日本大震災と復興への動き~

日本にとって大きな教訓となった東日本大震災ですが、当日は私は職場から帰宅できず職場に宿泊したことを思い出します。私の職場は首都圏でしたので、地震の瞬間はすごく大きな地震という認識はありましたが、その後何日も鉄道が動かなかったり、停電したりするほどとは思いもよりませんでした。

ある意味、のんきに構えていたと思います。

 

 

これに対して、自衛隊地震6分後には、情報収集のため全艦艇に出航命令を出しています。

これはすごいことで、危機管理の基本が現れていると思います。危機管理の基本は、何かが起こっている時に「大丈夫」という情報が無い場合には動くということだと思いま

す。「大丈夫ではない」という情報が届いてからでは遅いのです。

 

自衛隊が6分後に動くことができたのは、結果的には大丈夫だった場合にも、即時に対応することを積み重ねていたからだと推測できます。ある意味、「空振り」ですが、そういうことを積み重ねて、訓練をしているからこそできた迅速な対応だったのではないかと思います。

 

 

私も仕事をしていた頃、危機管理を担当する部署にいたことがあります。

「何かが起きた」という情報が入れば、基本的には即座に飛び出していました。現場に行って状況を確認して、できる限り素早い対応につなげることを心がけていました。トラブルや急患などいろいろありました。行ってみたら何でもなかったことも、たくさんありました。

それに対して、「無駄だ」とか「大げさ、過剰だ」という批判もありましたが、意外に感謝されたことも多かったことを覚えています。

 

 

東日本大震災でも、避難生活に入ってから多くの避難された方の声がメディアを通じて報道されました。現在でも強く記憶に残っているのは、インタビューに多くのお年寄りが「おかげ様で、何とかやっています。」とおっしゃっていたことです。

いろいろな映像が流れましたが、こういう感謝の気持ちを述べる映像は多かったと思います。

 

未曽有の災害で、大変な目に遭っているのは疑いようのない状況の中で、救援がうまくいかなかったことも多々あったのではないかと容易に推測できますが、それにもかかわらず、感謝の言葉の方が多い印象がありました。

 

 

大震災の後、日本が一つにまとまって、総じて復興に向けて前向きな雰囲気が醸成されましたが、そうなった原因の一つとして、被災者の方の「感謝」があると思います。

 

 

それぞれの置かれた立場で精一杯できることを行い、それに対して感謝の気持ちを持つという、ごくごく基本的なことが日本全体をポジティブな方向に向けたのではないかと思いました。

任務や善意で救済を行う人が被災者の力になりますが、反対に、被災者の方の言葉が、救援を行う人の大きな力になったのは間違いない事実だと思います。

これが、良い循環を呼んで、皆で復興に向かっていこうという大きな動きになりました。

 

災害復興に限らず、こういう良い循環は起こりえることを信じて、自分の生活に活かしていこうと思います。