スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

相手を尊重することの連鎖と生きることの価値 ~WBC日本代表のチェコ戦に思う~

WBC日本代表が順調に4連勝。1次ラウンド突破を決めました。

 

今回のWBCは野球に勝つ負けるのほかにも、面白い要素が多いですね。

大谷翔平はやっぱりスターだし、ダルビッシュ有のチームをまとめる力が光る。佐々木朗希の164キロは度肝を抜くし、山本由伸の面白くないほど完成された投球術は感心しきり。ピッチャーだけでこんなに話題性がある。

 

 

印象に残ったのは、チェコ戦で佐々木選手が相手バッターのエスカラ選手に160キロ越えの球を当ててしまったとき。大けがに繋がってもおかしくない状況ですが、エスカラ選手は起き上がり、走って一塁へ。プレーが再開するまでの間のエスカラ選手に注目が集まり、スタンドからはどよめきや声援、拍手が起きます。

佐々木は帽子を取って謝り、一塁手の山川選手も声をかけるなど、紳士的なふるまいでした。

まあ、ここまでは相手選手も国を背負って頑張っているし、日本の観衆もいつも通りフェアだよなという印象でした。

 

ただ、ご存じのとおり、これには続きがあり、その回チェンジになってマウンドを降りる時、佐々木選手が再び帽子を取って謝ります。

その後、試合が終わると、ベンチからチェコの選手全員が出てきて、日本の勝利を祝福。これに大谷がリスペクトのゼスチャーを返しました。

試合後も・・・。

 

全部は書きませんが、一連のやりとりは本当に心を温かくするものだったのではないでしょうか。

 

 

野球の実力では、おそらく圧倒的に日本が勝っていたのだろうと思います。でも、ノンプロ集団のチェコが野球で頑張り、スポーツマンシップという観点からも高いレベルを示してくれました。

野球というゲームの中で、「野球で勝つかどうか」という以外の価値観、ものさしが際立った出来事だったと思います。

 

 

人生という尺度で見ると、実は「野球で勝つかどうか」という観点よりも、「相手からリスペクトされるかどうか」ということの方が大事なような気もします。

人をリスペクトすることによって、自分の行いや、自分の存在が人に安心感や満足感などプラスの感情を与える。巡り巡って、自分がリスペクトされる。この循環がよい社会に繋がっていく。

 

幸せな世の中の基本構造なのではないかと考えてしまいます。

 

 

だから、人生においては、一生懸命生きていく中で、まずは人をリスペクトすることから始めるのが大切なのではないかと思います。そういう姿勢を維持していれば、きっと、自分自身も(自分が気づくかどうかは別として)リスペクトされる。リスペクトが循環する。

 

ただ、言うは易く行うは難しで、違う国の人をリスペクトすることが難しいのは、スポーツで乱闘や暴動が起きるところからも容易に理解できます。

同様に、個人レベルでも、考え方の違う人をリスペクトするのは想像以上に難しいことです。

 

でも、リスペクトされることを求めるのではなく、まずは自分がリスペクトする姿勢を持つこと。簡単ではないけれど、それがきっかけなのだと思います。

 

エーリッヒ・フロムは「愛するということ」という本の中で、「どうしたら愛されるかよりも、どうすれば愛することができるかを考えなければならない。」と言っています。

日本酒、酒造の魅力 ~ワインの方が美味いのか?~

旅行に行くと、決めていることがあります。

一つは、その土地の資料館に行ってみること。小さな資料館でもその土地のことを知ることができます。本当に面白いと思います。

もう一つは、そこの酒造に行ってみること。

 

優劣の問題ではないのですが、ワインを愛する人から言われたことがあります。

ワインの歴史と世界的な広がりに比べたら、日本酒は全然大したことはない。

 

それが正しいかどうかを論じるつもりはないのですが、私は、日本酒の良さは確かにあると思いますし、大好きです。

 

 

初めて日本酒の良さに気づいたのは、出張で寒い時期に富山に行ったとき。

地元のチェーンの居酒屋でなんとなく刺身と熱燗を頼んだら、これがびっくりするくらい美味しくて、「胃の腑に染み入る」とはこういうことなのか!と思ったことを覚えています。ちなみに銘柄は「立山」の醸造酒(*)でした。

* 醸造用アルコールを加えた日本酒です。そのままでもいいし、温めて燗にしてもいいです。価格は、吟醸酒と比較して安い。

 

 

それから、日本酒そのものととともに酒造、酒蔵もいいです。いろいろな酒造を訪れて見学をしてみると、杜氏の方が熱く語ります。私が訪れたところでは、100パーセント熱かった。

どこの酒造見学でも、ハズレだなと思ったことはありません。

 

例えば、東京であれば、小澤酒造。東京で一番の大手ですが、私は年に何回かは必ず訪れます。澤乃井ガーデンは多摩川のほとりのオープンエアで気楽にお酒を楽しめるエンターテイメント性の高い施設です。また、併設の「ままごと屋」は、落ち着いて食事とお酒が楽しめます。

ままごと屋-自家製豆腐、ゆば料理(小澤酒造 株式会社) (mamagotoya102.com)

 

 

印象深かったのは、麒麟山酒造。

新潟の酒造ですが、見学に行くには、新潟駅からでもかなり時間がかかるところにあります。でも、まずは酒造のある場所がいい。風光明媚としか言いようがないところにあります。更に、見学に行くと、こだわりが半端ない。米から地元のものにこだわり、酒造の人が米を作っている!!!

オーソドックスな日本酒で、酒飲みの日本酒という感じ。

私が麒麟山という日本酒を知ったのは、豊洲市場にある寿司屋に行ったときです。

観光気分でその寿司屋に入ったのですが、平日の空いた時間帯であったためか、お店の方と話ができて、「外国人が、マグロが美味いとか、カニが美味いとか言って、根こそぎ採って行ってしまうけれど、旬の美味いものというのはそれだけではない。」と言っておられたのが印象的でした。

その寿司屋で麒麟山を出していました。

これを風光名義と言わずして、何と言う?という感じです。

 

 

京都の佐々木酒造も面白かった。

俳優の佐々木蔵之介さんの実家だそうです。二条城のすぐ北側にある小さな酒造ですが、聚楽第という日本酒がとてもいい。

「通常、酒造は米どころの近くにあるのですが、京都はそうではない。なぜか。」とか、京都の日本酒の歴史、利き酒のやり方や、同じ京都の酒造でも伏見とは水が違うなどじっくりと教えてもらいました。

 

その他にも全国に本当に多くの酒造があって書ききれませんが、おすすめです。

 

 

 

世界のお酒もそれぞれ美味しいです。ワインも造詣は深くないですが、小布施ワイナリーに行って2~3本担いで持って帰ってきたりもします。

でも、同時に、日本酒もどこの酒にも負けない美味しいものだと思います。

証明はできないけど、絶対そうだと思う。

成田悠輔さんの高齢者の集団自決発言について ~炎上ではなく議論することの重要性~

「老人は集団自決したらいい」というのはけしからん、と炎上しています。

 

対談番組での成田悠輔さんの発言のようです。

その際、「現代日本では、コミュニケーション能力すら疑われるような高齢者が高いポジションンに居座っていることが多く、そういう人を周囲が持ち上げている。本当は、そういう人に対しては、軽蔑したりする態度を取って、退場を促す圧をかけることも必要なのではないか。そうでなければ、世代交代は進みませんよ。」という趣旨のことも言っています。

また、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか。」とも言っています。

 

もっともだと思います。

高齢になっても肩書などにすがりつくような構造になっている日本は、裏返せばそれが無くなれば価値のない人間だということが暗黙の了解事項となっている訳ですから、そういう社会は変えた方がいいと私も思います。

 

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「経済的な価値や肩書という価値しか認めない社会を突き詰めていけば「集団自決」を要求する社会に行きつきますよ。」という風に私には聞こえます。

 

 

ネットでは「老人に集団自決を求める考えなどけしからん!」と騒いでいますが、そういうことを言いたいのではないのは明らかです。

討論などを全体として理解して、その上で発言の当否を考えることは手間はかかりますが、議論をする上では必須の労力です。コメントとは違って、会話や討論、文章などは全体として伝えたいことがあるのは自明のことです。殊更に単語やフレーズを抜き出して、全体を理解しようとしない態度が目立ちます。

もういい加減、人の発言の一部を切り取って炎上させるのはやめた方がいいと思います。

 

ただ、こういったネットの風潮を煽るマスメディアや知識人もいます。

有名な方々が、いろいろ言っておられますが(いちいち取り上げませんが)、要約すると「集団自決などということを言うのは倫理的に許されない。」というものです。

それなりのメディアや知識人であるならば、倫理観にすがるのも、いい加減やめた方がいいと私は思います。

 

倫理的な価値は時代や状況によって変わります。それに頼っていると本質が見えなくなります。

太平洋戦争で集団自決が賞賛されたのは軍部が悪いという程度しか検証されてこなかった日本ですから、戦争中の集団自決をするようなことになったのは、本質的に何が悪かったのかという議論がなされて来ませんでした。

集団自決を現実にするなどという暴挙がまかり通ったのは、その時代の倫理観、価値観を多くの国民が結果的には受け入れていたからではないでしょうか。

 

 

同様のことが、東京大学の入学式の来賓あいさつでもありました。

映画監督の河瀨直美さんが、

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?

と述べたのです(これは東京大学のHPに掲載された原文です。)。

 

これが炎上しました。

「ロシアは悪ではないのか。」、「ロシア擁護」などの言説が溢れ、あろうことか学者の中にも「今のロシアを悪と言えない学問はいらない。」などという感情的な批判をする人すら出てきました。

 

 

河瀨監督の言っていることは、私には至極まっとうな問題提起だと思われます。学問はどちらが正しいかという幼稚な議論をするものではありません。国際紛争を解決できるのか、できるとするとどういう方法で・・・と地道な検証が求められます。

どちらかの立場に立って正義と悪を決めるだけでは、問題は解決しないのです。

 

価値観に頼ると、ち密な議論ができません。

成田さんの発言については、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか」という問題提起について、もっと真剣に議論したらいいのではないでしょうか。

河瀨監督の来賓あいさつを契機として、ロシアの歴史的な事情や現在の世界情勢などからなぜ戦争に至ったのか、それを終結させるにはどうしたらいいのかを、真剣に学び議論したらいいのではないでしょうか。

 

 

 

もう少し、議論ができるような素地が日本にもできたらいいなと思います。

福沢諭吉先生も「日本人は、西洋からの「思想の結論」のみを追い求めているが、それではいけない。その思想が日本においてどうなのかを議論をし納得した上で、取り入れるべきだ。」という趣旨のことを言っています。

 

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毎年3月11日に思い出すこと ~東日本大震災と復興への動き~

日本にとって大きな教訓となった東日本大震災ですが、当日は私は職場から帰宅できず職場に宿泊したことを思い出します。私の職場は首都圏でしたので、地震の瞬間はすごく大きな地震という認識はありましたが、その後何日も鉄道が動かなかったり、停電したりするほどとは思いもよりませんでした。

ある意味、のんきに構えていたと思います。

 

 

これに対して、自衛隊地震6分後には、情報収集のため全艦艇に出航命令を出しています。

これはすごいことで、危機管理の基本が現れていると思います。危機管理の基本は、何かが起こっている時に「大丈夫」という情報が無い場合には動くということだと思いま

す。「大丈夫ではない」という情報が届いてからでは遅いのです。

 

自衛隊が6分後に動くことができたのは、結果的には大丈夫だった場合にも、即時に対応することを積み重ねていたからだと推測できます。ある意味、「空振り」ですが、そういうことを積み重ねて、訓練をしているからこそできた迅速な対応だったのではないかと思います。

 

 

私も仕事をしていた頃、危機管理を担当する部署にいたことがあります。

「何かが起きた」という情報が入れば、基本的には即座に飛び出していました。現場に行って状況を確認して、できる限り素早い対応につなげることを心がけていました。トラブルや急患などいろいろありました。行ってみたら何でもなかったことも、たくさんありました。

それに対して、「無駄だ」とか「大げさ、過剰だ」という批判もありましたが、意外に感謝されたことも多かったことを覚えています。

 

 

東日本大震災でも、避難生活に入ってから多くの避難された方の声がメディアを通じて報道されました。現在でも強く記憶に残っているのは、インタビューに多くのお年寄りが「おかげ様で、何とかやっています。」とおっしゃっていたことです。

いろいろな映像が流れましたが、こういう感謝の気持ちを述べる映像は多かったと思います。

 

未曽有の災害で、大変な目に遭っているのは疑いようのない状況の中で、救援がうまくいかなかったことも多々あったのではないかと容易に推測できますが、それにもかかわらず、感謝の言葉の方が多い印象がありました。

 

 

大震災の後、日本が一つにまとまって、総じて復興に向けて前向きな雰囲気が醸成されましたが、そうなった原因の一つとして、被災者の方の「感謝」があると思います。

 

 

それぞれの置かれた立場で精一杯できることを行い、それに対して感謝の気持ちを持つという、ごくごく基本的なことが日本全体をポジティブな方向に向けたのではないかと思いました。

任務や善意で救済を行う人が被災者の力になりますが、反対に、被災者の方の言葉が、救援を行う人の大きな力になったのは間違いない事実だと思います。

これが、良い循環を呼んで、皆で復興に向かっていこうという大きな動きになりました。

 

災害復興に限らず、こういう良い循環は起こりえることを信じて、自分の生活に活かしていこうと思います。

 

 

「人は存在することに価値がある」と言うために ~不幸、被害者、弱者と思いこむ問題点~

人は存在するだけで価値がある。

それはどんな人でも人生の中で、人に安心感を与えているからではないかと前の記事で書きました。そして、多くの安心感を与えるためには、人生を誠実に生きる姿勢、寛容さがあることが大切だとも書きました。

 

 

反対に、自分で自分の価値を損なうような生き方もあると思います。

自分を「不幸」とか「被害者」とか「弱者」と決めつけて、相手への寛容さを失っていく態度を持つことだと思います。

 

現代社会では、マイノリティや社会的弱者に対して最大限の配慮をするような方向に動いています。そのこと自体は、とてもよいことだと思います。

ただ、そういう場合に、自分をマイノリティや弱者だと言い募り、配慮を要求する人が一定数は必ず出てきます。そのことの弊害は、思いのほか大きく、仕事をしていても必要な配慮の範囲を超えて「自分は弱者なので、人がやって当たり前。」という人が増殖し、職場の仕事が回らなくなったりします。社会の流れに乗っかって、そこから利益だけを得ようとする人です。

 

 

でも、よく考えてみると、自分自身をマイノリティや弱者、被害者と決めてしまって要求ばかりをする態度は社会的な弊害があるほかに、実は、その人自身に対して大きなしっぺ返しをしているように思います。

そういうメンタリティが自分自身を痛めつけます。

「自分は弱者なのに、・・・」というのが口癖や考え方の癖になってくると、人に感謝できない、寛容でない人になってしまい、自分自身が苦しくなってしまう。

職場にいたころ、周囲に迷惑をかける人たちを見て、痛感しました。

 

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配慮が行き届かない人、そういう社会に対して正当な要求をすることは、最大限尊重されるべきだと思います。でも、それを超えた要求をしたり、要求をするメンタリティに足を取られてしまうのは感心できないと思います。

 

 

浅田次郎さんの「おもかげ」という小説があります。

主人公は捨て子でした。

死を目前にしたとき頭の中を過去がめぐり、人生の幸福を再認識する。

 

涙を流しながら読みました(ああ、かっこわる!)。

 

主人公は、周囲から「親がいないから」という目で見られることを頑なに拒みます。「親がいないから」という見方は、その中に「不幸」という感覚が含まれます。

そのことを意固地なまでに拒絶して「自分は不幸ではない」と突っ張って生きることは安楽ではありません、

でも、そういう問題に真正面から対決してきた人生の終わりに、主人公が出会う幸せが見事に描かれていました。

 

 

結局、人生における損得は、目先の利害得失とは一致しません。

自分自身の経験からも、自分にとっての逆境が最も自分を成長させ今の幸せにつながっていると思います。今が幸せであればそれに感謝し、そうでなければ今が将来の幸せにつながることを意識して生きていけたらいいなと思います。

 

 

 

倍賞千恵子さん主演の「プラン75」という映画を見て、本当にいろいろなことを考えました。3回にわたって書き連ねてきましたが、これからも更に考えを深めていきたいと思います。

 

「人は存在することに価値がある。」ということの意味 ~映画「プラン75」が提示する価値~

「人は存在すること自体に価値がある」と言われることがあります。

「もともと特別なオンリーワン」(SMAP世界に一つだけの花)という歌もあるし、心理学では「人と比較して優れているからではなく、あなた自身の価値に気づきなさい」という言説もある。

なんとなく、わかったような雰囲気にはなりますが、でもわからない!

 

 

「自分は自分しかいなくて、他人と比べる必要はない」という歌や学問的説明は「存在することの価値」そのものを説明している訳ではありません。それを聞いても、だから「存在することの価値」とは何だろうという問いに戻ってきてしまいます。

理屈っぽいですかね。(笑)

 

 

 

「プラン75」という映画を見て、高齢者の価値について考えさせられました。自分もそう遠くない時期に75歳になります。あと17年。

 

 

 

市場価値という言い方があって、高齢者には市場価値がない。

嫌な言葉ですが、経済的な視点から見るとそうなのでしょうか。

(そのこと自体、疑問を感じるところもありますし、学問的な場面はともかくとして、採用担当者などがそういう言葉を人に投げつけること自体どうかと思いますが、ここでは論じません。)。

 

確かに、75歳以上の人は、判断力、体力など若い人についていけないし、経済的な視点から見れば、消費ばかりしていて、生産性はほとんどない。

経済的、社会的に、高齢者には価値がないというのが、今の社会一般の常識です。

 

 

姥捨て山という昔話があって、老人の知恵が村を救ったり、老人の思いやりが深かったりで、やっぱり老人にも価値があるという教訓になっています。

ただ、これを現代社会に置き換えてみると、老人の知恵はネットで代用できるし、老人が増えて、それとともに思いやりのない老人も増えている。若い人の中には、老人を「きたない」と言う人すらいる。

これじゃあ、やっぱり老人には価値がないということになるのか?

 

 

結局、昔話をもってしても、現代社会で通用するのは、「倫理的に老人を大事にしなくてはならない」ということしか残らない。だから、倫理なんて知ったこっちゃないという若者(若者に限りませんが)からしたら、老人には価値がないということになる。

直感的には「そんな滅茶苦茶な!」とも思いますが、現代社会においては、これは極論ではないような気もします。誰しも、そういう価値観を心の中に持っているのではないでしょうか。だからこそ、度を越して、歳を取りたくないと感じて、アンチエイジングにまい進する。

 

 

 

話を戻します。

それでも、存在することの価値ってなんなんでしょう。

 

一つ考えられるのは、例えば、親は子供にとって安心感のよりどころです。歳を取ってからも、親が生きているということだけで安心します。

親子の間でなくても、恋人同士や他人でも尊敬する人、共感を感じる人など、その人が存在する(いる)ことだけで安心することがあります。

個人的な経験からも、職場の同期だった人と死別した時、大きな喪失感を感じたものです。その人とは仲は良かったけれど、いつも一緒にいるという訳でもなく、そんなに強い感情を感じたことに驚いたりもしました。

人は、自分が思っている以上に、他の人の支えになっている。

 

人に安心感を与えるということが、存在することの価値なのではないでしょうか。

 

そういう「人から得られる安心感」に気づかない社会は、本当に殺伐とした社会です。

 

 

では、人として存在することの価値を持つために大切なことは何でしょうか。

それは、「優しさ」、「慈悲の心」、「寛容さ」、言い方はいろいろありますが、人を肯定的に受け入れ、その人の拠り所になることのできる姿勢だと思います。

 

 

映画プラン75では、身寄りのない老人を倍賞美津子さんが演じています。

「身寄りのない老人」は、経済的にはもちろん社会的にも無価値。身寄りがなく親しい友達とも死別してしまっているから、一見誰かの心の拠り所になっている訳でもない。だから、社会から拒絶され死を選ぶことを暗黙のうちに強要されます。

 

でも、映画では、主人公と「少し」関わった人たちが、主人公の死に「大きな」疑問を感じます。

 

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映画の主人公は、どんどんできないことが増え、社会から拒絶され、仲間も失い、それでも前向きな姿勢で生きて行こうとしていました。拒絶されても、人に対して誠実な態度で接し、人を心配し、人に感謝し、人を受け入れます。

そういう姿勢そのものに価値があるということだと思います。

それが、「少し」関わっただけの人にさえ、実は大きな影響を与えている。

 

そう考えれば、自分自身が存在することの価値を理解できるし、自分の存在することの価値を高めていくこともできる。

そんな風に考えて、今後の人生を送って行こうと思っています。

 

人間の価値とは何か。 ~映画「プラン75」の倍賞千恵子さんを見て~

年金問題少子高齢化など、連日のようにニュースで取り上げられています。

 

少子化の裏返しとして高齢者が溢れる。

少子化をなんとかしなければ」という世の中の雰囲気とともに、高齢者に風当たりが強くなっているように思うのは私だけでしょうか。高齢者は事故率が高い。高齢者は歩くのが遅く道の真ん中で立ち止まる。話を聞かないし、クレーマーもいる。

 

人がこんなに長生きをしなかった時代は、高齢者は長老として敬われ大切にされていました。でも、今や、街には高齢者が溢れ、邪魔者のように扱われる。

 

 

そういう時代背景で「プラン75」という政策が実行されるという映画です。

倍賞美津子さん主演で、国民は75歳になると自ら生死を選択することができる法律が成立した。主人公は、まだまだ働く意欲もあり一緒に趣味を楽しむ友人もいて、前向きに人生を送っていたのですが、友人も様々な事情から去っていき、失業を契機に世の中から拒絶されていきます。

倍賞さん演じる主人公は、結局、死ぬことを選びますが、役所の担当者、心理的なサポート担当者などプラン75を支える立場の人が疑問を感じて・・・。

 

 

作品の底に流れるのは高齢者を不要とする社会の暗黙の前提です。

こんな社会になったら怖いな・・・と思いながら見ていたのですが、ふと気づきました。既に高齢者を不要と考える社会になっているのではないか。法律はないけれど、国民の心の中にプラン75があるのではないか。

 

 

正面から「高齢者は不要」とは言いません。

でも、定年延長、総活躍社会などの政策から伺われるのは、働けない高齢者は要らないという価値観のような気がします。

 

働くから価値があるのではなく、存在自体に価値があるということを、再認識する必要があるのではないかと思います。働く場など経済的な場面だけではなく、生きていく中での具体的な価値とは何か、考えさせられる映画でした。

 

ラストシーンが大きな解決を暗示しているような気がしました(とてもいいシーンだと思いました。)。