スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

シニア男性のライフスタイル(1) ~ミニマムな住空間~

「60代の男子、自分探しの旅(序)」に書いたとおり、女性のライフスタイルについては夥しい数の書籍やサイトでそれが紹介されていますので、私は男性のライフスタイル、それも人生の後半戦のライフスタイルについて、提案してみたいと思います。

今回は住まいについて。

 

私の住まいは、都内某所にある古いマンション10階建ての高層階です。

個人的には新築のマンションよりも古いマンションが好きです。リノベーションで変更できない共用部分のドアとか窓、ベランダなどは古い方が味わいがあります。新築の共用部分は綺麗すぎて安っぽく見えます。

専有部分は古いままだと使えませんが、自由に手をいれたら住みやすくなります。

高齢の女性が書いておられる本で、旧公団住宅(今はUR住宅)に住んでいることが紹介されていたりします。古い建物をリノベーションしていい感じに仕上がっていますが、それと同じようなイメージです。

 

シニアになると一人暮らしになる人がだんだん増えていきます。

人によって事情は様々だと思いますが、1人で住むことはメディアなどで言われるような悲惨なものではありません。気楽に自分のスタイルを追求できます。

 

私は7~8年前に一人暮らしを始めてから大幅にモノを減らしました。ミニマリストと言ってもいいと思います。

ミニマリストについては、私の中での分類があります。大体以下のような感じです。

1 原始ミニマリスト

 とにかくモノが少ない。部屋はガランとしていて、生きていくのに必要なモノ以外は徹底的に減らす生き方を追求している。ミニマムな生活それ自体が目的のようにも見える。

2 合理的ミニマリスト

 モノが少なくなることのメリットを意識している。多くのモノに囲まれて生活していた人が、どんどんモノを減らしてたどり着く「モノの少ない生活」。モノの多い『実家』をスリム化した後の生活のイメージだと思います。すっきりして気持ちがいいけれど必ずしもオシャレではない。

3 スタイル重視のミニマリスト

 モノは少なくするけれど、必ずしも生きるために必要のない趣味のモノや潤いを与えてくれるモノも最小限は残す。

 

私が実践しているのは、3のイメージです。ゆる~いミニマリスト

ただ、ゆるいミニマリストにたどり着くためには1,2のノウハウは必要不可欠です。ミニマムな生活にたどり着くためには、やはりゆるくばかりはやってられない。まずは、合理的に考えて必要ないモノをどんどん減らして、減らしすぎスレスレのところまで減らします。

それをやった上でないと、「趣味」とか「潤い」とか言った瞬間、モノが爆発的に増えていきます。

徹底的にモノを減らしてみると、ミニマムな生活の利点が見えてきて、モノを増やすことがいろいろな意味で馬鹿らしくなります。このあたりの詳細は、多くのミニマリストの方が、ミニマムにすることの利点として述べています。

 

我が家には、趣味的なモノもある程度あります。また、モノを減らす過程で、減らすばかりではなく自分のライフスタイルに合うように家具などを買い替えたりもしました。原始ミニマリストや合理的ミニマリストの人とは違うところです。

例えば、最小限ですが観葉植物を置いたり趣味の器を飾ったりしています。また、家具は古いものを長い時間かけて探して購入しました。また、リラックスできるようにライティングにもこだわりました。マンションを購入した際の照明はおおむね付け替えました。

 

前の記事にも書きましたが、家の居心地が良くなると、カフェ代が節約できます。

 

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また、自分の理想に近づけば近づくほど、購入するものが減っていって支出が減ります。精神的な余裕も出てきます。

これも退職して時間や気持ちに余裕ができたからこそ、できたことだと思います。

これからの人生でも、楽しんでいきたいと思います。

 

シニア男子のライフスタイル(序)

本屋さんに行って見ました。

ライフスタイルに関する棚を見ると、「こんな風に生活しています。」、「こんなところに住んでいます。」、「自分の生活で大切にしていること」とか様々な提案をしている本が並んでいます。装丁もシックなものからポップなものまで色々です。

ただ、著者を見てみると女性ばかりです。

 

女性ならば、こんなご高齢の方の著書もあるのに、男性はない。

 

なぜなんだろう?

これだけ多様性が叫ばれ、ジェンダーに関する主張にあふれているのに、ことライフスタイルということに関しては、女性ばかりです。

例えば、「高齢男性のライフスタイル」って感じの本を見たことあります?

私が探したところだと、ほとんど無い。

 

 

(高齢)男性の生活を想像してみると・・・。なんだか荒んだ様子が思い浮かぶ・・・ということなんでしょうか?だから、誰も興味を持ちそうにないから本が出版されることも無いということ?

 

ネットで検索するともっと面白くて、「男性 ライフスタイル」というキーワードで検索したら、高級腕時計や服飾関係を紹介するサイトが多くヒットします。高齢男性のイメージは「趣味にお金を使う人」ということなのか?

更に、関連キーワードで表示されたのが

「男性 ライフスタイル に関連する検索
  自分に合った生活スタイル
  40代女性 ライフスタイル
  50代女性 ライフスタイル
  理想のライフスタイル 女性
  女性のライフスタイルの変化
  女性 ライフスタイル 多様化
  女性向けライフスタイル情報
  女性向け コラム」

 

「男性」というキーワードで検索したのに、関連するキーワードで表示されるのが「女性」だけ!!!なんで?

 

 

一応ムキになって探せば、男性のライフスタイルの本も全然ないわけではありません。

でも内容が、マニアックな趣味を掘り下げたり、高価なものを探し求めたりするものがほとんどです。「生活感のあるものは女性、社会に向けた仕事、趣味とかに関するものは男性」ということなんでしょうか?

でも、ジェンダーの観点から言うと「ふるっ(古)!」って感じ。

 

という訳で、「これまであまりなかった人生後半戦の男性の生活のデザインや暮らし方、人生についての考え方なんかをこれから綴っていけたらいいな。」と思っています。



人生の「先輩」方へ一言 ~「働かないおじさん」と言われないために~

60歳になりました。シニアの仲間入りです。

自分世代や年上の人について、前の職場で感じていたことや、退職してからの経験で考えたことなどを、自戒を込めて書いてみたいと思います。

 

現役の頃から、「働かないおじさん」については考える機会が多く、これからの課題になるだろうと確信していました。今回は、「働かないおじさん」の原因分析とかは置いておいて、私なりに「働かないおじさん」にならないためには、どうしたらいいのかを提案してみたいと思います。

一言で言えば「おじさん(おばさん)、もっと働きましょう。」ということになるのですが、私のイメージする理想の「働くおじさん(おばさん)」を書きます。

 

1 モチベーションを高く保っている

役職定年や再雇用になった瞬間からモチベーションがガタ落ちになるおじさんはたくさんいます。「もう出世は無いんだから、やりたいようにやる。」とか「給料も下がったし、この程度でいい。」とか公言してはばからず、「余生として楽に生きる」ことを実践すべく手を抜く。

でも、思うんですが、世の中先輩よりもずっと安い給料しかもらっていないのに一生懸命働いている後進がたくさんいます。その組織でも、国という大きな視点で見ても、周囲を支えている人たちがたくさんいます。勝手に余生の場としてはいけない。

その態度は周囲の足を引っ張り、組織全体の士気を下げています。

働き続けるのならば、モチベーションを高く保つ方法を自分自身で模索しましょう。

例えば、後進を助けることを生きがいにする・・・とか。

 

2 自分と関わる人に敬意を持ちつつ謙虚である

人間、年を取るに従い自分の意見が絶対だと思うようになります。年寄りは一度言い出したら考えを変えません。自分がそうなっていることに気づかない人もたくさんいます。

頻繁に「自分が正しい」と考えたり主張したりする人は、危ないと思います。自分自身で気づきましょう。

自分よりも若くても経験が無くても、その人の言葉にきちんと耳を傾けられる、また、そういう態度を取れる人になることが重要だと思います。

人は誰しも年を取るに従い「独りよがり」になりがちですから、謙虚な態度を「再度」身に着けようと意識するのがいいのではないかと思います。自分の態度は不遜になっていないか?態度はデカいくせに後進や周囲に依存していないか?常に顧みることが必要です。

 

3 周囲と協力して新しいことに挑戦している

IT、パソコン、DX等々から逃げ腰で後輩に迷惑をかけているおじさんは多く棲息しています。また、自分の経験の範囲内でしか働かない人も多い。

間違っても「僕はパソコンが苦手なんだよね。」と言って、後進に仕事を押し付けないようにした方がいい。自分自身では、「ちょっとやってもらっているだけ」と思っているかもしれませんが、その考えは厳禁です。私は、現役時代、そう言われると「じじい(ばばあ)。自分で学べ!」って思っていました(反省)。

古いやり方に固執するのもダメです。システムよりも「紙の帳簿がいい」などと口走ってはいけません。今そんなことを言っている人は、もう「恐竜の化石」並みという自覚を持ちましょう。

更に、多少自信のある人も「サポートする」という上から目線ではなく、後輩と協力して事に当たりましょう。技術は日進月歩です。若いも年寄りも関係なく、常に新しいものに対応していかなければなりません。

パソコンに限らず、新しいことにも「協力して挑戦する」という姿勢が大切だと思います。

 

4 後輩に成果を譲る

自分の上げた成果は後輩に譲りましょう。譲ったことは忘れましょう。

先輩方がまさにおっしゃるように「もう出世はない」し、「給料も上がりません」。何のために自分の成果だと誇る必要があるのでしょうか?

もしも自分の能力を発揮して成果を出せたとしても、自分自身がそれに満足するだけでいいのではないでしょうか。

自分と一緒に仕事をしてくれた後進に感謝し、成果はその後進のお陰であると手柄を譲るようにしましょう。

 

5 あとがき

前の職場でも今の職場でも、更に社会を見渡してみても、一部の誠実な人に負担が偏り、そういう人が社会を支えているにもかかわらず社会的に感謝の念も無ければ、報酬が支払われることもない。常々疑問に思ってきました。

働かないおじさんを始め多くの人が「一部の誠実な人」にぶらさがっています。

でも、現役世代の「一部の誠実な人」の多くは文句も言わず(言っても仕方ないから)、組織や社会にぶら下がる人のためにも日々仕事をしています。そういう誠実な人の負担が少しでも減るような社会になるといいなと思うとともに、そういう人が「もうそろそろ自分の人生を生きたい」と思ったときにお手伝いできたらいいなと考えて、自分の人生を模索しているところです。

 

図書館考 ~「参考書を持ち込んで学習をしてはいけない図書館」は当たり前なのか?~

1 図書館の現状

以前の記事で書いたのですが、今の多くの公立の図書館は朝からお年寄りが占拠しています。開館直後に入館して主に新聞や雑誌を読んでいます。

こういう図書館で、現役世代や学生が閲覧席を使おうとすると、かなりのプレッシャーを感じます。

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もちろん、シニア世代が新聞や雑誌を読むのも自由です。そのことについてとやかく言うつもりはありません。

でも他方で、やはり現役世代や学生などは使いにくい。

 

使いにくい理由としては、図書館が学習を禁止していることがあります。

「資格試験の勉強をしたり学生が試験勉強をするのは、遠慮してください。」ということです。新聞や雑誌を含め蔵書の閲覧はできるけれど、自分で持ち込んだ本や資料を読んだり勉強をすることはできない。

でも、現役世代や学生が図書館を使うとすると、大抵は勉強、自習をする場所を求めているのではないかという気がします。確実にそういう需要があると思う。

 

また、パソコンなどの電子機器の使用を禁止しているのも理由の一つではないかと思います。

現在、何らかの調べ物をしようとしたら、ネットで調べることは不可欠ですが、それが禁止されている。「図書館の外でやってください。」ということです。

調べ物をしようにも使いにくい。

 

現状は、多くの公立の図書館はお年寄りに新聞雑誌を読んでもらう場所になっています。自習を禁止して、電子機器の使用も制限してその他の世代が使いにくいから、図書館の利用者はお年寄りに偏っているわけです。

 

2 図書館で学習することは悪いことなのか?

私は昔からずっと疑問に思っていました。

そして、一度ならずこの疑問を口にしたこともあるのですが、大体「図書館は図書館にある本を読むためのところであって、自習をするところではない。」とか「図書館にある本を使う訳でもないのに、図書館で勉強するのはおかしい。」とか言われました。

でも、この理屈に私は納得できません。

 

「図書館はその蔵書を読む場所」という理屈が必然的に、自習を禁止することに結びつかないと思うからです。

そもそも図書館は国民や市民の教養を深めるためにあるもので、そのためには図書は不可欠ですから、国や地方公共団体が図書館を運営しています。

でも、教養を深めるために必要なものは図書に限りません。

だからこそ、最近(と言ってもかなり前からですが)では、図書館によっては蔵書だけでなく、視聴覚室があったり、現在ではインターネットに接続したパソコンがあったりする。図書だけではなく、DVDなどの記憶媒体やネットなどから、知識を吸収することが、最近の図書館では想定されてきているわけです。

こういう状況の下、多くの図書館で、利用できるものを図書館の蔵書や限定された(備え付けの)電子機器に限定し続ける理由とは一体何なのでしょうか。

 

すでに時代は、図書館が「勉強をするための場所」となることを求めているのではないだろうか?と私は思ってしまいます。

図書が図書館のものかどうかとか、電子機器が図書館備え付けかどうかとかいうのは、些末なことなのではないか?知識を吸収するための物が自分で購入した参考書や本であっても、あるいは持ち込んだパソコンで検索した情報であっても、そこで勉強、自習をすることは許されるというのが自然な考え方なのではないでしょうか?

 

3 新しい形の図書館

結局、図書館をどういう風に使ってほしいのかというのは、もっと自由に図書館側が決めていいのではないか。「図書館で自習は禁止」というのを当たり前の前提とすることなく。

 

そんなことを考えていたら、都内に見つけました(ここには具体的に書きませんが、ネットで検索したら簡単に見つかります。)。

正面から自習を認める図書館です。また図書館で声を出して読んだり、ディスカッションをすることも想定されていて、コワーキングスペースがあったりします。持ち込んだパソコンの使用が許されている席も多くあります。

行ってみたら、閲覧スペースがとても広く、席数も多く確保されていて、すごくいい感じでした。

 

全体の印象としては、勉強している人が多い。勉強している人の属性としては、現役世代や学生など多岐にわたる印象です。もちろんシニア世代が新聞、雑誌を読んでいたりもする。

図書館が、全世代に開放されている感じを受けました。それぞれの人がそれぞれの方法で教養を身に着けようとしている。

やっぱり、図書館はいろいろな人が利用できるようにした方がいい。偏狭な理屈で排除する人を作らない方がいい。

 

4 図書館の役割

伝統的な図書館の在り方についても、それぞれに根拠があって、それなりの合理性はあったのだろうと思います。一概にダメだと言うつもりはありません。ただ、他方でそれがすべてだとも思わない。

時代に合わせて役割は変化してもいいんじゃないですかね。

 

新しい試みをしている図書館に行って思ったのですが、本を読んだり、パソコンのサイトを見たり、皆それぞれの方法で一生懸命に自分を向上させようとしていることが感じられました。こういうスペースが増えると、きっと優秀な人材が自然と増える。

 

今の日本は人材を育成するモチベーションが著しく低い。また、優秀な人材を外国から受け入れようとしているようにも見えません。こういう弊害を打破するためにも自らで研鑽して成長する人をサポートするような施設の存在は不可欠だと私は感じます。

また、様々な人材が育つことにより多様性を後押しすることにもなるような気がする。

 

図書館の役割は大きいと思う。

会社員や公務員の将来について ~33年組織で働いて気づいた課題~

退職をする頃、心配していたことがあります。

日本社会は、このままで大丈夫なのか?

 

私の印象ですが、自分自身が若い頃(四十代中頃まで)は、「利用者である国民のために組織はどうあるべきか」とか「日本の社会の動きを勘案しつつ自分たちの組織は将来どうなるべきか」ということを意識しながら仕事をしていたと思います。

別に、日々のルーティンでそういうことを考えていた訳ではなかったけれど、ちょっとした仕事を処理する時に、それを考えているのと考えていないのとでは大きな差があったと思います。

よく「ほうれんそう」が大事だと言われますが、じゃあ、何でも報告、連絡、相談をすればいいかというとそうではない。常日頃から、そういうことを考えていれば、問題が起きた時に自分自身で判断でできる幅も広がります。

当時はすぐに「どうしたらいいでしょうか。」と上司にお伺いを立てる人を見ては、「使えねえ奴」と思っていました。

 

ところが、退職する頃には、「とにかく上に報告して、相談しろ」という風潮に完全に変わっていました。

自分限りの判断で問題を解決しようとしたりするのは言語道断で、問題が起こったらすぐに上と相談しなければなりませんでした。「どうしたらいいでしょう?」と。

 

こんなことがありました。

コロナが流行し始めたころ、職場の出勤率を半分に下げたことがありました。

エッセンシャルワークと言われていた職種であったため、全てリモートとはならず、自分の部署でも管理職である私一人とその他数人が出勤していました。人手が足りず、みんな必死に目の前の仕事をこなしていました。そういう状況の中、その日はクレーム対応が数件(4~5件)ありました。結果的には、部下職員では手に負えず、私が対応して納得してもらった案件もありました。

 

後日、その日のことが話題となった時に、怒られました。

報告がないことと、勝手に対応したことについて、「なぜ、クレームが入った時点で報告しないのか」、「なぜ勝手に対応するのか」ということでした。

 

最近は「クレームが入る」ということ自体が報告をしなければならないことになってしまっています。

独自の考え方で理屈を振り回してくる利用者に対して丁寧に手続きを説明するような場合、つまり通常業務の範囲内のことであってさえも報告を求められるようになってしまいました。

クレーム対応がデフォルトのような職場でしたから、それをいちいち報告していたら現場の仕事は回らないのに。

 

じゃあ、報告、連絡、相談をしたら、きちんと組織として対応ができるのかと言うと、そんなこともありませんでした。むしろ、話がややこしくなる。

 

 

もう一つの例です。

私の働いていた職場の建物は大きな建物でしたが、来庁者の安全のため、通常は屋根のあるところまで車を横付けすることは禁止されていました。

ある日、車椅子で来ていた人が帰ろうとしていました。でも、その時は、ちょうど台風が日本列島を直撃していて雨風がピークに差し掛かる頃でした。

 

そういう状況ですから、建物を管理する部署に連絡し、屋根のあるところまでタクシーを付けられるように了解を取りました。

ただ、大きな組織でしたので、その調整は複数の部署を介して行わざるを得なかったので、一抹の不安がよぎり、車椅子の人たちが帰るときに、私も建物の出口まで同行しました。

案の定、建物の入り口に立つ警備員から「タクシーは、建物に横付けはできない。」と言われました。

 

その後の対応については、ここに書くことは省略しますが、こういうことが頻発していました。報告、連絡、相談をしても、組織がうまく動かない。

 

 

ただ、私は「こんな風に自分のいた組織は最低だった。」と言いたいわけではありません。多くの職員は一生懸命に仕事をしていたし、組織としてもとても真面目だったと思います。

それなのに、どうしてこんなことになってしまうのか?

私が思うに、些末なことで忙しすぎて仕事の全体像を見る人がいなくなってしまったことが原因ではないかと思います。

そのクレームは組織全体として共有しなければならないものなのかとか、配慮が必要な人がいた時に、最終的にどういうことをしなければならないのかとか・・・、そういうことを考えイメージする余裕があれば、不必要にすべての報告を求めたり、逆に、連絡調整をしなければならないことが漏れたりすることはなくなるのではないかと思うのです。

 

日本の社会は、些末な間違いに目くじらを立て、執拗に攻撃する異様な様相を呈してきています。私のいた職場だけでなく、多くの職場がそういう本質とは関係のないものへの対応や準備といった「ブルシットジョブ」で埋め尽くされ、本質的なことを考えることができなくなっています。

でも、世の中の大きな流れは未来永劫同じではありえません。

社会の流れが変わって、もっと「本質的なことを考えよう。」という風潮が出てきたとき、心ある公務員や会社員の人が健康でいて、活躍できることを祈るばかりです。



 

自己決定の大切さ ~他人に決めてもらう人生からの脱却~

山本文緒さんの「恋愛中毒」を読んで思いました。

自分の人生を自分で決めて来なかったことの反動は、おそろしい。

「自分勝手。」と言われても、「わかっていない。」と言われても、自分で自分の人生の方向性を決めることが重要。人に合わせて生きるようなことはしない方がいい。

そうでないと、常に、人に依存することになる。

 

この小説は、結末が物議をかもしています。

色々な感想がありますが、私は、この結末しかあり得ないと思う。自分の人生を人に委ねた結果は、これしかないと私は思います。

私たちは、ストーカーと化したり、完全に壊れてしまったりした人を自分からかけ離れた存在として感じているけれど、実はこんなにも近い距離にいるということに気づきました。

 

主人公の考えるようなことは多くの人が考えるのではないでしょうか。でも、主人公が取った行動を多くの人が起こすかというと、それはそうではない。そこには溝があります。でも、その溝は皆が考えるほど、実は深くも大きくもない。

考えることと行動することの間には、一般に思われているほどの距離はない。何かの拍子に、自分もその溝を跳び越えて、同じ行動を取ってしまうかもしれない。

そう自覚した方がいいじゃないかと感じました。

 

溝を跳び越えないためには、自分の人生の方向性を含め、自分のことは自分で決めることだと、この作品は訴えているように感じます。

主人公と同様な思考パターンに陥り、自己主張せず、周囲に合わせて波風を立てずに生きるのは、自分の人生を他人に決めてもらうことと同義です。他人に依存し、他人に決めてもらう。自分の人生がうまくいかないと他人を恨む。

そういう過程を経て、他人を傷つけることを、正当化して生きていくことになる。

 

自分で自分の人生の方向性を考えない若者は、自分の人生がうまくいかないのを親のせいにし、学校のせいにします。壮年になって生活がうまくいかないと、政治や社会のせいにします。年を取ってからは、変化した社会や国の施策のせいにする。

確かに、親にも落ち度はあるし、学校や社会にも至らない点がある。でも、完璧な親もいないし、完全な学校制度や社会も存在するわけがない。

気持ちはわかるけれど、親や社会の問題点は棚上げして、自分はどうするのかを考えていこうとする努力が大事です。

 

自分の人生を自分以外のものに委ねてしまうのは楽です。

でも、人に決断をゆだねる人生、そんな人生、楽しいですかね?

早期退職後の理想の生活 ~人生の目標を考える。~

前の職場にいた時には、常に目の前の仕事が忙しくて、なかなか人生について考える時間がありませんでした。

このブログを読んでくださっている方には、「理想の人生」のイメージを聞いてみたいという衝動を覚えたりもします。

 

仕事に忙殺されていた頃に考えていた理想の生活像は、

1 仕事上の異常なプレッシャーや仕事量に押しつぶされない。

2 家族の健康、あるいは介護などの問題に向き合う余裕を持てる。

3 楽しいことをする時間がある。

4 自分の人生に向き合う時間がある。

というような、その時の生活ではできなかった不満なことを裏返しにしたものでした。

 

でも、早期退職をして、実際に時間ができてみると、1~4はすべて自分の人生を普通に生きるための条件であって、「理想の生活(人生)」とは呼べないことに気づきました。

「理想の人生というのは、1~4までの条件を充たす生活ができたとして、具体的にどういうイメージなの?」ということです。

 

 

どういう人生が理想かは人それぞれですが、・・・。

私は、自分の人生を自分でデザインできる人生ということだと思います。これまでの人生をベースにしつつ、でも仕事などに時間を取られすぎたりとらわれたりせず、これからの人生はどうしたいのかを、時期に応じて自由に考えていきたいと思っています。

 

このブログに書いてきたとおり、私は前職を辞めて再就職をしました。給料は激減しましたが、他方で得難い経験もさせてもらっています。また、退職後2年が経って、経済的には大きな心配はなく暮らしていけることも実感としてわかってきました。

そこで、現在の目論見としては、

現在の仕事を年内を目途に辞め、その後は、ここまでの経験を生かした仕事をすることを模索しようと考えています。そのための準備は現時点ですでにスタートを切っています。

 

まだ、どうなるかはわかりません。でも、再度新しいことにチャレンジすることで、さらに具体的な人生の理想像も見えてくるかも知れないと思っています。

 

振り返ってみれば、退職後すぐの頃は、「50代での再就職は厳しいと言うけれど、実際どうなのか」、「退職してからどうやったら生活していけるのか」を実際に体験してみようと企てていました。新しい経験をすることへの期待もありましたが、不安でいっぱいだったのを思い出します。

現在も同じような心境です。

ブログの更新をさぼりつつ、いろいろ考えています。