スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

自分の人生を生きるには ~一人時間が重要性~

退職して人生を大きく変化させようと、いろいろ考えてはいるんだけど、なかなか決断できませんでした。

 

退職したいと漠然と考えるようになってから、実際に退職するまで20年以上の時間を要しました。お金の問題とか、メンタリティーの問題もありましたが、こういう問題が解消されても、なお決断ができなかった原因がありました。

 

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1 ただ思うことと考えることの違い

通勤電車の中や、職場の休憩時間など、「ああ、もう辞めたい」と考えることは多かったと思います。でも、これは、嫌なことがあった際に(通勤自体いやでしたし)、それに反応して「もう辞めたい」と思っていただけなんです。

 

本当に退職しようと決断した時のことは、よく覚えています。多忙を極めていた時期でしたが、1人で公園を歩いて桜を見ていた時に自分の今後の人生について。「このままでは、人生の展開はないから、仕事は辞めよう」と突如決めることができました。それまでも、あーでもない、こーでもないと1人で考えてきましたが、その瞬間に「辞めるしかない」と納得できたという感じです。

 

何か違うのかと言うと、何かに反応したのではなく自分が主体となって考えたということだと思います。

 

普通の生活の中では、自分の周囲のいろいろな出来事に反応して、考えています。問題が起きたからどうしようかとか、嫌なことがあるからどうしようかとかです。

自分の人生の方針など重要なことを考えるためには、単発の刺激とは関係なく、自分はどうしたいのかという心の声に向き合う時間を作る必要があると思います。

 

自分が主体的に考えるには、刺激の洪水から離れて、あえて1人になって自分の考えを巡らせることが有効ということです

 

 

2 ライフスタイルに落とし込む

そのためには、1人で考えることを生活に組み込むことを考えてもいいと思います。

 

一人旅をすると移動時間にいろいろなことを考えることができます。

1人で飲みに行くと、自分の世界に没入して考えられます。じゃないと、間が持たないですからね。そのために一人飲みすると言ってもいい。

散歩もいいと思います。ある程度長い時間歩くことを楽しむようにすると、自分の深いところで暖めていた思いが浮かんできます。

美術館とか博物館などにも1人で行くと、展示からインスピレーションやサジェスチョンを得られることがあると思います。

一人時間は、それ自体を楽しみながら、自分の人生を自分が主体的に考える機会になります

 

人生の岐路というほどのことでなくても、一人時間を積み重ねることで、主体的に考え実行に移すできますから、人生が徐々に変わる可能性が高まります。

 

 

 

ちなみに、私は、息子たちに、人生の決断を要する時に親に相談してはいけないと伝えています。

親は、保守的な安全な選択をするようにと言うことは目に見えています。そんなものに惑わされる位であれば、一人時間を過ごして、自分で決めるようにしてほしいと思うからです。

 

 

一人時間は、それ自体が贅沢時間でもあります。

というわけで、週末は新宿御苑を1人で散策してきました。

新海誠監督の「言の葉の庭」という映画の舞台になったところです。主人公が雨の日にいつも来ていた東屋は・・・「立ち入り禁止」でした。残念。

主人公が一人時間を過ごしていたところです。

 

「人に迷惑をかけないよう頑張る」という考えは捨てた方が楽になる。

2億年以上前から繁栄を極めた恐竜が絶滅したのは6500年前、大きな環境変化に対応できなかったためと言われます。氷河期か隕石の衝突か日照りかはわかりませんが、そういうものに対応できなかった。

今に生きる我々も同じだと思うことがよくあります。

 

公務員をやっていたときに、大変申し訳ないのですが、目の前にいる人が恐竜に見えることがよくありました。ブラキオサウルスとかトリケラトプスプテラノドンもいたな。

一度決めたことをどんなことがあっても修正できない上司、自分の若い頃のやり方に固執するベテラン、人のやり方の批判ばかりで自分が変わろうとしない若者・・・。

でも、他人事ではありません。自分もそうだったのです。

 

自分も、自分の考えを変えることができなかった。

「人に迷惑をかけてはいけない」「頑張らなければならない」という考えに囚われて、そういう生き方を続けていました。文句を言いながらも、人より頑張り、迷惑をかけないように休暇も取らず働き続けました。

そういう考え方がいつも間違っているわけではありませんが、金科玉条のように固執し続けたら、自分が壊れてしまいます。

 

20年前、過重な仕事に押しつぶされそうになっても逃げずに頑張って、うつ病を患いました。

病気を治すには、薬を飲めば楽になるのか、休職したらいいのか・・・いろいろ悩みましたが、病気になった根本的な原因は、自分の考え方、ものごとに向かう姿勢を変えられないことに原因があったのだと、今は思います。

人生の局面に応じた考え方ができるようになることが必要だったのだと思います。

 

気づくまでに、長い時間を要しました。

人に迷惑をかけないように頑張っては、それに報いない社会や組織にストレスを溜める・・・という悪循環からなかなか抜け出せませんでした。

でも、頑張りを搾取されるような組織、社会に生きていて、「頑張らなくてもいいし、人に迷惑をかけるのはお互い様」と次第に思うようになりました。

だからと言って、自分勝手に人に迷惑をかけ始めた訳ではありません。仕事のやり方生活自体は、それほど変わりはしませんでした。でも、考え方が変わったせいで、微妙に日々の仕事や問題に対する姿勢が変わりました。文句を言われても休暇を取るとか、機会も捉えて意見を述べるとか、気づかれないようにバックレルとか・・・。

 

それでもいいんだと意識するようになってしばらくして、いつのまにか病気が消失しました。

 

また、「頑張らなくてもいい」という発想は、人生の重大局面での判断にも大きな影響を与えました。

仕事がどんどん忙しくなり、これ以上働いていても、状況が良くならないと気づいた時、「人に迷惑をかけてもいいから、頑張らなくてもいい人生にシフトチェンジする」という決断ができました。「迷惑をかけないように頑張る」という考え方を変えていなければ、周囲の人のことを気にして、結局、退職せずにずるずると元の生活を続けていたと思います。

 

更に、前にも書きましたが、同じ考え方を持ったまま人生の決断をしても、例えば、同じような職場に転職してしまい同じような苦労をするなど、同じような人生を再び歩むようになることに気づきました。

退職を決断できたことも重要ですが、退職後に求める人生の内容も重要です。

 


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「頑張って人に迷惑をかけないようにする」というのは、多くの人にとってテッパンの価値観となってはいないでしょうか。この価値観は、日本の教育における信仰の対象であるかのようです。

でも、そういう価値観も絶対的なものではありません。自分が恐竜のように絶滅する前に柔軟に変えた方がいいことも多いと思うのです。

 

ミニマムな生活 ~年賀状の断捨離~

年末が近づいてきて、年賀状を書く季節になってきました。今年は、年賀状じまいというのが話題になっています。でも、私には関係ありません。なぜなら、もう30年近く年賀状は出していないからです。

 

昔は「ミニマリスト」という言葉もありませんでしたが、30年前くらいから自分の周りの物を減らしたいと痛切に思うようになりました。精神的な病気になり、結構長い時間休職せざるを得なくなり、その時に「やらなければならないことが山ほどあり、物が山積みになっていて、つらいなあ」としみじみ思ったことが最初のような気がします。

茶道や禅の考え方などに触れる機会があり、さまざまなことに執着する生活に疑問を感じるようにもなっていました。

 

こういうミニマリズム的に年賀状じまいをした私としては、ちょっと今年の年賀状じまいのやり方には疑問を感じます。

ネットで検索してみると、年賀状をやめるにあたって、今年の年賀状に記載することの注意点がヒットします。そうか、年賀状じまいというのは、最後の年賀状のことなんだと初めて理解しました。

概ね以下のようなことを書いて今年の年賀状を出すことを推奨しています。

1 年賀状じまいの理由
2 全員に出している旨や今後の付き合いは変わらないこと

3 いつから辞めるか

4 SNSやメールなどの連絡先

 

年賀状をやめるのにも、ものすごい手間をかけるんだなあと感心してしまいます。

反面、私としては、感心はしますが、自分には絶対できないとも思ってしまいます。

 

年賀状をやめる理由は「もう必要ないから」に決まってるし、「付き合い」を続けたくない人には何て書くんだろうと思うし、いつからやめるかって、それは「今でしょ!」。

SNSの連絡先を記載することに至っては、年賀状だけの付き合いで済んでいたものが、簡単に連絡が来るようになり、今後手間が増えるのではないかと心配にさえなります。

 

 

だから、私は、基本的には何も言わずいきなりやめてしまえばいいのではないかと思うのです。

30年前ですら、自分が付き合っていきたいと思う人はみな理解してくれました。

 

 

「君子の交わりは淡きこと水のごとし。小人の交わりは甘きことれいのごとし」という故事成語があります。

「小人物との交わりは甘酒のように甘ったるしくべとべとしている」というのです。言い得て妙だと思います。だから、そういう交わりは早期に断捨離した方がいい。

過剰な情や利害得失から距離をおいた「君子の関係」を大切にしていけばいいのではないかと思います。

窮地に陥ったとき小人は離れて行く。君子はそういう時こそ助けようとする。

 

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学問のススメ 炎上させるのではなく、議論することの重要性

ワールドカップも終盤です。

ビールを飲みながら、「そこで選手交代だろー」とか「何でそこでシュートしないんだあ」とか言いながらスポーツ観戦するのって、楽しいです。

そんな昭和なオヤジは、息子たちからするとうるさいらしく、「じゃあ。自分でやってみろ」と言われたりもします。

 

 

そういう私ですが、ネットやマスメディアを見ていると、「じゃあ、自分でやってみろ」と言いたくなることが頻繁にあります

今回のワールドカップなどのスポーツだけではなく、本当に様々なことについて、公的な場で批判的なことを述べる人に対して、「じゃあ、自分はできるのか」と突っ込みを入れたくなることが本当に多いのです。

 

ワールドカップサッカー日本代表に対する中傷は、そういう社会の縮図のような気がします。自分は安全地帯にいながら、他人の上げ足を取ったり、批判をする。そういう人が世の中に溢れています。

 

少しさかのぼりますが、コロナが流行し始めた時、政府の決断が遅いとか間違っているとか連日、朝から晩まで非難をしていたマスメディアを思い出します。誰も正解がわからない状況で、批判ばかりを繰り返していました。

あらゆることについて、実際にその問題に対峙している人に対する敬意が全くない社会、そのなれの果てが炎上社会なのだと思います。

 

 

1か月ほど前、港区三田の慶応大学の中にある「福沢諭吉記念 慶應義塾史 展示館」に行ってきました。

 

建物は歴史を感じる重厚なもので圧倒されますが、勇気を出して入ってみました。平日だったこともあり、中は人が少なく、アカデミックな雰囲気に酔いながら、展示に没頭することができました。

福沢諭吉の言ったことや書いたことがパネルでわかりやすく説明されています。

 

福沢先生は、「日本人は欧米がいいとなれば無批判にその結論を追い求め受け入れようとする」と指摘されていて、自分の頭で考えて、必要があれば議論をして判断をすることの重要性を説いていました。

 

「これが正しい」という結論を求めて右往左往する日本人を見るに見かねたのでしょう。自分の頭で考えて、自分で判断する。そのためには、必要があれば、人と議論をして反対の立場をも深く理解し結論を模索することが重要と、明治の社会に発信していたのです。

 

企画展示では、千葉県の小さな村落が「学問のすすめ」の影響を受けて、言論で当時の行政を動かした「長沼事件」を取り上げていました。

 

言論を対等に戦わせながら、結論に迫っていく姿勢の大切さを強く感じました。そういう過程で反対の立場の考え方への理解も深まります。

安全地帯から自分の考えを人に投げつけて炎上させるのとは、一線を画する考え方です。とても勉強になりました。

 

 

前述のコロナ報道を挙げるまでもなく、マスメディアの批判の洪水には目に余るものがあります。

ただ、それに付和雷同しているのは我々です。結局、みんなと同じ「正しい結論」が欲しくて、それを与えられることで安心してしまう。だから、マスメディアも「これが正しい」という結論を示そうとするのではないでしょうか。

 

個人的には、そういう風潮には厳に惑わされず、一般に良いとされていることを批判的に検討し、悪いとされていることもその背景を理解した上で悪いのかどうかを検証するという姿勢を失わないようにできたらいいなと今回の展示を見て改めて思いました。

ともすると反対意見を理解しようとする姿勢自体が批判されるような社会ですが、目立たなくても、粛々と人生を歩んでいきたいと思います。

自分は自分、人は人ですから。

 

 

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人手不足が原因の一つで起きた保育園園児暴行事件で、保育園はもっと忙しくなる。

1 保育園だけではない。今の組織の問題点

保育士の園児暴行事件が耳目を集めています。少し前には保育園のバス園児放置事件もありました。

事件を起こした人の不注意、自覚不足、故意などが直接の原因であることはもちろんなのですが、いつも指摘されることがあります。「人手不足」です。

富士山麓のバスの事故も人手不足が遠因だと言われ、保健所のコロナ対応が間に合わないのも人手不足と言われていました。

 

今の日本の組織のほとんどは、少子化が進み昔のように豊富に人材が供給される訳でもなく、人件費も豊富に使えないですから、人手不足が前提です。

 

ただ、それに加えて問題なことがあります。

「人が増えないのに、仕事が無限に増える」ということです。

 

昔に比べて、本来の業務が複雑、高度になったということはもちろんあります。

ただ、それだけではなく、情報の管理とか危機管理とか昔はなかったような業務が増えています。

また、働き方改革などで実働時間が減ることでやる事の密度が増えました。

加えて、ミスがあると執拗に叩く昨今の風潮のために組織が守りに入ってしまい、アリバイ作りの仕事がどんどん増えています。何にでもパスワードをかけたり、帳簿をつけたり、報告書を要求したり、読み切れないようなマニュアルを作ったり・・・。

 

限られた時間で人手は増えないのに、本来の業務以外の仕事がどんどん増えている。そうすると、当たり前ですが、本来の業務に充てる時間も人手も減ります。

本来の仕事をしたくても、それ以外の仕事に忙しすぎてできない。

 

これは、私が働いていた組織で起こっていたことですが、おそらく保育園も含めてどこの組織でも似たようなことが起こっているのではないでしょうか?

逮捕された保育士も忙しかったと述べているようです。

 

 

2 問題を解決するための本質的な対策

保育士としての本来の仕事は、園児に質の高い保育を行うことです。

常日頃、質の高い保育とは何なのか考えていたとすれば、保育園で行うべき保育のイメージが共有されますから、暴行事件などということは起きなかったと思えてなりません。

しかし、そういう時間は無かったのだと思います。

 

仕事が増えるのに人が増えない今の社会では、無駄な事務を徹底的に減らしながら、本来の仕事がどうあるべきなのかを考えたり、あるべき仕事の姿に近づけるための努力をし続ける必要があります。

アリバイ作りのための仕事などしている場合ではないのです。

 

 

3 保育園問題で心配なこと

おそらく、今後、保育の質を高めるにはどうしたらいいか検討をしたり、実践したりするようになるかというと、そうなならないと思います。

問題を起こした保育園は、アリバイ作りのために、どういう対策を取ったかを社会に示す必要がありますから、「バスを降りるときの手順とかマニュアル作り」、「暴行をしないための保育士の管理の方法の検討」などの仕事が更に増え、現場はもっと忙しくなると思います。

更に、こういうことが二度と起こらないようにするために、全国の保育園で色々な管理業務やマニュアルが増えることになります。

 

全く同じことが職場で起こるのを、何度も見てきました。

 

 

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ねこが好きになった。

犬派、猫派というのは、決着が付かないけど重要な問題です。

私は、犬も猫も大好きですが、最近はやや猫寄りです。

 

出会いでは犬との出会いの方が早く、予備校生時代、叔母の家に下宿させてもらったとき、3匹の座敷犬がいました。プードルが2匹とダックスフント1匹

ブランド犬ですが、まあ、はっきり言って「バカ犬」で、3匹ともできるのは、最大限で「お手」のみ。それも何か食べ物がほしいときだけ。

無駄吠えはするし、言うこと聞かないし、動物の死骸は持ってくるし。どうしようもない犬たちでした。

 

散歩に行くときは3匹で阿鼻叫喚の大騒ぎ。リードをつけなきゃ散歩に行けないのに、興奮してリードをつけさせないような、残念な犬たちでした。風邪をひいて寝ていると、布団の要所に一緒に乗っかるものだから、私は、ガリバーが地面に固定されたみたいになってました。今日は静かだなと思っていたら、3匹で協力して窓を開けて脱走していたこともあります。

でも、かわいかったです。

夜帰ってくると、玄関で待っていたり、家にいるときは必ず近くにいて、必ず体の一部をくっつけていたり、・・・。

このときから長らく私は犬派でした。

 

ねことの出会いは、5年ほど前、離婚して現在のマンションに引っ越してきてからですから、随分最近です。

当時、マンションは規約で犬とか猫は飼えないことになっていたので、飼ったわけではないのですが、マンションの周りに地域猫がたくさんいました。毎日餌をやっている人がいるみたいで、なんとなく満ち足りていて、ごみを漁ったりすることなく、地域と共生している感じを受けました。

 

でも、2年間くらいは、まったく興味もなく過ごしていたのです。

ところが、当時、猫好きの人と付き合いがあって「もふもふした小動物がかわいい。特に猫がかわいい」と繰り返し吹き込まれていました。そのタイミングで、夜仕事から帰宅していたら、1匹のハチワレ(白黒の猫)が寄ってきて、足に頭突きをしていきました。

後から知ったのですが、頭突きって、猫の愛情表現らしくて、その後は会うたびに背中をなでてやったり、話をしたりするようになって今に至ります。

彼?と出会ってから、少し猫派になりました。

会うとこんな感じです。

 

 

それからしばらくして、違う縄張りで、2匹のペア猫とも出会いました。

ハチワレとグレーの猫で、いつも2匹で行動しています。親子なのか、夫婦なのか、あるいは・・・関係はわかりません。

この2匹は、目つきは悪いし、長い間、こちらが近寄っても睨んで向こうからは近寄って来なかったのですが、ある時日向ぼっこしていた時に話しかけたら、少しずつ距離をつめてきました。2匹だからでしょうか、1匹が近づくともう1匹が更に近づくということを繰り返し、ついには2匹が足元にくっついてしまいました。

最近でも、必ず近づいてくるわけではないのですが、気が向くとにゃあにゃあ鳴きながら、近づいてくるのでなでてやっています。

日向ぼっこのときはご機嫌です。

 

 

最近では、3匹とも本当にかわいくなってしまい、出かけるときはできる限り彼らの縄張りを通って、姿を探してしまいます。

 

飼い猫とは違って、目つきは鋭いですし、気が向かなければ見向きもしなかったりします。でも、確かに少しずつ慣れてきていて、本当にかわいいんです。

「うぜえなあ」という感じで、でも鳴きながら律儀に寄って来る。

 

最近気づいたことがあります。縄張りを通って出会う時は、必ず正面から歩いてきます。出会い方が大体いつも同じで、私の前方に猫がいて、彼らが偶然前から歩いてくる。

本当に偶然なのだろうか???

 

実は、猫の方が先に私に気づいていて、偶然を装って出会っているのではないだろうか???

疑いながら、今日も「偶然会える」ことを願って、歩いています。

 

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休職した時、退職の決断の時、釈迦の教えはありがたかった。

うつ病で精神科に通いながら、随分本を読みました。振り返ってみると、人生で本を読むいい機会になったのかもしれません。

休職しているときには、何とか回復へのきっかけがほしくて、難しくても哲学や宗教の本を読んだりもしました。

 

様々な本を読んでみましたが、最も惹かれたのは仏教の考え方です。

何かを信心したいということではなく、「釈迦って、どんなことを言ったんだろう」という興味から勉強するようになりました。

 

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老(スリランカ上座仏教の長老だそうです)の本をよく読みました。お釈迦様の教えがわかりやすく書かれています。

怒らないこと」という本は、現状に不満を抱えていた私を相当楽にしてくれました。頭痛、抑うつ感、吐き気などのうつ病の症状に苦しんでいたころ、わりと即効性がありました。自然に気持ちが楽になりました。

 

怒りの感情が自分を幸福にすることはありません。経験的にも、どんなに理屈をつけても、振り返ってみると怒ってよかったことはないと思います。

今のネット社会を見ていても怒っていいことはないことは明らかだと思いますし、自分自身にとって「怒ること」は猛毒だと著者は言っています。

議論すればいいのであって、炎上させる必要はないでしょう。炎上させていい気分だと思っているのは錯覚です。まあ、自分の感情じゃないからわかりませんが、少なくとも人に激しい言葉をあびせて、自分自身、幸せを手に入れたことはなかったと思います。

 

 

仕事をしていた頃、私は、「先輩として、管理職として甘い」とよく言われました。特に最近はミスを減らすためにきつい言葉で部下職員に注意(なんですかね)することが許容されていて、パワハラとの境目が難しいなどとも言われていました。

私の考えでは、別に難しくもなんともなく、それはパワハラだと思っていました。だって、ミスってわざとするものではないですから、その人にきつくあたって無くなるものではないでしょう。私には、組織を挙げて、外向きの言い訳作りをするとともに、ストレス解消をしているようにしか見えませんでした。

今、振り返ってみても、厳しくなんてしなくてよかったと思います。

 

 

日本人では、小池龍之介さんの本が面白いと思いました。一般的には「考えること」は肯定的に受け取られています。考えない人間はダメな奴だし、考えて行動しないと怒られることも多いです。ただ、考えることをやめられずに苦しむのが人間であるという仏教の視点が本当に新鮮でした。

考えることをやめられないから不眠症にもなりますし、そうなると体力を削られてうつ病にもなります。

余談ですが、「考えることをやめられない人間」という表現は、村上春樹の「騎士団長殺し」にも出てきます。

 

 

退職しようと決断した後、実は眠れなくなったことがあります。

自分では、ちょっと意外でした。あと数か月でゴールという状況になった訳ですから、精神的には楽になると思っていたからです。

ところが、仕事の嫌なところが目に付くようになり、最後まで無事に過ごせるかどうかの不安が意識されるようになりました。また、意識はしていませんでしたが、退職した後の生活について、怖れのようなものもあったのかもしれません。

夜中に目が覚めて、仕事のことが頭に浮かんで眠れなくなりました。

 

「考えることをやめられない人間」状態です。

考えることが自分自身を苦しめている状態でした。

仕方がないので、精神科を受診し、睡眠導入剤を処方してもらいました。残りの数か月、薬の助けもあり、無事に過ごすことができました。薬の力で考えることを止めて、きちんと睡眠をとれる状況に自分をリセットすることができたわけです。

意識して考えないようにすることは大切です。

ただ、人生の節目などはプレッシャーもそれなりに大きいものになりますから、それができないときは、頑張りすぎず専門家の助けを求めるのもいいと思います。

 

 

こんな感じで自分自身の人生の節目で、仏教の考え方はとても役に立ちました。

他にも、本当に納得させられる教えがたくさんあります。釈迦が言ったとされることにフォーカスすると、仏教は、とても論理的、実際的であることがわかりました。

 

釈迦の基本的な考え方である「無常」、「因果応報」という考え方も、実は非常に説得力があります。世の中のすべては常に変わっているということの自明性。原因があれば結果があるという当たり前の法則、これを前提に人生の問題を考えれはよいとする教えだと理解しました。

無常は、どんなことも永遠ではないということ。因果応報は、結果には必ず原因があるということ。両方とも当たり前すぎますけど、これを意識して生きている人は、意外に少ないと思います。

 

変わりたくないと執着しても無駄なだけ、状況に応じて自分も変わるのが当たり前。それに逆らっても苦しいだけです。

今が将来の原因になっているから、努力するなら今。努力が実らなかったとすると、正しく因果の流れを理解していなかったからかもしれない。

 

こういう視点を持つといろいろなことが見えてくる気がします。

自分自身も変わらざるを得ないのであれば、自分の思うように変わるのがいい。その際には、自分はどうなりたいのか、そのためにはどうしたらいいのかを考える。

 

周囲や世の中が「正しい」としていることから離れて、周囲が何と言おうと、自分自身できちんと考えるのがいいのではないかと思います。釈迦は、自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)と言ったそうです。自分で考えること、客観的な法則に従って考えることが大切だということです。

簡単に言うと。「自分は自分、人は人」ですね。

 

仏教を深く学べたのも、自分自身が体調を崩してうつ病を患った経験があったからこそだと思います。本当にいろいろなことを学びました。今も、生きていく上での指針としています。

 

 

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