スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

人生におけるリスク分散(B・ラッセル幸福論)

関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる」と哲学者のバートランド・ラッセル(幸福論)は言ったそうです。

そして、幸福はいくつかの要素で構成されているけれども、「成功」というのは幸福の1つの要素に過ぎないから、他の要素を犠牲にするほど成功を追い求めてはいけないという趣旨のことも言っています。

 

 

 

何でも同じだと思いますが、極端に一つのものに絞り込むような態度はよくない。

極端に食べ物を制限するダイエットもそうでしょう。投資をする時に一つの株に全財産をつぎ込むのも危険です。

 

公務員の世界は、とりわけ一つに絞る傾向が強く、法律でそれが定められていたりします。「職務専念義務」というのが国家公務員法96条、地方公務員法36条にあって、公務に専念するために民間企業との関わりや副業は制限されています。

だから、いろいろな職業を経験したり、最近で言えばネットでお金儲けをするなどのこともできません。これに違反すると、非違行為として処分されます。

世の中の風潮は、公務員に対しては厳しいですから、本当に厳しく処分されます。

 

だから、長い間、公務員として働いていると構造的にあらゆる分野で見識の狭い人間が出来上がるという訳です。ちなみに、デジタル化というのも進められていますが、私がいた職場では「私はパソコンは苦手だから・・・」という人が大部分を占めていました。自分から色々な見分を広めようとする気持ちがないからです。

もちろん、立派に仕事をしている人もたくさん知っていますが、構造的にそうではない人を生み出すような状況ということです。

 

 

 

ラッセル風に考えると、こういうところで働いたり、同種の環境に身を置いていると、幸福になれるチャンスが少なくなるということだと思います。

 

退職して思いますが、本当にいろいろなことに関心を持てるようになりました。仕事をしていた頃は、どんなに努力して仕事以外のことに関心を持とうとしても、絶対的に時間が不足していました。

仕事の経験は、とても自分にとって貴重なものですが、もう同じ生活をしようとは思いません。

 

 

退職して時間が取れるようになり、できるようになったことは、

・読書

・旅行(少しだけ)

・ブログ

・芸術鑑賞

・歴史の勉強

・転職や副業の準備

・生活の管理(ミニマムな生活)

・投資関係の勉強や資産の管理

といったところかと思います。

とにかく、いろいろなことに時間をかけられるようになりました。

 

こういう生活を通じて小さなことでもよいから、いろいろなことと関りを持っていこうと思っています。

読書をするだけで世界が広がりますし、旅行では実際に思わぬところで人と知り合ったり、このブログを通してもいろいろな人とコミュニケーションを取ることができ、それ自体が人生を豊かにしています。将来、どんなことに繋がっていくか楽しみです。

 

今、「関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる」と実感しています。

とにかく楽しかったと言える人生にしていけたらいいな。

 

今、投資が勧められているうわべの理由と本来の必要性について

政府が旗を振って、各自が投資をするように誘導しています。

これって、どういうことでしょうか?

メディアでは、年金制度がうまく行かなくなってきて、国民に自助努力を促していると言われます。流行りの自己責任です。

 

必要性としては、間違ってはいないと思いますが、投資をすべき本質的な理由は、そういうことではありません。

 

 

日本やアメリカ、ヨーロッパの西側と言われている国々は、資本主義経済制度を採用しています。

これは会社が競争をして利益を出すことで社会全体としてもうまく行くという考え方に基づいています。根本的なことを言えば、会社を中心に社会全体で利益を出して、その利益で国民が裕福に暮らせていけるようにする仕組みということもできます。

 

 

自由な競争のもと会社に利益が出ると、そこから従業員に給料が支払われ、株主には配当金が支払われます。

これをもう少し詳しく考えてみます。

会社の利益から給料も配当金も支払われるのですが、利益が多くなればなるほど、配当金は増えます。でも、給料は増えません。

給料は労働の対価だからです。会社に利益が出るかどうかは関係ないのです。ここは重要なポイントです。

 

一生懸命働いている人の感覚からすれば、大きく利益が出たのは誰のおかげでしょうか。色々あるとは思いますが、一生懸命働いている人のおかげではないでしょうか。でも、給料としてはその利益は還元されないのです。

だから、そういう人に利益が還元されるためには、株式を所有している必要があります。

 

これが資本主義社会の仕組みであり、株式を所有しなければならない(=投資をしなければならない)理由です。

 

年金云々の話は、全く副次的なものです。

 

日本は資本主義経済制度を採用している訳ですから、本来、投資を積極的に推奨する必要がありました。ただ、日本は諸事情からそういうことをしてきておらず、だから年金制度の破綻の可能性が取りざたされた際に、あわてて投資を推奨したということだと思います。日本が投資を推奨しなかった諸事情(投資しなくても貯金しておけばよかった事情)については、過去の記事に書いたとおりです。

 

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「何を今さら」という感じですが、国民サイドとしても基本的な仕組みを理解せずここまで来てしまったので、早急に対処する必要があります。

今からでも遅くはありませんから、積極的に貯蓄を投資に切り替えていくことがよいのではないでしょうか。

 

私の投資における「リスク分散」の考え方(2)~真面目に働いているけど貯金しかない人へのおすすめ~

例えば、日本の株式だけに投資していると不景気で株式が下がってしまったときには、資産を減らしてしまうことになるから、色々な国の株式に投資しましょうと言われます(地域リスク)。

ただ、この考えには、注意が必要だと、私は思います。

 

理屈ではそのとおりなのですが、資本主義経済を採用している国と言っても、日本はかなり特殊です。

国民性がそうさせるのかもしれませんが、国(政府)の介入が多く、純粋な自由競争はありません。自由競争であれば、本来、うまくいかない会社は倒産して市場から退場するのが大原則です。

でも、思い浮かべてみれば、大きな会社が倒産しそうになれば国を挙げて大騒ぎです。一つの例ですが、大手の銀行が倒産しそうになれば、公的資金、税金を投入してでも倒産させないようにします。

自由競争がないとどうなるのかと言うと、長期的に見て社会全体として市場が発展しません。

株式について言えば、日本の主な投資信託の値動きを見るとわかります。上がったり下がったりを繰り返しています。

 

根本的な話になりますが、資本主義経済というのは、どんどん市場の規模が大きくなることが想定されています。そうやって常に社会として利益を出し続ければ、社会全体として潤っていける。社会全体の景気が良ければ、給料も上がるし、社会的なインフラも整えられるということです。

これを株式という視点で見てみると、社会全体として株価が上がり続けるということです。そうでなければ資本主義社会は維持できないと考えるのが自然です。

 

統計的に見ても、1929年の世界恐慌以前から、市場規模は大きくなり続けており、株価の平均値は上がり続けています。

ただし、これは米国の統計です。

 

つまり、資本主義経済が理屈通りになっているのは、米国の市場です。ですから、個人としては、米国株式に広く投資している投資信託を購入すべきという結論になります。

 

残念ですが、日本は、自由競争の環境がなく、代表的なインデックスファンドでも値段が上がっていませんから、日本の株式(日本の株式に投資する投資信託)には投資すべきではないと私は思います。

地域リスクという観点から考えると、米国の市場は大きく、ここに広く投資しているのであれば、それ以外に投資する必要性は小さいものと思われます。

 

地域リスクとは、ある意味、日本株に投資することだと言ってもいいのではないかという気さえします。国としての経済政策が変われば、日本株への投資もあり得るかもしれませんが、当面、それは考えられません。

 

国を挙げて、国民を投資に誘導していますが、本当に大丈夫なのでしょうか。

 

三井記念美術館の円山応挙「雪松図屏風」がおすすめ

久しぶりの行動制限のない年末年始ということで、街は人で溢れています。感染者も急増していて心配ではありますが、そんなにステイホームばかりもしていられない。

そこで、人が大挙して押し寄せていなさそうなところはないかと考えて、三井記念美術館(東京日本橋)に行ってきました。

 

思惑どおり、土曜日の午前中の人出はまばらで、ゆっくり鑑賞できました。

 

「雪松図と吉祥づくし」という展示で、目玉は円山応挙国宝「雪松図屏風」

強烈に目を引きました。さすが国宝。

 

雪松図の展示された部屋に入った瞬間に息をのみます。知識としては知っていましたが、実際に見てみると迫力が全く違います。

 

空いているのをいいことに、展示室の真ん中にある椅子に座って観たり、立ち上がって観たり、近づいて観たりで、15分くらいながめていました。作品を独占しているようで、とてもいい時間でした。

 

 

企画としては、国宝や重要文化財がバンバン出てくるという程ではなく、雪松図が中心として、他はおめでたい「吉祥」をテーマにした作品が展示されていて、メリハリがありました。

東京丸の内に開館した静嘉堂文庫美術館が国宝、重要文化財の目白押しだったのも衝撃の迫力でしたが、それに比べると、雪松図をメインに据えたバランスのいい感じがすごくいいと思いました。

令和23年1月28日までやっているようです。

 

円山応挙は、京都画壇という江戸時代の美術の流れに分類されていて、狩野派に比して写実的と評されます。

犬の絵などが多く残っていて、精密に写生されています。同じ京都画壇には、伊藤若冲や曽我蕭白がいて、雰囲気は違いますが、「写実的」です。

でも、今回の雪松図屏風は、松の葉の部分は墨、雪は余白(紙のまま)にして写実的に描き、背景には金箔を貼って狩野派など日本画の伝統的な技法も存分に使っています。

 

 

次は、長谷川等伯の松林図。年明けに東京国立博物館に見に行きたいと思います。

 

 

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私の投資における「リスク分散」の考え方(1)~真面目に働いているけど貯金しかない人へのおすすめ~

普通に働いていては大した収入が得られない今の世の中、収入を補うという観点からも、貯蓄だけでなく投資をすることが必要不可欠です。

 

投資については、以前から書いてきていますが、投資にはリスク分散という考え方があります。

 

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まずは、基本から。

ある会社の株式に投資することを考えます。

会社が株式を買ってもらい、お金を集めます。株式というのは、会社へお金を貸すわけではなく、ある意味、会社にお金をあげることになります。その代わり、利益が出た時に配当をもらうという約束(権利)です。利益が出なければ配当はなし。投資したお金も戻ってきません。これが基本です。

 

他方で、「株式」というモノではないものは、モノではないにもかかわらず、売り買いすることも可能です。

そして、会社が利益を出して、配当をもらえるような株式については、買いたいという人がいます。そういう時に、もともと投資した金額より高い値段で売れたら、利益が出ます(売却益)。

現実には配当よりもこの株式自体を売却した時の売却益が投資の目的となっています。

 

1 商品リスクの分散

株式を購入しても、その会社がうまく行かず、利益が出ないとやがて倒産します。

そうすると株式は無価値になります。昔は株券という証書が発行されていましたから、「紙くず」になると言われました。

これが一つのリスクです。投資している会社がうまく行かない、極端な場合には倒産して株式が無価値になる。これを「商品リスク」と言います。

 

商品リスクを回避するためには、複数の商品(株式)を買うことです。

1つの会社がうまく行かなくても、他の会社がうまく行って利益が出たらいいという考え方です。広くいろいろな種類の株式を買うことでリスクの分散を図るというのがよいということになります。

 

でも、これは結構手間がかかります。なんとかならないか。

ということで考え出されたポピュラーな金融商品があります。「投資信託」です。投資をする人が色々調べて複数の会社に投資するのではなく、複数の(それも多数の)会社に「投資する人」がいてその人にお金を出すという仕組みiです。「投資をする人」を運用会社と言います。

簡単にリスクを分散しながら投資をするために、投資信託に投資をすることができるという仕組みが準備されているという訳です。

 

 

2 時期的リスク

投資信託を買ったのはいいけど、買った後に値下がりして損が出てしまったということは、投資である以上、仕方ありません。

ただ、これもリスクを最小限にする方法があります。

 

基本的には、1度に株式を購入すると、その後株価が下がって大きく損が出る可能性があります。そこで、少額で複数回に分けて投資することが勧められています。

複数回に分ける方法としては、定額で複数回(株式が安い時には多く買う)、同じ株式数を複数回買うなどが考えられますが、理論的に「定額で複数回」というのが効率がいいということになっています。これがドルコスト平均法というやり方です。

詳細な説明はネットで検索するなどすれば、いくらでも出ていますのでここでは書きませんが、結論として、「定額を複数回」と覚えておけばいいと思います。

 

積み立て投資が勧められているのは、こういう考え方があるからです。

 

(2)に続く

 

今年のまとめと人生の抱負~仕事を断捨離してミニマルな生活へ~

あと少しで今年も終わりです。

五十数年生きてきて、今年は「退職」という最も大きな変化のあった年でした。

 

 

 

話は違いますが、前にこのブログに書いたとおり、私はゆるいミニマリストをめざしています。

 

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モノを少なくしたいと考え出したのは、結構前のことで、少なくとも20年以上前です。「ミニマリスト」という言葉もなく、こんまりさんの片付けがブームよりも更に前だったと思います。

 

当時は結婚していて子供が2人いました。共働きでしたから、人並みにモノを持っていました。日用品のほかに、子供の学用品やおもちゃなども、それなりにありました。

それに加えて、貰い物がとても多く、いろいろな贈り物をいただいたりしていました。

 

片付いてはいましたが、家には使わないモノが多く、それに囲まれて生活していた感じです。

そんな中、少しづつでもモノを減らそうとし始めたのですが、苦難の連続でした。

今は、ミニマリストの方々がおられて話が通じるのですが、当時は「モノを減らしたい」と言っても理解されませんでした。母には「戦争を経験してないと、モノのありがたみがわからない」と言われて、本気で喧嘩したこともありました。

 

当時の妻も、「そうよね。モノを少なくすっきり暮らしたいね」と言いながら、生活は全く変わりませんでした。夫婦双方の両親や親せきも同様で、継続してモノが送り付けられてきました。

みんな良かれと思ってしてくれるので、文句を言う筋合いではないのはわかっています。けれど、説明しても理解すらしてもらえず、前述の母のように喧嘩になったり、そこまで行かなくても微妙な雰囲気になったりもしました。

 

仕方がないので、一人で淡々と片づけたり処分したりしていたのですが、片付くスピードよりも増えるスピードの方が速いし、片づけてスペースができると、すぐにそこに何かが運び込まれる。

ギリシャ神話のシーシュポスは、神から罰を受けて、大きな岩を転がして山に運び上げては転がり落とすという無意味な作業を永遠に続けなければならなくなるのですが、シーシュポスと愚痴を言いたい気分になりました。

 

そういう状況が10年以上は続いたと思います。

 

時を経て、様々な事情から5年前に離婚することになり、子供たちも一人暮らしをして間もなく独立するのではないかというところまで来ました。

離婚を機に、私の周りのモノは激減し、子供が一人暮らしをするようになって、更に減りました。

 

1年くらい前に、ほぼミニマルな状態になったかな・・という感触がありました。

でも、今年、退職を機に見直したところ、いくらでも改善の余地があることがわかりました。

ミニマムな生活というのは、モノについてだけではないということに気づきました。

 

ミニマリズムは、生活の無駄を省き、自分の理想とする生活に近づける一つの方法です。人生の理想を実現することに集中するために、時間や余裕を作り出す有力な方法なのだと思います。

モノを減らすのと同様に、人間関係とか、しょぼいところだと年賀状を出す手間とか色々なものを断捨離していく姿勢を持っている人がミニマリストなのだと思います。

 

 

私の今年の最大の断捨離は「仕事」でした。

モノを超えて、生活を整理するというところまで手がついたという感じです。仕事をしていてはできなかったことができるようになり、「よりよい人生のスタートライン」に付けたような気がします。

仕事が無くなった私の人生の「穴」に何が入ってくるのかは、まだ模索中ですが。

 

来年はミニマムな生活を維持することを楽しみつつ、人生の目標に向けて歩んでいきたいと考えています。

 

 

 

以上、今年のまとめと来年の抱負でした。

 

人生をどうしたらいいかは「自分」が知っている話(仏教の自灯明、法灯明)

人生は停滞したり動いたりの繰り返しです。

退職前は仕事に忙殺されるような環境で、長い間過ごして大きな閉塞感を感じていました。人生としては長く停滞していました。

今年7月末に退職という大きな動きがあり、その後その勢いでいろいろ試してみています。このブログもその中の一つです。

 

ところがここに来て、動きが停滞しているように感じます。

仕事のない生活がどういうものかが感覚的にわかるようになり、ブログなど新しく始めたこともひと段落してきました。体調を整えて、これからのことを考えて動いてはいますが、新たな収入源を確保できたわけでもなく、将来のビジョンが明確になった訳でもない。退職前に無意識に恐れていた停滞状況なのかなと思ったりもします。

 

 

 

自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)

釈迦入滅の際に弟子に対し遺言として残した言葉とされています。「自分を灯明の明かりとして進み、また、正しい法則を灯明の明かりとして進まねばならない」という意味です。

 

自分や客観的な法則以外のもの、例えば人の評価や世の中の常識などに惑わされてはいけないということだと思います。

人生の大きな転機では多くのことを考えるものですが、結局どうしたいのか、どうするのがいいのかは、実は自分は知っている。あとは、客観的な論理に照らして間違っていないならば、その道をすすんでいけばいい。そう言われると説得力があります。

 

私の好きな言葉です。

 

前に記事にしたとおり、一人時間に自分と向かい合うことは大切だと思いますが、それは、結局、自分が本当に求めているものは何なのか自分に問いかけるための時間とも言えると思います。悩んでいても、実は自分がその解決法、答えを知っているのだから、自分と対峙する時間が大切ということです。

自分がどうしたいかがわかれば、あとは世の中の摂理に従う人生を歩めばいいのだと思います。

世の中として何が正しいとか、他人の言うどうすべきとかは関係ない。

 

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逆に言えば、どうしても人生の一歩を踏み出せないとき、停滞していると感じる時は、その場に留まり自分と対話するチャンスなのだと思います。「自灯明」を忘れず、あせらず着実に自分と向かい合う時間を取るようにしています。

はたから見れば、何やってんだ?という状況かもしれませんけど。

 

顧みても、停滞の時期が自分を大きく変えてきたという実感があります。

だから、自分を信じて、「どうしようか」と、今、一生懸命、停滞しています。

 

ちなみに、ユングという心理学の巨匠も、沈み込みが深いほど高く飛ぶことができると言っています。停滞する時には、必要なだけ停滞し、次の動きに備えたらいいのだ。今は「なんだかなあ」と思うけど、これでいいのだ。