スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。(5) ~お金のハードルを乗り越える。~

(原因はわかりませんが、この記事が昨日(R6,2,20)消えてしまいました。記憶の限りで再現します。)

 

退職しようとした時、最も心配になるのがお金の問題です。これまでも書いてきましたが、50代で転職をして前職よりも多い給料をもらうことは、相当難しいと思います。

 

そういう社会や現実については、大きな問題があるとは思います。

でも、私が伝えたいのは、そんなことではなく、その現実を前提にどうしたらいいかということです。退職をした場合に、その後の人生でお金を稼いでいく方法は、いくつかあります。すぐに思いついてカッコいいものとしては、副業や起業などがあります。ただ、これらは「できれはいいけど、難しい。」と思います。私が、最も現実的なのは、投資をすることだと思います。

 

私がこれまで投資をして、現在どうなっているのかを書いてみたいと思います。

私の投資の方法は、アメリカの投資信託(インデックスファンド)に投資をする方法です。考え方などは、これまで何度も書いてきました。

 

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これが、退職をしてから、どうなったのかというと、・・・結論的には順調です。

投資している投資信託の基準価格は1年で3万6千円から4万7千円になりました。運用利回りは30パーセントを上回っています。この結果は、私自身ちょっとびっくりです。もちろん売却した場合には、税金がかかってきますが、それにしてもすごい運用益です。

1000万円を投資していれば、税引き前では300万円を超える利益が出ていたことになります。

 

もちろん、この状態が未来永劫続くわけではありません。暴落のリスクもあります。

でも、私の投資の経験は30年近くなりますが、結論的には凸凹はありますが投資した資産の価格は右肩上がりです。

 

 

他方で、現在、日本株が好調で日経平均はバブル期に迫る勢いであるというニュースが流れています。基本的には肯定的な論調で報道されています。でも、これはおかしい。

バブル期に日本の投資信託を購入していたら、30年を経てやっと元の価格に戻ったということです。利益は全く出ていない。

 

それに対して、アメリカ株はサブプライムローン問題やリーマンショックの際に大きく値を下げたことはあっても、それでも基本的に右肩上がりです。我々が個人で投資をする際には、真剣に考えてみるべきポイントだと思います。

もちろん、日本国として考えれば、国民の投資資金が海外に流れるのは好ましいことではありません。だからこそ、「バブル期以来の高値」と言って、日本株に資金が流入するように誘導しているのだと思います。でも、日本の株式はバブル以降全く上がってこなかった訳です。そこに自分の資産を入れるかどうかは、相当慎重に考えた方がいい。

 

 

私は、現在再就職をしましたが、その給料では月々の支出を賄うことはできません。でも、投資で出る利益を考えたら、相当の余裕があります。アメリカの経済情勢によっては投資したものが値を下げることもあるかもわかりません。でも、10年スパンで見たら、上がっていく可能性が高いと考えています。

今回は詳しくは述べませんが、日本とアメリカの経済構造の違いや、資本主義の根本的な理解からしたら、アメリカ株は上がっていくのが自然だと思います。

 

退職してから1年半、振り返ってみて、経済的な基盤はできたということでいいかなあと思っています。

 

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。(4) ~現在の仕事について~

昨年(令和5年)11月に再就職をしました。

前職とは全く違う仕事、最大週4日のパート。

前職は法律関係の仕事でしたが、長くやっているとその業界だけのものの見方に固まっているのではないか?という漠然とした感覚がありました。

だから、違う仕事をして自分のすそ野を広げたかった。

 

実際に就職したのは小学生を相手にする職場です。現在、火曜日から金曜日の週4日、午後から勤務しています。

最初から、教育関係の仕事がいいとか考えていたわけではありません。20社以上の求人に応募して採用してくれたのが、ここだったというだけの話です。

 

前の仕事はフルタイムで仕事はパンパン、月に何度かは土日勤務や泊りの日もあり、それに比べたら、いくら知らない業界の仕事とは言え、楽になるのではないかと思っていました。

でも、実際に勤めてみたら、予想していたのとは大きく違いました。時間は短くなり、残業も土日出勤もありませんけど、児童を相手にするプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになります。午後からの勤務ですが、フルタイムで勤務するくらい精神的には緊張していると思います。

 

人生、予想どおりにはいかないものです。

 

 

でも、前職とは違うやりがいがあります。直接接した児童が良い方に変わって行くのを間近で見られるのは大きな喜びです。先生ではありませんから、指導したり教えたりするわけではありません。でも、折に触れて一人一人と話す時間があります。

話した事がきっかけで、児童自身が自分で考えて「違うやり方」を実践しているのを見ることがあります。その結果、表情が明るくなったりしていると、「明るくなって良かった。でも、これからも大丈夫かな。」と、うれしい気持ちと心配な気持ちの両方が沸き上がってきます。

 

退職して他の業界に就職するというのは、自分自身にとっては、わりと大きなチャレンジでしたが、現時点では、違う業界に再就職して、本当によかったと思います。意外と楽ではないけれど。(笑笑)

 

 

現在の日本社会は、守りに入っていて、批判されないように、失敗しないように・・・という価値観が蔓延しています。個々人の人生も同様で、批判されること、失敗することを恐れます。

私たちの世代(60歳前後)にもなると、新たなことにチャレンジするなど考えられず、これまでの余禄で人生を終えようと考えている人が多い。前職の職場でも「定年まで逃げ切る。」という言説が多く聞かれました。とりあえず定年まで我慢して給料をもらって、その後は楽な人生を歩もうというわけです。

 

こういう態度は、社会や組織に良い影響を与えないばかりか、自分自身の人生をもつまらないものにするのではないかと思います。

日本の組織は本当に守りに入っています。建前ばかりが横行し、目の前の現実を見ようとせず綺麗ごとですべてを済まそうとする。同じ組織に留まっていては、チャレンジすることが、どんどん難しくなっています。

 

 

久しぶりに若者が主人公の小説を読みました。藤岡陽子さんの「いつまでも白い羽根」という小説です。

主人公は大学進学をあきらめきれないけれど看護学校に入学した19歳の女性です。「いつでも辞めよう」と思いながらも、次々課される課題をこなし、周囲と関わっていく中で様々な現実と直面します。必ずしも問題のある現実を若者たちが解決できるわけではないけれど、主人公たちは本当の現実を理解し、次に踏み出そうとします。

嫌々看護学校に通っている主人公は、最初は「チャレンジ」という言葉からは程遠い印象ですが、看護学校を辞めてしまえばやらなくて済む困難を次々と引き受け、成長していく姿は、現在の「働かないおじさん」とは一線を隔するものと私の目には写りました。

 

望んでも仕方のないことですが、次々と新鮮な経験をできる若者をうらやましく感じ、年齢を重ねてしまった自分は、自分自身で環境を変えて新たな経験を積んでいくのも、まあいいのかなと思ったりもしました。

 

 

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。(3) ~働くことが尊いという価値観を考える。~

日本では、「働いているから一人前」、「働いて世の中の役に立たないといけない。」、「働いていない人はダメな人」と言われます。働き方改革で、70歳まで現役で働けるようにしようという政策に対して、強い批判は出ません。

 

早期退職をして半年くらい仕事探しもせずにノンビリしていたのですが、そうすると周囲から明示的にも黙示的にも、「なんで仕事しないのか?」というプレッシャーを感じました。私自身は、「自分が働こうと思った時に働ければいい」と思っていたのですが、事あるごとに「なんで働かないのか」というニュアンスの質問を受けました。

日本社会では、働く人が普通でそれ以外はなにかヤバい人と見られます。「働くことが尊い」という価値観で社会が構成されている。

 

でも、思うのですが、ある日「あなたの余命は半年です。」と言われた時に「あと半年働いて、世の中の役に立とう。」と思いますかね?

もちろん、そういう人が皆無だと言うことはできないと思うけれど、多くはないのではないかと思う。少なくとも私は、仕事で人生を終えようとは思わない。

誤解のないように言いますが、仕事に一生を捧げる生き方を否定している訳ではありません。むしろそういう人を、私は尊敬します。

ただ、私自身は、仕事以外にやりたいことがたくさんある。趣味を深めるとか、仕事以外の人間関係を大切にするとか、自分の気持ちを伝えたい人に会うとか、深めたいことに没頭するとか・・・。

だから、70歳まで現役とかいうのは、まっぴら御免です。

 

 

過去に「退職後の人生のイメージ」という記事でも書きましたが、人間の生き方には段階があります。

1 学生期

2 家住期

3 林住期

4 遊行期

このイメージからすると、家住期は働く時期であると言えると思います。

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働くことが社会のためになり、家族のためになる。でも、それは家住期まで。

次は、林住期で、林の中の庵に住んで静かに思索にふける。

その後の遊行期では、林の中の庵を畳んで旅に出る。

 

インドの伝統的な考え方ですが、日本でも一遍上人松尾芭蕉など、そういう人生を実践した人がいます。こういう人たちは、別に労働をして世の中の役に立っていたわけではないけれど、後進への得難いメッセージを残しています。

別にメッセージを残そうとしたわけでもないかもしれないけれど、大きな影響を与えている。

 

 

昨年11月に再就職しました。フルタイムではなくパートで週に4日だけ働いています。前職とは全く違う教育関係の業界です。現時点で3カ月ほど働きましたが、本当に多くの気づきがありました。

前職までの人生を見直す機会になっています。人生の見方が変わったこともあります。

仕事自体は、時間も短いですし、生活の負担にはなりません。でも、人生について深く考察するための材料を無尽蔵に与えてくれます。

前職に比べたら労働自体ではそれほど役には立っていないと思いますが、これからしばらくは、余裕を持って働きながら、いろいろ考えてみたいと思います。

 

労働だけが世の中の役に立つことではありません。

子育てをして、仕事をしていた頃はそれでよかったのかもしれません。でも、子育てを終えたくらいで人生に一区切りをつけて、これまでの経験をもとに思索を深めてみてはどうかと思うのです。

そういう生き方の変化を後進に示すことがこれからのシニア世代の役割なのではないかと私は思います。

 

人生における労働の時代を終えて、自分の経験をもとに様々なことを考え直してみた後は、一遍上人のように布教の旅に出るか、松尾芭蕉のように句を詠むために放浪するか、自分自身はどうしたいのか楽しみに考えたいと思っています。

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。(2) ~結局、自分の送りたい人生って?~

私は、前職を退職するまで、大きく社会のレールからはみ出すこともなく、日々の生活を一生懸命に生きてきたなあ・・・としみじみ思います。ただ、一生懸命だったというのは言葉を変えれば日々の生活にいっぱいいっぱいだったとも言うこともできる。

「自分がどうしたいか。」、「どんな生活をして生きていきたいか。」など、人生のビジョンを考える暇もなく、押し流されてきたのではないかと今は感じます。

 

 

退職を決断するにあたっては、「自分が今後どうしたいか。」、「どんな生活をして生きていきたいか。」という人生のビジョンを固めることが大切という話をこのブログでも書きました。

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それについては、退職後も考え続けてきましたが、その結果、退職前や退職直後よりも明確になってきました。

多くの人は人生の一大イベントである「退職」の後、何をしたいのか考えた時、今までできなかった様々なことが思い浮かびます。どんどん旅行をしたいとか、習い事を始めたいとか、いろいろでしょう。

 

私も、いろいろ考えました。

でも、当時は総花的に「色々なことがしたい」と感じていたのですが、自分自身の現在の「送りたい人生や生活のイメージ」は意外とありきたりであるということに気づきました。

 

1 基本的なこと

 健康的な生活がしたいと思っています。

 自炊をして、規則正しく寝起きして、適度な運動をする生活が理想です。

 また、趣味については、読書、ブログ執筆、映画、ドラマ鑑賞、テニスを積極的にやりたい。

 そういう生活をしながら、人間関係を大切にしたい。環境や利害関係で繋がった人ではなく、付き合いたい人と付き合う。

 

2 仕事

 1の基本的なことに障害とならない程度の仕事をする。時間的、体力的、精神的に過度な負担のない、なおかつ、できれば人間関係や人生にプラスになる仕事ができるといい。

 

3 その他

 生活をシンプルにし、雑事に煩わされないようにする。

 SNSの知識を広げたり、新たな趣味、知識を模索する。

 旅行などはたまに行きたいとは思う。(頻繁じゃなくていい。)

 

書き出してみると、きわめて当たり前なところに落ち着いています。

退職したからと言って、世界一周したい訳ではなく、起業を目論んでいる訳でもない。遊び回りたい訳でもない。でも、自分にとって、一番落ち着いて幸せを感じる生活はこんな感じなんだろうなと思う。

 

今は、楽しく過ごせる人との繋がりを大切にするようにしています。

また、小学生と直接関わるやりがいのある仕事をさせてもらっています。

生活はモノややるべき事をミニマムにしてすっきりさせて、規則正しい健康的な生活を実践することができていると思います。

 

 

現在(令和6年1月)、関テレで「春になったら」というドラマが放映されています。余命3カ月と診断された主人公を木梨憲武さんが演じています。余命宣告をされた時、どう生きていくのか・・・というテーマは重いですが、笑いを誘いながらもそのテーマに正面から向き合わされる物語です。

ドラマを見ながら考させられたのは、折に触れて「自分の送りたい人生」について考えることが、人生の終わりを迎える時、自分の人生をどう生き切るか、落ち着いて考える糧になるのではないかということです。

結局、人生の最後には、自分が本当に楽しいと考えることの密度を高くして満足して終わりを迎えられたらいいのかなあ・・・と思います。

「春になったら」は、現在、Tverで見られます。

 

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。(1) ~再就職の選択について~

一昨年(令和4年)に早期退職をし昨年再就職してから2カ月が経過しました。

前職は公務員でフルタイム勤務、仕事量は多く、間違いを許さない異様な緊張感のもと大きなストレスを抱えながら仕事をしていました。現在の仕事は、パートタイム勤務で、週4日勤務、前職とは異なる教育業界の仕事です。

 

再就職後の職業について、振り返って、その選択は正解だったのか考えてみました。

「退職から人生再構築のモデル」のシリーズでも書きましたが、「前職と同様の職業を求めると、同様の環境で再び働くことになる」というのは、実感として正しかったのではないかと思います。

実際、前の職場からは非常勤職員勤務の御誘いがありましたが、仮に御誘いに乗っていたら、何のために退職したのかわからない状況にはまっていたと思います。

フルタイム勤務、仕事量も変わらない、間違を許さない風潮は同じ組織だから変わる訳もない。管理職ではなくなって気持ちが楽にはなるけれど、その分給料は減る。

退職前と同様の大きなストレスを抱えながら仕事をすることになっていたことは間違いありません。

 

 

現在の仕事を探す際には、週3~4日勤務のパートタイム勤務、前職とは異なる職種という条件で職探しを始めました。

最初は、労働市場の現実がわからず苦労しましたが、シニア対象の就職相談会に応募して、そこに参加していた財団に採用してもらいました。

 

当然、公務員生活とは大きく生活が変わりました。具体的に振り返ってみようと思います。

 

1 給料が減った。(笑)

 当たり前ですが、前職のおそらく4~5分の1程度の給料になりました。激減です。この点は、以前にも書きましたが、「自分のこれからのライフスタイル」、「保有する資産」、「収入源を複数作るかどうか」ということを勘案して、どのくらいが必要なのかを

きちんと考えることが大切です。

 ちなみに、もう少し多くの給料をもらおうと思えば、フルタイム勤務という条件に変えると、ざっくり言うと20万前後の給料の求人が多かった印象です。また、シニアの男性に関して言えば、フルタイムの方が求人が多い。4分の1の給料ではとてもやっていけないと感じるのならば、そういう選択肢はあります。

 結論的に言えば、私自身としては、仕事の内容や生活が改善されたことを考えれば、現在の給料は十分に満足できるものだと思っています。

 仕事に慣れてきたら、SNSなど他の収入の流れも作れないか考えてみようと思います。こういうことは、前職のようなフルタイムで働いていては到底できないことだと思います。

 

2 時間に余裕ができた。

 フルタイムからパートタイムに変わりましたから、当然と言えば当然です。具体的には、火曜日から金曜日まで週4日勤務で多くは午後2時ころから始まり午後5時に終わります。だから、土曜日から月曜日は休日で、火曜日から金曜日も午前中は時間を自由に使えます。

 毎週の3連休は、趣味や自分の好きな人たちと過ごす時間に目いっぱい充てています。

 また、火曜日から金曜日の午前中は、ブログを書いたり、読書をしたり、映画、ドラマ鑑賞をして過ごすことが多いです。些末な雑務もここで片づけます。

 持ち帰り仕事や日をまたいでの持ち越しの仕事もありませんから、精神的にもオンとオフを完全に切り替えることができています。

 

3 気持ちに余裕ができた。

 時間に余裕ができて、気持ちにも余裕ができたのは当然です。

 ただ、それだけではありませんでした。現在の日本社会は正社員のポジションの人たちに異常なまでに過剰な負担を押し付けています。自分自身、前職では時間内では処理できるはずのない仕事量を押し付けられていたと感じます。その上、様々な制度を利用して休暇を取る人ややる気のない人の仕事のフォローもしていました。

 仕事をしていない時も、仕事のことが頭から離れませんでした。

 そういうことが、なくなりました。(ホッ!)

 

4 刺激を受けて得難い経験ができた。

 同業種で働くのは、心理的ハードルは低いかもしれませんが、自分の人生という視野で見た時に「惰性の人生」になるのではないかと感じます。もちろん同業種で働きながら自分を磨いていける人もいると思いますが、やはり難しいと思います。

 今まで全く経験したことのない教育関係の職場では、毎日新たな発見や驚きの連続です。その分緊張も強いられますし、大きなストレスも感じます。でも、このストレスは前職の「間違えてはいけない」という人として不可能なことを要求されるバカみたいなストレスとは質が異なります。

 毎日、児童を見ていると、ニュースになる様な様々な社会問題も根は教育にあると気づかされます。今の経験があれば、前職でももっといい仕事ができたのではないかと感じることも1度や2度ではありません。

 得難い経験だと思います。

 

5 退職後の生活も忙しかった。

 フルタイムで勤務していた頃は「皆無」と言ってもよかった自由時間を使って、いろいろなことをしています。

 趣味のテニスは無茶苦茶上達しました(あくまで私の主観ですが。)。近場を中心に様々な旅行に行っています。また、家族と過ごす時間が増えましたし、前の職場で仲の良かった人たち、以前から付き合いのあるテニス関係の人たちとは様々な関りを継続しています。加えて、退職後、旅行先で知り合った人やテニスを通じて知り合った人との交流もできました。

 退職後の生活も、思ったより忙しいです。

 

 

退職から1年半、現在の生活を振り返ってみました。

退職を考えることのある方の、何か参考になればいいなと思います。

 

怒りの感情に支配されない幸せな人生を生きる。 ~戦争、いじめ、ネット社会の誹謗中傷について~

今の世の中には「怒り」が渦巻いています。

怒りの感情は、人を苦しめます。「怒っている時に気分のいい人などいない」とわかっていても、人は怒ります。怒って、恨んで、妬んで、自分自身を苦しめます。

 

人は「仕返し」をすれば、いい気分になれると信じていますが、仕返しをしてもいい気分にはなりません。「私は、こういう仕返しをしてやった。」と人に自慢してみて、褒められることもない。

社会的に尊敬はされないし、自分自身でも自分を誇ることができなくなる。さらに、仕返しをされた人は自分を憎むようになる。

「ざまあみろ」と思えるからいい気分だという人がいるかもしれませんが、仕返しをされた人は、さらにどんな仕返しをしてくるかわかりませんから、心は休まりません。

 

こんな風に怒りは自分自身を苦しめます.。

でも、自分が苦しんでいることに気づかない人が多い。

なぜなら、人に対して、社会に対して、国に対して怒るとき、人は自分が「正しい」と思っているから。正しいから怒って、何が悪いんだ?と考えています。自分の怒りは正義なのだと思い続けています。

でも、怒りは、自分を傷つけ続けます。怒りに支配されることは、大きなストレスなのに、怒りの感情を手放そうとしない。更に、怒ろうとする。

 

 

今の世の中、怒っている人の方が偉かったり、正義であると考えている節がある。怒っていない人は、無理解な人間であったり、正義のわからない人間だと思われている。

 

少し考えればわかることですが、こういう感情が戦争を引き起こし、いじめを蔓延させ、また、人を傷つけるようなネット社会を増長させたりしています。

みんな、自分は「正しい」、「正義だ」と考えて怒っています。

冷静に見てみると、戦争をする人、いじめる人、ハラスメントをする人、ネットで誹謗中傷をする人の多くは、自分が正しいと考えているように思われます。直接その人の話を聞いてみて実感することもあります。

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でも、私は「こんな世の中、居心地悪くないか?」と常々考えています。個人が「正しいこと」を実現しようと怒って、憤って、恨んでも、世の中は良くならない。

 

 

怒らなくても正しいことは実現できます。

人や社会や国のどんなところに問題があるのかを、冷静に理解して、どうしたら問題が解決できるのかを考えることです。

怒っていても問題は解決しません。

 

 

ただ、「怒ること」を完全に否定している訳ではありません。

人間には感情がありますから、怒る瞬間があるのは当然です。

ただ、いつまでも怒っていてはいけないと思います。継続して怒りの感情に支配されてしまうと、人を殺したり、いじめたり、感情的に批判をして人を傷つけたりすることになります。例を挙げるまでもないでしょう。

 

怒りの感情は、自分が向き合っている事の問題点に気づく契機になります。

人に傷つけられたと思った時、社会が間違えていると怒りを覚えた時、国に文句を言いたくなった時、どうしたら問題が解決できるのかを冷静に考えることが大切だと思います。

「そんなことでは、問題は解決しない」と怒って言う人もいます。でも、冷静に考えず、怒りに身をゆだねている方が、間違いなく問題を大きくします。

だから、怒りの感情を抱いていることに気づいた時には、まずは感情に任せて怒ることをやめて、どうしたらいいかを考えることだと思います。

 

怒りの感情は、そんなに簡単に止められないと言う人もいます。

でも、多くの人は止めようとしていないだけです。止めようとしたら、意外と怒りの感情が暴走することを止めることはできます。

 

学問的に言うと、社会のあり様を「間違っているのではないか」と認識して、それを冷静に理解し、解決策を考えるという作業を「批判的検証」と言います。現実、現在の制度をそのまま「良し」と鵜呑みにするのではなく、何か間違っているのではないかと批判的に見ることが出発点です。

怒りは、「何か間違っているのではないか」と気づく契機になる感情です。

そういう怒りの感情を契機に、物事を批判的に検証することが大切です。決して、怒りに任せて行動してはいけない。

 

 

自分自身、無自覚に人を傷つける人や無理解な社会に対して、相当怒っていたことがあります。

プライベートでは子どもを授かり、職場では多忙を極めていました。完全に自分のキャパシティーをオーバーしていました。「なぜ自分がこんなに苦労しなければならないのか?」と常に考えていました。子育てをしたこともない年長の上司の無理解に接して、「なぜあの人は、わからないのか?」と怒り続けていました。

現代の日本社会では、こういう環境に置かれている人は、多いのではないでしょうか。

こういう感情を抱き続けた結果、私は、うつ病になりました。

 

今ならわかります。

国も悪いかもしれない、社会も問題が満載かもしれない。人も自分を理解してくれない。でも、それは、程度の差こそあれ、当たり前のことなのだと理解できます。

そういうことは前提として理解して、次に、やるべきことは、自分が怒りの感情に苦しめられていることに気づき、それを解決するにはどうしたらいいのかに焦点を当てて考えることです。いつまでも怒っているのではなく、批判的に現状を分析し、解決策を検討する。

そうすれば、自分の置かれた環境に問題があっても、その環境を是正することや、是正することが叶わなくてもその環境から離れるなどの対策を取ることができます。

過去の自分は、それができなくて大きな回り道をしました。

 

これからは、怒らず(怒りの感情を感じても、それを客観的に見て)、淡々と、気持ちのいい人生を送るよう努力したいと考えています。

 

自分とは違う人を理解しようとする心の余裕の大切さ ~凪良ゆうさんの「流浪の月」、町田そのこさんの「52ヘルツのくじら」~

人が人を理解するとき、どうしても自分の枠組みを当てはめようとします。

それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと思います。

 

自分とは違う世の中のマイノリティを理解するときに、マイノリティの人たちはこういうものだという形を作ってあてはめて理解したつもりになるということが、よくあります。

ある経験をした人は「こう感じるはずだ」と決めつけてしまいます。離婚をした親の子は・・・とか、犯罪の被害者は・・・とか、受験に失敗した人は・・・とか、枚挙にいとまはない。

世の中のマイノリティについて、そういう人たちは・・・だと決めつける。

 

そういう構造的なことは、思い込んでいる人に説明しようとすると、とても難しいし、まだるっこしい。

そういう経験のない世の中の大多数の人は、マイノリティとは「こういうもの」と理解したら、その枠組みで考える。でも、枠組みにはまらないのがマイノリテイなんじゃないですかね。

 

 

今、日本社会ではLGBTQとか、ダイバーシティとか言っています。

専門家とかがマスメディアに出てきて、色々言っていますが、本当に、端的に言えば「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」ということだと思います。ただ、それだけ。

その人その人の置かれた状況、立場で、そういうこともあるのかもと、立ち止まって考えることの大切さや、自分と違うからと言ってヒステリックにならないことの大事さを明確に認識しようということだと思う。

 

メディアが取り上げれば取り上げるほどLGBTQとは「こういう人」と定義されていくような気がします。そのこと自体が、違うじゃないかなあと思う。

多分、LGBTQと言ってもいろんな人がいる。

 

様々な文学作品やドラマ、映画などが、こういう問題を取り上げています。マイノリティの理解の難しさ、マジョリティーの無自覚な横暴さを扱った作品は多い。

最近の小説では、凪良ゆうさんの「流浪の月」、町田そのこさんの「52ヘルツのくじら」がすぐに思い浮かびます。両方とも本屋大賞を受賞しています。

 

とても良い小説だと思います。ものすごく売れている小説だから、影響力も半端なものではないと思う。

でも、世の中の多くの人がこういう感性を持ち始めたとも思えない。

 

昔、黒人なんて人間じゃないと言っていたように、あちこちで「ロリコンなんて死ねばいい。」とか、「男女の愛以外の愛はありえない。」とか決めつけている。

「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」という考え方はシンプルだけど、常にこれを実践することは、すべての人にとって、それほど難しい。人は誰しも、自分自身の枠組みを通してしか人を理解できないから。

それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと重ねて思うのです。