人が人を理解するとき、どうしても自分の枠組みを当てはめようとします。
それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと思います。
自分とは違う世の中のマイノリティを理解するときに、マイノリティの人たちはこういうものだという形を作ってあてはめて理解したつもりになるということが、よくあります。
ある経験をした人は「こう感じるはずだ」と決めつけてしまいます。離婚をした親の子は・・・とか、犯罪の被害者は・・・とか、受験に失敗した人は・・・とか、枚挙にいとまはない。
世の中のマイノリティについて、そういう人たちは・・・だと決めつける。
そういう構造的なことは、思い込んでいる人に説明しようとすると、とても難しいし、まだるっこしい。
そういう経験のない世の中の大多数の人は、マイノリティとは「こういうもの」と理解したら、その枠組みで考える。でも、枠組みにはまらないのがマイノリテイなんじゃないですかね。
今、日本社会ではLGBTQとか、ダイバーシティとか言っています。
専門家とかがマスメディアに出てきて、色々言っていますが、本当に、端的に言えば「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」ということだと思います。ただ、それだけ。
その人その人の置かれた状況、立場で、そういうこともあるのかもと、立ち止まって考えることの大切さや、自分と違うからと言ってヒステリックにならないことの大事さを明確に認識しようということだと思う。
メディアが取り上げれば取り上げるほどLGBTQとは「こういう人」と定義されていくような気がします。そのこと自体が、違うじゃないかなあと思う。
多分、LGBTQと言ってもいろんな人がいる。
様々な文学作品やドラマ、映画などが、こういう問題を取り上げています。マイノリティの理解の難しさ、マジョリティーの無自覚な横暴さを扱った作品は多い。
最近の小説では、凪良ゆうさんの「流浪の月」、町田そのこさんの「52ヘルツのくじら」がすぐに思い浮かびます。両方とも本屋大賞を受賞しています。
とても良い小説だと思います。ものすごく売れている小説だから、影響力も半端なものではないと思う。
でも、世の中の多くの人がこういう感性を持ち始めたとも思えない。
昔、黒人なんて人間じゃないと言っていたように、あちこちで「ロリコンなんて死ねばいい。」とか、「男女の愛以外の愛はありえない。」とか決めつけている。
「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」という考え方はシンプルだけど、常にこれを実践することは、すべての人にとって、それほど難しい。人は誰しも、自分自身の枠組みを通してしか人を理解できないから。
それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと重ねて思うのです。