今回の記事は、心理学的分析ではありません。経験です。
私は、退職する前10年以上、何人もの職場内ではかなり有名な問題職員と一緒に仕事をしてきました。そういう人事については言いたいこともありますが、今回は置いておきます。
話を戻しますが、問題職員のほとんどは、「すぐ切れる」「機嫌が悪くなって周囲に気を遣わせる」「威圧的な態度や言動をとる」という人でした。
そういう人と1対1の面談や会話で強く感じたのは、自分がパワハラをしているという自覚が全くと言っていいほどない、ということでした。
反対に、自分がそういう態度を取るのには、十分な理由や事情があるのだと強く主張していました。初めは、「そういう考えの人もいるのかな」と思っていましたが、出会う人、出会う人すべてが、同じようなことを言うので、私も考えを改めました。
パワハラをする人は、自分を被害者だと思っています。
つまり、理由があってやったことだから、自分がやったことはパワハラではないと思っています。
もちろん全部が全部ではないかもしれませんが、私の肌感覚としては、大多数があてはまります。
ハラスメント全般について言えると思いますが、無自覚であるからこそハラスメントはなくならない。
ハラスメントの類型のうちセクシャルハラスメントについては、自分の意図とは関係なく「被害者がそれをセクハラだと考えたらセクハラ」という定義があります。セクハラをした人が無自覚であっても、被害者がそう感じたらセクハラなのです。
これは、論理的に考えるとかなり無茶苦茶な話であって、被害者が「セクハラです」と言えば、すべてセクハラとなってしまう。いくらなんでも、それはないとも思います。
でも、そうなったのにはそれなりの理由があります。
セクハラが問題となる前の社会では、今では考えられないような言動がまかり通っていました。その後、セクハラという概念が社会的に認知されてくるようになりましたが、最初はセクハラをするような人たちは「そんなことまでセクハラなのか」とか「自分はそういうつもりではない」「受け取る方に問題がある」などと堂々と言っていたのを思い出します。
そういう人たちにわからせるためには、論理的には相当無理がありますが「被害者がセクハラと言えばセクハラ」と言わざるを得ない。そうまでしなければ、セクハラは無くならないと考えられたからではないかと思います。
話をパワハラに戻します。
今、パワハラに苦しんでいる人は、とても多いと思います。自分自身、パワハラで体調を崩したこともあります。
でも、当時のパワハラをした上司は、自分のパワハラが原因だとは思っていないと思います。多少厳しく教えただけだという程度でしょう。
現在のパワハラの定義(労働施策総合推進法)は、
(1) 優越的な関係に基づく言動であること
(2) 業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの
(3) 労働者の就業環境が害されるもの
で、(1)から(3)までを全て満たすものとされています。
お気づきかと思いますが、セクハラのように被害を受けた人がどう考えるかは問題にされていません。
ざっくり言えば、パワハラをした人が業務上必要だったと言えば、パワハラではなくなる可能性が非常に高い。
これが、パワハラが無くならない理由だと思います。
「被害者がそう思えばパワハラ」という無茶苦茶なことまで言うかどうかは別として、パワハラについては、明らかにセクハラよりも腰が引けています。
根底には、パワハラ的であっても強い指導があった方が組織運営がうまく行く、合理的な理由に基づく強い指導は受け入れられるべきだという発想があります。
でも、これは冒頭に書いたパワハラをする人のメンタリティと全く同じじゃないですか!
長い間、仕事をしてきた私自身の経験から言えますが、強く指導したり、強く言わなければならない職員は、結局、組織で使えるようにはなりません。
また、指導や人材育成は、強く言えばできるようになるなどという、簡単なことはありません。
学校における体罰が問題になった時も、当初は、多くの大人が「自分は先生や監督から殴られたが、愛があったからいいと思う」、「殴ってわからせなきゃならないこともある」等と述べていました。
他方で、体罰を加えずにわからせる方法がないかとか、体罰が本当に愛(合理的)なのかという根本的な問題を考えようとしていなかったことが思い出されます。
「理由があればハラスメントではない」という論理を採用している限り、ハラスメントは無くならないのです。