スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

パワハラをする人は、自分を被害者だと思っている。

今回の記事は、心理学的分析ではありません。経験です。

 

私は、退職する前10年以上、何人もの職場内ではかなり有名な問題職員と一緒に仕事をしてきました。そういう人事については言いたいこともありますが、今回は置いておきます。

 

話を戻しますが、問題職員のほとんどは、「すぐ切れる」「機嫌が悪くなって周囲に気を遣わせる」「威圧的な態度や言動をとる」という人でした。

 

そういう人と1対1の面談や会話で強く感じたのは、自分がパワハラをしているという自覚が全くと言っていいほどない、ということでした。

反対に、自分がそういう態度を取るのには、十分な理由や事情があるのだと強く主張していました。初めは、「そういう考えの人もいるのかな」と思っていましたが、出会う人、出会う人すべてが、同じようなことを言うので、私も考えを改めました。

 

パワハラをする人は、自分を被害者だと思っています。

つまり、理由があってやったことだから、自分がやったことはパワハラではないと思っています。

 

もちろん全部が全部ではないかもしれませんが、私の肌感覚としては、大多数があてはまります。

 

 

 

ハラスメント全般について言えると思いますが、無自覚であるからこそハラスメントはなくならない。

ハラスメントの類型のうちセクシャルハラスメントについては、自分の意図とは関係なく「被害者がそれをセクハラだと考えたらセクハラ」という定義があります。セクハラをした人が無自覚であっても、被害者がそう感じたらセクハラなのです。

 

これは、論理的に考えるとかなり無茶苦茶な話であって、被害者が「セクハラです」と言えば、すべてセクハラとなってしまう。いくらなんでも、それはないとも思います。

 

でも、そうなったのにはそれなりの理由があります。

セクハラが問題となる前の社会では、今では考えられないような言動がまかり通っていました。その後、セクハラという概念が社会的に認知されてくるようになりましたが、最初はセクハラをするような人たちは「そんなことまでセクハラなのか」とか「自分はそういうつもりではない」「受け取る方に問題がある」などと堂々と言っていたのを思い出します。

そういう人たちにわからせるためには、論理的には相当無理がありますが「被害者がセクハラと言えばセクハラ」と言わざるを得ない。そうまでしなければ、セクハラは無くならないと考えられたからではないかと思います。

 

 

話をパワハラに戻します。

今、パワハラに苦しんでいる人は、とても多いと思います。自分自身、パワハラで体調を崩したこともあります。

 

でも、当時のパワハラをした上司は、自分のパワハラが原因だとは思っていないと思います。多少厳しく教えただけだという程度でしょう。

 

現在のパワハラの定義(労働施策総合推進法)は、

(1) 優越的な関係に基づく言動であること

(2) 業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの

(3) 労働者の就業環境が害されるもの

で、(1)から(3)までを全て満たすものとされています。

お気づきかと思いますが、セクハラのように被害を受けた人がどう考えるかは問題にされていません。

ざっくり言えば、パワハラをした人が業務上必要だったと言えば、パワハラではなくなる可能性が非常に高い。

 

これが、パワハラが無くならない理由だと思います。

「被害者がそう思えばパワハラ」という無茶苦茶なことまで言うかどうかは別として、パワハラについては、明らかにセクハラよりも腰が引けています。

 

根底には、パワハラ的であっても強い指導があった方が組織運営がうまく行く、合理的な理由に基づく強い指導は受け入れられるべきだという発想があります。

でも、これは冒頭に書いたパワハラをする人のメンタリティと全く同じじゃないですか!

 

 

 

長い間、仕事をしてきた私自身の経験から言えますが、強く指導したり、強く言わなければならない職員は、結局、組織で使えるようにはなりません。

また、指導や人材育成は、強く言えばできるようになるなどという、簡単なことはありません。

 

学校における体罰が問題になった時も、当初は、多くの大人が「自分は先生や監督から殴られたが、愛があったからいいと思う」、「殴ってわからせなきゃならないこともある」等と述べていました。

他方で、体罰を加えずにわからせる方法がないかとか、体罰が本当に愛(合理的)なのかという根本的な問題を考えようとしていなかったことが思い出されます。

 

 

「理由があればハラスメントではない」という論理を採用している限り、ハラスメントは無くならないのです。

 

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前の職場に見切りをつけて退職、今までにやってきたこととこれからの課題 ~退職後の生活(途中経過)~

去年7月に退職して、本当の働かないおじさんになってから、約半年が経過しました。

 

これまでやってきたのは、一言で言えば生活を立て直すこと。

 

まず最初の1か月は、とにかく休みました。在職中は激務でしたので、想像以上に疲れがたまっていました。8月は暑かったですし、規則正しい生活は維持しながらも、家にいました。

それからは、次第に生活のパターンを作り、週に2~3度はランニング、テニスなどの運動をするようにしつつ、概ね1~2週間に1度生活が潤うような予定、例えば美術館、博物館に行く、友人と一緒に過ごすなどの予定をいれるようにしました。

 

同時に、生活環境の見直しをしました。

一つは、居心地のよい家に作り替えるように、掃除や持ち物の整理を始めました。半年でかなり理想の状態に近づきました。

もう一つは、金融資産の整理。仕事をしない間とりくずす現金のほかは、基本的には投資信託への投資に回すようにしました。

 

金融資産の整理とともに、支出についても管理できるように見直しました。

携帯代は契約を変更して月々1000円程度に絞り、その他のサブスクも必要最小限にしました。

持ち物を整理したことで必要な物を意識するようになり、物を購入する基準が変わりました。仕事をしていた時には、必要だと思ったら買っていましたが、今は更に、必要かどうかを熟慮したり、他のもので代用できないか、もし代用できるのであれば代用する物も使い切れるのではないかと考えるようになりました。

劇的に支出は減りました。

 

 

新しく始めたことは、このブログです。

当初は、少しでも収入に結びつくかな程度の思い付きで始めました。ただ、収入にはほとんど結びつかず、現在に至ります。

現時点で良かったと感じていることは、収入云々より、文章を書くのが根本的に面白いとわかったことです。

最初は、文章を定期的にアップするのは大変そうだと思っていましたが、意外とそれは大丈夫だとわかりました。書くこと自体は苦痛じゃない。

退職を契機に色々な本や情報に接するようになりましたが、そういうインプットされたものを自分なりの視点でアウトプットすることが、自分にとってとても役立っているように感じます。

例えば、今回のこの文章を書きながら、今後の人生をどう考えるか、考えを整理する機会にもなっています。

収入につながるかどうか等も含めて、今後、どう展開するかわかりませんが、続けていこうと思います。

 

 

 

退職を契機に、考え続けているのは、退職後の生活をどう組み立てるかということです。前に、退職後の見通しについては退職してから考えることと割り切って、退職を決断したということは書きましたが、今尚、考えることを継続中です。(※)

現時点で、今後の生活の方向性として整理できていることは、

1 金融資産の運用で資産を維持して不安がないようにする。

2 収入については、あせらない。とりあえず今年は職を探して就職することで、定期の収入を得るようにする。ただし、仕事は週に3~4日程度で無理のないものとする。

3 無理のない仕事をしながら、勉強をして新たなライフワークを確立する方向に動く。

ということで、やっていこうと思います。

1については、ほぼ形ができたと思っています。

2については、今年の課題だと考えています。これができたら、生活の自由度が増すと思います。

3については、検討を継続します(内容は、楽しみつつ、いろいろ検討中です。)。

 

※ ネットなどには、「退職をするなら次のことを決めないと人生終わる」という記事が多いですが、やり方によっては、そんなことはないと思います。

 

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現在58歳ですが、人生はまだまだ続きます。仕事を辞めたから、あとは気楽に・・・というのも悪くないですが、それだけでなく更に充実した人生にしていくためチャレンジを続けたいと思っています。

 

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直立二足歩行は一夫一妻制に適合している? ~更科功「美しい生物学講義」~

文系人間の私ですが、時々、理系の本も読みます。

 

アウストラロピテクスが直立二足歩行をし始めて、人類は武器を手にすることができるようになった。だから、人類は生存競争を勝ち残ってきた。

そう言われると、なるほどそうかと納得してしまう文系人間ですが、これは違うそうです!

 

更科功さんの書かれた「美しい生物学講義」によると・・・。

当時の化石には頭蓋骨が陥没しているものがあり、これが武器によるものとされていたこともあり、この頃から人間が武器を手にしていたと考えられたのですが、最近の研究で、それは武器によるものではなく自然界で怪我をしただけの可能性が高く、さらに武器の使用はそれからかなりの年月が経ってはじめて人類が覚えたというのです。

 

 

そうすると、直立二足歩行の人類が生き残ってこられたのはなぜなのか?

最近の仮説では、人類という種の中で「争いをやめた」から、ということになるらしい。

どういうこと???

 

直立二足歩行を始めたのと同時期に、人類には牙がなくなったそうです。

このことも考え合わせると、人類は直立二足歩行になると同時に争いをやめた可能性がある。争いと言うのは、他の動物に襲われるということもあるけれども、それよりも動物を脅かすのは、同じ種同士の争い、オス同士の争いです。

人類の牙がなくなり、直立二足歩行を始めた時、一夫一妻制的なことが始まったのではないかという仮説です。

 

多夫多妻制、一夫多妻制などと比べて、一夫一妻制は圧倒的に争うことが少なくすむので、人間社会が平和になった。そういう社会で、直立二足歩行の利点、手を使えることにより、食べ物を自分の家族に持って帰れるようになったことが、人類の生存に対して大きく寄与した。

なるほど。

 

 

一夫一妻制は、文化的、宗教的にそれが良しとされたことの産物であると、私はこれまで思ってきましたが、それだけではない可能性もあるのかと瞠目しました。

そう言われてみると、一夫多妻制などより厳しい制度である一夫一妻制が世界中で珍しくないことは、生物学的にも自然だと考えた方が、納得はしやすい。他の動物に比べて争いを好まず、争わないことで他の動物に対する優位性を確立しているのが、人間だということになるのでしょう。

 

メディアでは、不倫をした芸能人や有名人を叩いて喜ぶ姿が頻繁に見られます。

その報道姿勢が見るに堪えないことも相まって、これまでは不倫というのは人間が勝手に作った一夫一妻制に押し込まれたくない人が、自由を求めた姿ではないかとも感じていたのですが(この書き方も穏当ではないですね。有名人じゃなくてよかった)、生物学的に見ても、間違ったことなのかもしれない。

今度からは、そういう観点からも、不倫ニュースを見てみることにします。生物学的にも自然ではない不倫を求めてしまったのは、なぜなのか??

 

 

私などは、この本を読んだからと言って、生物学をきちんと学ぼうとするわけでもないのですが、そういう輩にもすごく興味を持たせてくれる本です。著者ご自身も、そういう人にも生物学の面白さを知ってもらおうと書いたとおっしゃっています。

 

ここに書いた以外にも、ロボットを使ったストーリーで「自然選択」(昔ながらの表現だと「自然淘汰」ですかね)が説明されていたり、現代的な課題である花粉症や癌、ips細胞についての言及もあります。

どれも、衝撃的にわかりやすいです。

 

ひっ迫を繰り返す医療現場は日本社会の縮図だと思う。

数日前に、救急隊員が居眠りをして救急車が事故というニュースがありました。17時間連続勤務だそうです。

 

コロナ確認から3年、何度もコロナの流行があり、その度に医療現場のひっ迫、保健所が回らないなどと言われますが、改善されない。救急車の事故も、その延長上にあります。

エッセンシャルワークと言われる病院などで、こういう状況です。それ以外の組織でも、特に問題として表面化しないだけで、仕事が普通に回らないのは同様だと思われます。

 

日本の組織のダメな点ですね。

何度経験しても学ばない。遡れば、太平洋戦争の頃から全然変わってないのではないでしょうか?

 

私のいた組織(国の組織です)もそうでした。

何度も同じ間違いを犯している。ほんの一例ですが、システムの導入に失敗したのは1度や2度ではないけれど、失敗したという認識すらしない。

ただ、なぜそうなるのかもわからなくはない。だから、感情的に糾弾するつもりはないのですが、でもそうは言っても、このままでいい訳がない。

 

 

現在の日本の組織について、一つ共通して言えることがあるのではないかと思います。

働いている人と、働いていない人がいる。

 

働いている人というのは、普通に働けている人。例えば、会社員なら普通に就職して健康で独身とか。要するに普通に働ける人です。

他方で、働いていない人は、

1 健康を害しているとか、子育て中とか配慮を要する人

2 組織を運営している人

この2種類だと思います。

 

1については、これまで何度となく記事に書いたりもしてきました(理念には反対ではないが、一部に仕事が集中している)が、今回は、2の組織を運営している人について、考えてみたいと思います。

 

 

通常、いわゆる幹部職員より上の人が、組織を運営する人という理解でよいでしょう。もちろん現場の職員も組織運営の一翼は担っていますが、組織運営が主たる仕事になっている人と言うと幹部職員です。

 

そういう人たちが、今の世の中、ルーティンをこなすことしかしていません。

毎年やらなければならないこと(人事とか)、突発的に起こったことの対応(報道対応とか)も重要な仕事ではあると思います。しかも、それだけで相当忙しいことも理解できます。でも、そういう幹部職員のルーティンだけやっていればいいのか?

 

期限は特に明確にはないけれど、長期的に見て重要なことで検討し実行しなければならないことに着手する必要はないでしょうか。

 

病院、保健所、消防署は、スタッフが足りない。コロナで大変になったり落ち着いたりを繰り返すことも、当初は、仕方のないことかもしれません。ただ、3年以上経った今でも同じ状況を放置しているのは、「誰」なのか。

 

犯人捜しは嫌いですが、責任の所在が全く明らかにならないのはおかしい。

私がいた職場でも、3カ月基幹システムが止まったことがありましたが、誰も責任を取りませんでした。

 

急がないけれど重要な問題については、責任を追及されないから、組織的な課題を考える人がいない状況になっています。

いろいろな組織で、たまりにたまった歪みが明らかになっているのに、見て見ぬふりが常態となっています。

組織のトップとかそれを支える立場の人、つまり次にトップになるような人は、かなり高い給料をもらっています。でも、それに目を向けることがない。

 

組織のガバナンスがどうとか、情報セキュリティがどうとか、かっこいい名前のついたものだけが仕事ではないと思います。

本当に、この組織(社会、国)をどうしなければならないかを考える必要があります。

 

 

自分自身、仕事をしていた時は、「こうしたい」という案を作って、上司や会議などに諮るようにしていました。

でも、退職する直前には、「そんなこと考えなくてもいい」と言われ、現場の状況を明らかにしたり、提案をしたりということをすると煙たがられるようになっていました。そんなことはやらなくてもいいと言われ、その代わりに、多くのブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)が課されました。

コロナの報告、働き方改革が順調にいっているかどうかの報告、仕事を間違わないために何をしたかの報告・・・・枚挙にいとまのない、どうでもいい仕事をしていました。

 

 

医療現場でも。コロナに関して異常に詳細な報告が強いられていたことは記憶に新しいところです。本来的な診療業務に支障を来すほどに仕事を増やしていたわけです。

 

本当に診療がうまく回るようにするためにはどうあるべきか、どうすればよくなるかという本当に大切なことは、誰か考えているのでしょうか?強く疑問に思います。

もちろん、病院の幹部だけが考えるべきだという簡単な話ではないと思います。現場も考えなければならないでしょうし、組織としてそういうチームを作るなど具体的な方策も必要でしょう。

でも、中心になるのは幹部以上の人たちであることは間違いないと思います。

 

 

このあたりで、病院が疲弊しないように考えて実行するのは誰なのか、保健所や消防署の体制を検討するのは誰なのか、裏返して言うとうまく行かない時に責任を取るのは誰なのか、一度正面から考えてみた方がいいと思うのです。幹部以上の人たちに、きちんと働いてもらうことが大切だと思います。

激しいストレスで苦しい時の精神的な対処法・考え続けないこと

仕事をしていた頃、人間関係や押し付けられた仕事について考え出したら止まらなくなって眠れなくなることが、よくありました。眠れないと体力も削られて、やがては精神的に参ってしまいます。

そういう時にどうしたらいいか。

今では、自分なりの一つの方法があります。

 

 

 

まず、人間はいろいろなものを見たり聞いたりして、「嫌だな」とか「苦手だな」というマイナスの感情が湧くことがあります。

こういう感情は自分の意思で制御することはできません。

外界の刺激に対する人間の自然な反応だからです。

外界の刺激に対する感情は、そのままほおっておくしかない。

 

 

 

問題は、感情が湧いた後、人はそれについて考えることです。

「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」、「なぜ社会はこうなのか」など、実に様々なことを考えます。

こういう考え続けてしまうことは、実は制御が可能です。

 

「嫌い」という感情があって、「あいつは・・・で怪しからんやつだ。あんなこともあった、こんなこともあった」等々と延々と考え続けることも可能ですし、「だから、できるだけ距離を置こう」とポジティブに考えることも可能です。

 

更に、考えること自体をやめることも可能です。

考えることをやめると、心は楽になります。

 

ストレスがかかって眠れなくなっている時には、頭の中をいろいろなことがグルグル回り、仕事のことや人間関係のことが頭から離れなくなっています。考えたくなくても考え続けてします。ストレスフルな事実を嫌だと思う感情はあるがまま受け入れるとしても、その後、そのことを考え続けて苦しい。

だから、考え続けることをやめたらいい。さっさと眠れば楽だし、体力も削られない。

 

ただ、それは、言うほど簡単なことではありません。

こういう「考え続けてしまうこと」をやめるコツを考えてみます。

 

 

コツ(1) 「自分が意図して考えていることは止めることができる」と知った上で、まずは意識的にやめようとしてみる。

往々にしてありがちなのですが、マイナスの体験をしてそういう感情が湧くと、そのあと色々考えたくなる。いかに自分は被害者かとか、いかに相手が酷いかとか。感情に任せて考え続ける状態になります。

感情に任せていたら、ずっと考えが止まりません。

まずは、ここで「考えるのをやめよう」と意識的に思ってみる。これだけで、結構嫌なことを考え続ける苦しい状況が解消される可能性があります。

 

コツ(2) 自分の感情によって考えが止まらなくなっていると気づいた上で、そういう自分を客観視する。

「自分の感情によって考えが止まらなくなっている」と気づいた上で、そういう自分を客観視することで苦しみから逃れることができます。

「ああ、自分は今・・・が嫌でたまらなくて考え続けている」と自分で自分を客観的に見るようにします。そうすると次第に考えが静まっていきます。

無理に考えることをやめようとはしないけれど、考えに没入はしないというイメージです。

 

これは、座禅、瞑想などで心を静めるのと同じだと思います。ストレスで負の考えにとらわれて苦しんでいる状態から逃れる場面でも、大きな力を発揮すると思います。

 

 

 

結局、自分を痛めつけるのはストレスそのものではなく、それを考え続ける自分自身です。ストレスフルなものから逃れたいと思って感情に任せて考え続けることは客観的な解決にはつながりません。

そして、こんな風に感情に任せて考え続けている時には、自分では制御できないことを考えていることがとても多い。社会の矛盾だとか、他人の悪いところだとか、自分で変えることができないことを、延々と考えている。

 

だから、(1)まずは、自分を自分で痛めつけることをやめること、(2)その後、自分で変えられることは何かを落ち着いて考える、という順序で、自分を制御することが大切だと思います。

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足るを知ることが、幸せな人生につながる。 ~塵芥居士「丁寧な暮らしをする餓鬼」を読んで~

「丁寧な暮らしをする餓鬼」(塵芥居士著)という本を、東京国立博物館ミュージアムショップで見つけました。

とても面白いです。

ほろっとさせられるところもあります。

 

 

「餓鬼」というのは、強欲な人生を送った人が死後、「餓鬼道」というところに生まれ変わったときの姿です。本の挿絵にあるような様子で、痩せていてお腹だけが膨らんでいる飢えた人というのが一般的なイメージです。

この普通の餓鬼は、飢えていても食べ物を食べることができず、いつまでも苦しんでいます。

 

面白いのが、餓鬼にも種類があって、そういう一般的なイメージの餓鬼のほかに「富裕餓鬼」というのもいるそうです。

 

いろいろな物を持っていて、食べることにも不自由していない。

でも、持っている物を失うのが怖くて、あるいはもっと物が欲しくて、苦しんでいる。

 

 

これって現代人に重なるような気がします。

物に限らず、失うことが怖く、もっと欲しいと思う。

今の裕福な生活を失いたくないから、失業の恐怖、左遷の恐怖、収入が減る恐怖におびえる。もっといい生活がしたい、もっと出世したい、もっとステータスになるものが欲しいと求め続ける。

まるで餓鬼のように渇望し続ける。

 

でも、実は、自分たちは過剰に持っている。

すでに手に入れているのに、足りないような気がしているだけ。

「足るを知る」ことで、渇望から逃れ、幸せに近づくのに。

 

 

 

自分には既に必要なものはそろっていることに気づいて、過剰な物を求めないというのは、最近流行りのミニマリストに通じるものがあります。

また、『大人もぞっとする日本の「こわい古典」』という本の中では、餓鬼が平安時代の古今著聞集に出ていることが指摘されています。(「水餓鬼」)。平安時代には既に、過剰に欲しがることは幸せにつながらないことが認識されていたということです。

 

 

現在のミニマルの考え方にも、平安時代の古今著聞集にも指摘されているところを見ると、足るを知ることが幸せな人生につながることは、普遍の法則なのかもしれません。

 

 

 

ちなみに、「丁寧な暮らしをする餓鬼」という本を見つけたのは、厳密には私ではありません。一緒に行った人です。ミュージアムショップで姿が見えなくなったと思ったら、この本にかじりついていたのです。餓鬼のように貪るように立ち読みをしていました。

一体、何がその人を惹きつけたのかは疑問です。

 



子育てをした親が考える「異次元の少子化対策」(2)(少子化対策の提言)

前回、現在の子育て環境の問題点として、

 

1 体力的な負担が大きすぎる

2 経済的、金銭的な負担が大きい

3 精神的負担が大きく、生活が硬直化する

 

ということを挙げました。

 

解決法を考えてみたいと思います。

個人的な思い付きのようなものですが、こういうことを考えることで、少子化問題がいかに国の制度の根本に関わっているかがわかると思います。制度の根本問題について議論がされることを願ってやみません。

 

 

1 体力的な負担について

子育てをしながら働くというのは、大きな負担がついてまわります。

この負担をどうするのか。従来の生活様式を前提とする限りはこの問題は解決しないと思います。専業主婦を前提とし、実家や地域の援助が見込めるような社会ではなくなってから随分経っていますが、役割分担は従来のままです。男女の役割分担、地域と家庭の役割分担、学校と家庭の役割分担、家庭と職場の役割分担。

男女の関係では、女性が子育てを一手に担うことが不可能という認識はできてきましたが、そこに夫も関与したら解決するという安易な雰囲気があります。

地域との関係では、地域社会は昔のように防犯機能や教育機能は期待できない。

だからと言って、教育、防犯、保育などの機能が、なし崩し的に学校に押し付けられているのが現状ですが、その期待に学校は答えられない(無理に決まっています。)。

 

一つのアイディアとしては、子供の居場所を確保する制度の創設が考えられます。生まれたばかりの子供から小学校を終了するくらいまで、日中(朝から夜まで)の生活をする場所を制度として提供する。そこでは食事や教育を提供して、原則として親とは仕事が終わって次の朝までも一緒に過ごすだけにする。

 

現在の制度を前提とすると荒唐無稽と考えられるかもしれません。

でも、保育園に入れないという問題の解決に10年スパンの時間をかけ、男性や職場の意識変革や協力に過大な期待を抱き、PTAは親の負担が・・とか議論している場合では、もはやないと思うのです。

 

 

 

2 経済的、経済的負担、精神的負担について

根本的な経済対策が必要だと考えられます。

労働法制も絡みますが、現在のような終身雇用、年功序列の制度は完全に時代遅れであるにも関わらず、今なお温存されています。

ただ、いきなりアメリカのような自由競争社会というのは日本人にとっては相当ハードルが高いように思います。肌感覚ですが。

では、終身雇用、年功序列のよくないところは具体的には何なのでしょうか。

 

日本人は会社がつぶれることを嫌います。大企業がつぶれそうになると国を挙げて大騒ぎです。税金を投入して一企業を救ったこともあります。このメンタリティーを捨て去ることは難しいかもしれません。考えてみると競争力がないからと言って、その企業をつぶせばいいというのは、ある意味極論です。ぶっつぶさなくても使えるようにできないのか?

 

一つの解決策は、労働の流動性を高めることだと思います。

企業をつぶさないような制度を温存するとしても、働く人が自由に働く場を変えられる(企業にとっては必要のない人材を解雇したり、事後的に必要な人材を採用できる)制度を作ることではないでしょうか。

「働かないおじさん」問題とか言われていますが、少子化の裏返しの高齢化社会になるに伴い、問題は顕在化しています。他方で、優秀な人材が合わない組織で腐っていっている。転職などで経験を積むことでさらなる能力の開花が見込める人材も同じ場所にいることで腐ってしまう。

 

ある職場を辞めたら、次の企業では即戦力でなければ採用しないという、できるはずのない要求はもうやめるべきだと思います。次の職場に移行する際のトレーニング込みで転職を考える制度を創設することを考えてはどうでしょうか。

職業訓練のハイレベルバージョンのようなイメージでしょうか。

 

転職しようとする人のハードルを下げ、転職によって給料が極端にダウンしない制度を作ること、本当の意味での同一労働、同一賃金を実現することだと思います。

経済の発展にも寄与するはずなのに、なぜか長い間これができない。

 

子育てを躊躇させるのは、目の前の給料が少ないというのもありますが、よりよい生活を目指せないという硬直した制度にも問題があります。

自分の能力に応じた報酬が得られるような社会であれば、それを見込んだ余裕を持って子育てをするという見通しが立てられるのです。

 

3 まとめ

結局、少子化問題を解決するには、(1)の冒頭で述べたように

 

1 保育、教育制度を見直す

 子供の居場所を確保して、そこで食事、教育などトータルなサービスが受けられる制度を創設する。

 

2 年功序列、終身雇用制度を作り直して、労働力の流動化を図る

 労働力の流動化を促し、能力のある人の活用を図る。制度の創設により、新たな産業も出てくると考えられます。そういう制度を維持、発展させるためには、能力のある人材で運営できるようにする。

 

ということになるのではないかと思います。

思い付きの一試案ですが、これに類することが政治の場で議論がされる必要があると思います。

現政権の岸田総理であるか、次の政権であるか、また、与党であるか野党であるか、わかりませんが、真摯に議論をして実現しようとして動いておられる方を応援していこうと思います。