スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

プロフェッショナリズムとヒューマニズムの境界線 ~上級国民の逮捕について~

仕事をしていた時、職場の窓口に年配の男性がいらっしゃいました。

私のところに来て「大変お世話になりました。さきほどすべて片づけてきました。」と御礼を言われたのですが、とっさに何のことかわからず、「それは、よかったですね。」と適当な受け答えをしてしまったことがありました。

男性が帰られてからしばらくして、「ああ、あの件か」と思い出したのですが、とても残念で自分で自分が情けない気持ちがしたものです。

 

今でもその方のお気持ちはありがたいと思います。そういう気遣いが人として本当に大切であることは疑いのないところであって、それを機会に改めて自分自身を戒めようと思いました。

 

他方で、考えたことがあります。

どんな仕事であっても、いろいろな「やらなければならないこと」を抱えています。だから、一つ一つ覚えてはいられないという側面も不可避的にあります。

 

 

 

刑事ドラマや映画であれば、捜査対象の犯罪者や目の前の被害者に100%向き合い、人生の深みにまで立ち入って事件を解決する。医療ドラマであれば、患者や親族、場合によっては遺族の立場や心情にまで最大限配慮していく。そういう理想形が提示されています。

ただ、実際の仕事では、それは不可能です。

それにもかかわらず、ドラマや映画を超えて、ネットやメディアで、そういう不可能なことを要求している場合があります。

 

 

 

悲惨な交通事故の加害者を逮捕しなかったことについて、「上級国民だから」などと批判が声高になされて日本社会自体が通常の国民をないがしろにしているような報道が繰り返されたことがあります。

でも、「逮捕」というのは「処罰」ではありません。必要性が無ければできないのです。だからこそ、令状を取る必要もあります。

警察は、多くの他の交通事故と同様に事件を処理しただけだと思います。

 

この時の警察の判断は、全く間違っていなかったと思われます。ワイドショーなどでも、弁護士さんなどがそういう説明をしておられました。

しかし、誰も聞く耳を持っていませんでした。

 

 

多くの人は、それでは気が済まなかったのです。

悪い者が野放しにされる。ヒューマニズムの観点からは許しがたい。

 

 

しかし、考えなければならないのは、犯罪捜査、医療などに限らず、仕事にはその目的があるということです。

例えば、捜査の目的は「犯罪を立証すること」です。

犯罪を立証するために必要であれば逮捕は認められますが、現場の警察官が被害者がかわいそうだからという理由で、犯罪者を逮捕することはできません。当然のことながら、これは日々仕事をしている警察官には叩き込まれています。

それが、プロフェッショナルとしてとても大切なことだと思います。自分の立場をわきまえ、自分に課された仕事をする。

プロフェッショナリズムは、なんとなく第三者を満足させるためにあるものではありません。

 

それに対して、ヒューマニズムは優しさや労りの心を多くの人で共有することを目指すものです。

 

 

 

 

自分自身の体験に戻りますが、私がその男性のことを覚えていなかったのは、多くの仕事の中で、その方に関する仕事は既に終わったものだったからです。だから、覚えていなかったことに関して、落ち度があったとは全く思っていません。

けれども、他方で、その方が御礼を言いに来てくれたことは、その後の私の仕事へのモチベーションを大きく高めたことは間違いありません。また、人としてのそういう姿勢は、今でも私に影響を与えています。

 

 

私が就職するよりも前の小説ですが、プロフェッショナリズムとヒューマニズムの境界線を題材にしたものがあります。渡辺淳一さんの「白き手の報復」という短編集の中の「少女の死ぬ時」という作品です。

古い作品で、読み返したいと思って図書館で探したのですが無く、アマゾンでも中古で入手するしかありませんでした。

異論もあるかもしれませんが、ヒューマニズム一辺倒の今の世の中だからこそ、とても考えさせられる作品だと思います。

 

完全に正しい価値観について ~セクハラと言われたら反論できないことの問題点~

ミニマリストは貧乏くさい。」

「ブログは自分のプライバシーを晒す。何が面白いのか。」

と言われました。

 

酷いことを言うなと思う反面、そういう見方もあるし、気を付けるべき点もあるなと思いました。私としては、「スタイルのある(貧乏くさくない)ミニマリスト」を目指すことにして、「強盗に遭うようなプライバシーは晒さないけど、深い本心を匿名で語る質の高いブログ」を目指そうと思いました。

 

人によって、いろいろな価値観があるものです。ただ、とても難しいですが、自分自身は、自分と反対の立場の人の意見に対して批判の言葉を投げつけるようなことはせず、できる限り寛容でいられたらいいなと考えています。

 

 

最近、感じることがあります。

SDGs、ジェンダー、性的マイノリティなどが語られる際の態度についてです。

「それは持続可能ではない。」、「女性は虐げられている。」、「性的マイノリティは尊重されるべき。」と言われると、相手は沈黙せざるを得ない。絶対的に正しい言葉

 

そういう価値観を全く理解していない人がいて、そう言わざるを得ないことがあることは否定しません。

ただ、そういう「絶対的に正しい言葉」は、伝家の宝刀であり、抜いたら必殺です。伝家の宝刀は、そうそう簡単に抜くべきではない。

 

 

 

例えば、職場での体験ですが(これを語ること自体、躊躇がないわけではありません。)、男性上司から「ハタさん(もちろん本名)。それはセクハラです。」と注意されたことがあります。

 

若い男性職員同士が、久しぶりに会ったらしく、冗談で「久しぶり~!」と大仰に盛り上がっていたので、「女子大生みたいだなあ」と笑って言ったのです。これがセクハラ認定でした。

 

えっ!

周囲に女性もいましたが、セクハラ認定をしたのは男性上司。

 

「女子」というのが性的ということだったのでしょう。

それ以降、発言には、本当に気を付けるようにしました。

 

「それはセクハラだ。」というのは、絶対的に正しい言葉です。

そういう言葉を人に投げつけられた場合は、反論することは極めて難しい。更に、安易に反論をすると余計に深みにはまりかねません。

その時には、すごく微妙な空気になりましたが、やはり「セクハラではない」とはっきり言う人はいませんでした。「セクハラ」と言われた以上は、そうしておいた方が楽なんです。

 

 

最近、総理秘書官の発言のニュースがありました。

毎日新聞のスクープだったようですね。

 

同性婚なんか導入したら、国を捨てる人も出てくる」と秘書官が言ったとのことです。この発言は、LGBTQの人たちへの極端に不寛容な姿勢が明らかに読み取れます。その不寛容さは確かに問題だと思います。

 

ただ、今回、同時に気になるのは毎日新聞の記者のことです。「性的マイノリティ差別」というのは、やはり「絶対的に正しい言葉」です。それを論拠にしていれば誰も批判はできない。だから、記事にしたという匂いがする。

そうであれば、自分と立場の違う人への不寛容さにおいては、秘書官と何ら異なる点はないと感じられます。

 

秘書官を擁護はしません。

ただ、オフレコのやり取りの中で、その部分だけを切り取って報道するのはバランスを欠いています。少なくとも、その場でどういうやりとりがあったのか、その中で秘書官の発言の真意が何なのか、その真意を前提にしても問題があったとすればどういう点なのかという論証をすべきだと思います。

「性的マイノリティ差別は許されない」という「完全に正しい言葉」の価値観に乗っかって、勢いで記事にしただけのように見えます。

言葉を生業とし、国民に公正な情報を届けるマスメディアであるからこそ、その不寛容さに強い違和感を覚えます。

 

結論として、今回報道したこと自体は間違っていないのかもしれません。でも、こういうマスメディアの不寛容な姿勢は、大きな間違いに繋がる可能性を孕んでいると、私は思います。

 

 

 

こんなことを言うと、私自身が炎上しかねない恐ろしさを感じます。

そこがこういう「絶対的に正しい言葉」の問題点です。

 

 

 

自然法則は100%正しい。「作用があれば反作用がある。」、「全ては無常である。」「1+1=2」とかは完全に正しい。

それに対して、完全に正しい価値観は存在しません

いろいろな価値観がありますし、それが語られる様々な環境によって正しいかどうかも一定ではありません。例外もあります。

だからこそ、反対の立場の考え方にも一定の配慮をして、一方的に排斥しない寛容な態度が不可欠なのだと思います。

 

 

 

 

自分自身は、相手を黙らせるために「絶対的に正しい言葉」を使わないようにしたいと思っています。相手を黙らせても、自分は幸せになれません。

また、絶対的に正しい言葉を投げつけられた時には、基本的に反論はしないけれど建設的な解釈をして次につなげて行けたらいいなと思っています。

 

投資を理解するために、投資から撤退すべき時について考える。

今まで、投資の重要性について書いてきましたが、でも投資はいいことばかりなのでしょうか。

投資を勧められた際に、私自身とても疑問に思いました。

 

これまで私は、個人の金融資産としてアメリカのインデックス投資信託がよいのではないかと書いてきました。自分自身の20年以上の経験からも悪いものでなかったと思います。

 

しかし、このような手法にも条件があると考えています。個人的な見解ですが、述べてみます。

それは、投資する対象(私の場合はインデックス投資信託)の市場で、資本主義経済制度が正常に機能していることです。

簡単に言えば、ちゃんとした市場であることです。

 

ちゃんとした市場とは、

1 市場ができる限り公正に運用されていること

2 資本主義経済制度の理念から、成長が予測できること

が担保されている市場です。

 

逆に言うと、こういう条件が無くなった場合には、投資の資金はすぐに引き上げた方がいいと考えています。それぞれを、わかりやすいように日本とアメリカを比較してみます。

 

1 市場が公正に運用されていること

資本主義経済においても、政府の介入などが全くない市場はおそらく存在しません。

ただ、その程度は市場によって大きな違いがあります。

 

政府などの介入が最も少なく、自由競争を重んじるのがアメリカだと言われています。政治の影響を全く受けない訳ではありませんが、厳格なルールのもと公正に市場を運用しようとする姿勢があります。

 

それに対して、日本では、戦後に限って見ても、資本主義経済制度を採用している建前なのに、企業間で自由競争が大きく制限されています。下請けと言われる中小企業は、大企業に買ってもらうために熾烈な競争をしていますが、元請けの大企業などはそうではありません。

 

大企業は、かつては「護送船団方式」で利益を上げてきました。詳しくは述べませんが、これは自由競争をするというよりは、国の政策に沿って大企業が資本投下を行い国全体で利益を出していく方法です。

バブルが崩壊して以降は「護送船団方式」は無くなりましたが、最近では、大企業は自由競争により、よりよい製品を生産して利益を上げるよりは、人件費をある意味不当に抑制して利益を確保して内部留保をして生き延びています。

仮に利益が上がったとしても、資本主義社会では当たり前の賃金は上げないようにして、それを内部留保としてため込むということを国を挙げてやってきたように見えます。失われた20年、30年の時代でも利益を出していた企業はありましたが、給料が上がることはありませんでした。

 

最近、インフレが進んで庶民の暮らしが・・・と言われてから、国や経団連などが示し合わせて遅まきながら賃上げをする方向で動いています。賃上げが国やどこかの団体の思惑でしか上がらないと言うのは本来はとてもおかしなことです。

アメリカと比較すると、政府などの介入の程度が大きいことは明らかだと思います。

 

そういう制度や政策を選択したのは、国民が選挙で選んだ政治家などですから、私は文句を言うつもりはありません。

ただ、自分の資産を日本で運用するかどうかということになれば別問題です。絶対に、日本では運用しません。

現に自分が運用をしてきた20年間、日本の市場の金融商品に投資をしていたら、利益が出たかどうかは、怪しいと思います。このことは、日本の代表的な投資信託の過去20年の値動きを見てみればわかります。

 

 

2 成長が予測できること

インデックス投資信託に投資をするということは、性質上、市場全体に投資をしていようなものです。だから、市場として成長するかどうかがカギとなります。

資本主義経済というのは、基本的には拡大して利益を出していくものです。物が売れたら利益となり、それが賃金に反映され、その賃金でまた人が物を買うという循環で社会全体が潤っていきます。物を買う人がだんだん増えていけば、自然と社会全体が豊かになる。ものすごく簡単に言うと、そういう側面が確かにあります。

 

現代的な問題ですが、日本では、少子化により人口が減少しています。

これは、資本主義経済制度を維持するのであれば根本的にヤバい事態です。物を買う人がどんどんいなくなっているのです。

少子化に進んでも、労働者一人当たりの生産性を上げるとか、輸出産業を育成するなどの対策はあると言われていますが、そういう政策が始まる様子はありません(あるのかもしれませんが、知りません。)。

 

これに対し、日本と比較するとアメリカは将来的に人口はまだまだ増加すると予測されています。生産性も日本より高いことは、よく言われるとおりです。

 

こういう状況を見れば、個人としての投資先としては、どう転んでも日本にはなりません。

 

 

 

現在、個人的にはアメリカの投資信託に投資していますが、ここに書いた条件が満たされなくなったら、そのときは投資から撤退すべき時期だと思います。

 

人生のお手本~沢木耕太郎さんのかっこよさ~

先日、沢木耕太郎さんがNHKの番組でインタビューを受けておられました。

そのブログで「かっこいい」と書きましたが、私が考えるかっこよさのポイントについて書いてみたいと思います。

 

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1 外見

今回、沢木耕太郎さんは、黒のタートルネックにジャケットを着ておられました。昔からこういうシンプルなものを着ておられたように思います。バブル時代でも変わらず、シンプルだった記憶があります。

黒のタートルネックと言えば、スティーブジョブスも有名ですが、私は、断然沢木耕太郎さんのイメージが強いです。最近はミニマリストの方なども、こういうシンプルな格好を好む人が増えています。

 

結局、身に着けるものは、自分を引き立てるものでなければならないということでしょう。服そのもののデザインが良くても、それが自分を引き立てていなかったり、人間が服を引き立てているのは、どうなのかと思います。

私の記憶では、沢木さんは服にはあまり気を使わないというようなことを書いておられたような気がしますが、今回のインタビューでNHKのサイトにもアップされた写真を見ると、沢木さんの人柄や知性を浮き彫りにするような、絶秒のコーディネートだと思います。

 

私も真似をして、どんどん服の数を減らして、シンプルなもの、少しでも自分を引き立てるものだけを残すようにしようと思います。

 

2 人に対する姿勢

「銀の街から」という映画エッセイ集では、宮崎駿監督の「風立ちぬ」にさらっとダメ出ししていたりして、私などは、天下の宮崎監督にそんなこと言って大丈夫なのかなと思ったりもするのですが、最後に「これは宮崎監督にもう1本撮らせるための作品だ」と言って、宮崎監督へのリスペクトがさりげなく添えられています。

ネットの記事などを見ていると、悪意を持って書いていると感じられるものや、ほめてはいるけど本当に書き手がそう思っているのかと疑わしい記事も多いですが、こういう相手におもねることはしないけれど、きちんと尊重する態度はすごいと思います。

 

本当に学ぶべきところだと、思っています。

 

 

3 内面がにじみ出る態度

NHKでインタビューを受けておられる時に、桑子アナウンサーから最後の質問として、「今後は、どういう作品を考えているのか?また旅に出るのか、それとも・・・」というような質問をされましたが、それに対して、わりと長く考えた上で、「それを言っちゃ面白くないでしょう。」と返しておられました。

なんとか、インタビュアーを尊重したい、でも、答えられない、答えたくないということだったのだろうと思います。それを誠実に、「言葉」と「シャイな態度」で示されたのだと思います。

 

ちょっとした所作に人間性がにじみ出ているような気がします。

 

 

 

以上、ご本人にお会いしたこともない私個人の勝手な分析です。

沢木耕太郎さんは、深夜特急を書かれている通り、旅をすることを大切にされていて、多くの人や多くの文芸作品や映画などに関わりながら、質の高い作品を紡いでこられた方です。

こういう外見とか所作とかミーハーなことではなく、作品の中身さえ見ればいいと言われる方もおられると思います。それは正論でもっともだと思うのですが、私にとっては、作品のみならず外見や生き方すべてについてお手本と言ってもいいと思います。

 

私は沢木さんのように旅を愛するところまでは行かないですし、あんなに精力的に人と関わることもできていないとは思いますが、人生を歩む際には、少なくとも同方向の姿勢をめざしていきたいと思います。

 

 

退職後の人生は迷って当たり前~決めるまでは迷え、決めたら迷うな~

これからどうしようか、ここ半年考えていました。

 

 

退職した後、立ち止まる期間は無制限、ゆっくり考えようと思っていましたが、他方で、なんだか焦る気持ちもありました。

人が働いているのに自分だけ働いていない感覚も少なからずありましたし、期間は決めずと言っても、一体どのくらいで進むべき方向性が決まるのかという不安もあったからだと思います。

 

現在、一応の方向性が決まりましたが、そうなるまでに役に立ったことがありました。

 

1 読書

多くの本を読むことができました。

また、昔読んだ本を久しぶりに読み、新たな発見もありました。

本当にいろいろなことに気づかされたと思います。

 

沢木耕太郎さんの本を読み返して、人生の方針が固まりました。甘えないでシンプルに自分の置かれた状況を分析して、ちょっと熱く理想を持って生きていきたいと改めて思いました。

 

 

今回新たに読んだ本では、小野寺史宜さんの「まち」の中に出てきた「決めるまでは迷え、決めたら迷うな」という言葉が強く印象に残りました。作中の若き主人公に向けられた言葉で、いい歳の私にはおこがましいのかもしれませんが、6カ月しっかり迷ったので、これから迷わず進んでいけたらいいと思います。

 

 

2 ブログ

仕事を辞めて時間に余裕ができてからこのブログを始め、同時に他の方のブログも読むようになりました。

 

退職前は、大手サイトの記事を読むことが多かったと思います。忙しくて時間もなかったので、そういう記事しか読めませんでした。

率直な感想としては、大手サイトの記事は正しいことは書いてありますが、心に響くものは少ない。

 

それに対して、個人の方のブログには、自分の人生について真面目に向き合っているものが多く、少なからず影響を受けました。

 

打ち込んでいたものから離れて次の自分探しをする日々を綴ったもの、全く異業種に転職をして、でも余裕を持って暮らしつつ気づいたことが書かれているもの、退職を機に地方へ移住してその体験を発信しているものなど、様々なブログに出会い、元気をもらいました。

 

自分が迷っている時に、対面だけでなく、他の人の経験に触れることができたことで、自分のこれからの方針を決めることができました。

 

 

3 散歩

この半年、よく歩きました。

東京都区内を横切って歩いたりもしました。知らないところをゆっくり見られてよかったのは勿論ですが、一人で考えることができたのがよかった。

何かあって受け身に考えるのではなく、「これからの人生どうしようかな」と自分自身が主体的に考えるいい時間でした。

「決めるまでは迷え、決めたら迷うな」という観点からすると、歩きながら随分迷いました。

 

 

 

読書をして、ブログを書いて、散歩をして、考えました。

若い頃からずっと、仕事にやりがいを求めて、仕事をして自分の価値を確認してきたようなところがあります。

でも、これからは、余裕を持って生活をするために仕事をしようとは思います。仕事以外にやりがいを求めていこうと考えるようになりました。

 

そう考えると、まず仕事を探す心理的なハードルが下がりました。

相応の給料で、無理のない範囲の仕事を探せばいい。生活費は減らしたから多くの収入は求めない。その代わり、自分のやりがいを求めるための余力を残すことは必須。

やりがいを求める部分については、特に収入につながらなくてもいい。

これが現時点で考えた到達点です。

 

今日これから、とある団体に履歴書を出しに行こうと思います。就活の始まりです。

 

国やマスメディアが騒ぐと給料が上がる不思議な国 ~素朴な疑問~

ユニクロの従業員の給料が最大で4割上がるそうです。

いいですね。

その後、それに追随する企業が出てきています。これもいいことなのでしょう。でも、なんとなく違和感がぬぐえません。

 

 

企業は利益が出たら、設備投資、株主への配当などに使い、次に従業員への給与に充てます。つまり、企業に利益が出たら従業員の給料が上がります。

そうすると、上がった給料で物が買われますから、巡り巡って企業に利益が出るという循環が起こり、景気がよくなります。

これが、資本主義社会の原則です。

 

 

でも、今は、原材料費の値上げなどで企業の業績は悪くなっているんですよね。

なぜ給料が上がるのだろう????

 

給料が上がることに文句を言う人はいないから、特段問題にはなっていないけれど、なんかおかしい気がする。

 

 

企業は、今は利益が出てもいないけど、従業員のために給料を上げるということなのだろうか????

そんな聖人君子が企業を経営しているとすると誇らしいですが、やっぱり違う気がする。

 

今、世の中の風潮、政治、マスメディアが給料を上げないといけないと言い始めたから、批判をかわすために、これまでの内部留保を吐き出すということなのではないのか・・・。

そうだとすると、これまで大企業が内部留保を蓄えるために、下請け企業がぎりぎりの状態でやってきていて、だからこそ、今、中小企業が賃上げをできないという構造が理解できる。

 

 

資本主義社会は弱肉強食の社会と言われるけれど、他方で競争に勝てば潤うし、競争をすることで経済全体が上向くという仕組みになっているはずです。

でも、日本ではそうではない。

政治家、大企業の経営者など一部の人の裁量や雰囲気でいろいろなことが決められているように見えます。

 

失われた20年の原因は実はこういうところにあるのかもしれない。

日本では株価が理屈どおりに上昇(下降)しない。通常の資本主義経済の理屈では説明できない。

だから、私は日本株に投資をすることはしません。

 

本当に大きな問題ですから、細かい難しい問題もあるのでしょう。

ただ、根本的なところが何か間違っているように感じられるのは、私だけでしょうか?

早期退職後の人生について半年考えた。動き出すことにした。

昨年7月に早期退職をしました。

 

退職するに際しては、「もう限界」、「早く辞めたい」とずっと考えていました。

でも、巷には、「退職するならば、退職する前に進路を決めてからでも遅くはない。」、「転職先を探してから転職すべき」という言説が大手のニュースサイトなどに多く、とても迷いました。

 

 

でも、私の感覚としては、退職する前に転職先を決めたり、具体的な進路を明らかにする余裕があるのであれば、そうしたらいいけど、そんな余裕がないことの方が多いのではないかと思います。

 

自分自身、最後はブラックな職場で働いていて、仕事が終わったらもうへとへと、家に帰るのは午後8時~11時、それから必要最小限のことをして、次の日は5時前に起床して仕事に行く、泊り勤務も休日出勤もある、という生活をしていましたから、余裕なんて一切ありませんでした。

 

 

こんな風に、余裕のない状態で無理して転職先や退職後の進路を決めると、同じような職場に転職してしまうなど同様の環境に身を置くことになると思いました。自分が今までいた職場と同業種のところに就職するならば、その可能性も高まります。

 

 

だから、「このままでは健康を害するかもしれない」と考えた時点で、できる限りの準備はするものの、退職後のことは退職後に考えることにして、とりあえず退職したことは正解だったと思います。

 

hatasan2.net

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退職から現在までの半年間、仕事をしていた時は、やりたくてもできなかった読書をしたり様々なものを見たりしながら、今後の人生をどうしていくのか、じっくり考えるようにしました。

仕事をしていた頃は、ブラックな職場でしたので、仕事以外のことはロクに考えることもできませんでした。でも、退職をしたことで時間が取れるようになり、集中して考えることができました。

 

 

それから、退職後にこのブログを始めて、他の方のブログを読むようになりました。

大手企業のサイトの記事ではなく、個人の方のブログを拝見していると、退職後に地方へ転居して新たな生活をスタートされた方、全くの異業種の職業で生計を立てておられる方、いろいろな方がいらっしゃいます。

とても参考になりました。

 

 

こんな風にして、一度、心をリセットして、退職後のことはそれから決めることにして、働いたりはせず過ごしてきました。

 

 

 

この時間があったおかげで、何となく方向性が見えてきました。

自分がどうしたいのか。

仕事をしていた頃の、張り詰めた、追い詰められた、自分自身の心を失うような生活は、もう決して、しない。できる限り余裕を持ちながら、でも、やりたいことを見つけては前進していく。

そう考えて、私もこれから動き出すことにしました。

 

 

 

私は、大学を卒業して就職する直前、2つの方向性を検討していましたが、法学部に在籍していた流れで前職を選びました。

その時、「将来やってみたい」と思っていたけれど選択しなかった、もう一つの道があります。その続きをやってみようかと思います。

道筋については、まだ調べなければならないことも多いのですが、ゆっくりでいいので、やりたかったことに改めて挑戦しようと思います。もしかしたら、大学から勉強しなおさなければならないかもしれません。

でも、人生の一つの目標に向かって、動き出そうかと思います。

 

 

そして、人生の目標に向かって動き出すために職を得ようと思います。

これから勉強するにしてもお金の問題は避けては通れません。勉強に専念できればいいのかもしれませんが、できる限り現在の資産を切り崩さずに、リスクを避けてやって行こうと思えば、収入の道を確保することが必要だと思いました。年齢のこともありますし。

ただし、週に3日~4日程度の無理のない仕事で、収入も多くは求めないことが大事だと思っています。

同時に、この転職という経験も、将来の貴重な経験になるのではないかとも考えています。

 

 

 

こういうやり方は、社会の常識、人生のレールから外れると見る方もいるようです。

でも、楽しんでやっていければいいなと考えています。

 

まあ、退職した時点で外れているんですけど。(笑)