スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

プロフェッショナリズムとヒューマニズムの境界線 ~上級国民の逮捕について~

仕事をしていた時、職場の窓口に年配の男性がいらっしゃいました。

私のところに来て「大変お世話になりました。さきほどすべて片づけてきました。」と御礼を言われたのですが、とっさに何のことかわからず、「それは、よかったですね。」と適当な受け答えをしてしまったことがありました。

男性が帰られてからしばらくして、「ああ、あの件か」と思い出したのですが、とても残念で自分で自分が情けない気持ちがしたものです。

 

今でもその方のお気持ちはありがたいと思います。そういう気遣いが人として本当に大切であることは疑いのないところであって、それを機会に改めて自分自身を戒めようと思いました。

 

他方で、考えたことがあります。

どんな仕事であっても、いろいろな「やらなければならないこと」を抱えています。だから、一つ一つ覚えてはいられないという側面も不可避的にあります。

 

 

 

刑事ドラマや映画であれば、捜査対象の犯罪者や目の前の被害者に100%向き合い、人生の深みにまで立ち入って事件を解決する。医療ドラマであれば、患者や親族、場合によっては遺族の立場や心情にまで最大限配慮していく。そういう理想形が提示されています。

ただ、実際の仕事では、それは不可能です。

それにもかかわらず、ドラマや映画を超えて、ネットやメディアで、そういう不可能なことを要求している場合があります。

 

 

 

悲惨な交通事故の加害者を逮捕しなかったことについて、「上級国民だから」などと批判が声高になされて日本社会自体が通常の国民をないがしろにしているような報道が繰り返されたことがあります。

でも、「逮捕」というのは「処罰」ではありません。必要性が無ければできないのです。だからこそ、令状を取る必要もあります。

警察は、多くの他の交通事故と同様に事件を処理しただけだと思います。

 

この時の警察の判断は、全く間違っていなかったと思われます。ワイドショーなどでも、弁護士さんなどがそういう説明をしておられました。

しかし、誰も聞く耳を持っていませんでした。

 

 

多くの人は、それでは気が済まなかったのです。

悪い者が野放しにされる。ヒューマニズムの観点からは許しがたい。

 

 

しかし、考えなければならないのは、犯罪捜査、医療などに限らず、仕事にはその目的があるということです。

例えば、捜査の目的は「犯罪を立証すること」です。

犯罪を立証するために必要であれば逮捕は認められますが、現場の警察官が被害者がかわいそうだからという理由で、犯罪者を逮捕することはできません。当然のことながら、これは日々仕事をしている警察官には叩き込まれています。

それが、プロフェッショナルとしてとても大切なことだと思います。自分の立場をわきまえ、自分に課された仕事をする。

プロフェッショナリズムは、なんとなく第三者を満足させるためにあるものではありません。

 

それに対して、ヒューマニズムは優しさや労りの心を多くの人で共有することを目指すものです。

 

 

 

 

自分自身の体験に戻りますが、私がその男性のことを覚えていなかったのは、多くの仕事の中で、その方に関する仕事は既に終わったものだったからです。だから、覚えていなかったことに関して、落ち度があったとは全く思っていません。

けれども、他方で、その方が御礼を言いに来てくれたことは、その後の私の仕事へのモチベーションを大きく高めたことは間違いありません。また、人としてのそういう姿勢は、今でも私に影響を与えています。

 

 

私が就職するよりも前の小説ですが、プロフェッショナリズムとヒューマニズムの境界線を題材にしたものがあります。渡辺淳一さんの「白き手の報復」という短編集の中の「少女の死ぬ時」という作品です。

古い作品で、読み返したいと思って図書館で探したのですが無く、アマゾンでも中古で入手するしかありませんでした。

異論もあるかもしれませんが、ヒューマニズム一辺倒の今の世の中だからこそ、とても考えさせられる作品だと思います。