「優しい」ってどういうことか?深く考えてみたことはありませんでした。
最近は、自分の時間もできて、いろいろなことを徒然に考えることができるようになりました。
「厳しくないこと」、「意地悪ではないこと」というように否定形では定義は簡単なんですけど、積極的に何が優しさなのかというとイマイチわからない。
今まで、何となく「人に厳しくなく」、「意地悪せず」生きようと思って生きてきました。でも、それだけで優しいと言えるのか?
経験的に、「優しくないこと」の例として真っ先に思い浮かぶのが、「正しさを人に押し付けること」。
仕事をしていて「これが正しい」という仕事のやり方が組織から示されると、それにそぐわない人は、排斥される。更に、正しくない人を排斥しない人も、排斥される。いじめも同じ構図です。
当時から思っていましたけど、正しさなんて相対的なもので、時代が変われば簡単に変わってしまう。それなのに、人が間違うことや、仕事ができないことが正しくないと言って、排斥して、結局、組織の効率すら落としてしまう。
具体的な例(ほんの一例)として言えば、職場に入って来る新人の中には、仕事に馴染もうとがんばっても、空回りして失敗してしまう人が、どうしてもいます。そういう時に、それを悪いこととして注意したり、努力が足りないとか言う上司や先輩が多くいました。
多かれ少なかれ自分だってそうだっただろうし、誰だってできないことや間違うことはあるのに。
だからと言って、できない人を庇うと、それも排斥される。「おまえが甘いから、できるようにならないんだ。」と随分言われました。
こんな風に、画一的な「正しさ」を押し付けることが、今の社会では頻繁に行われています。
その辺を見渡せば、例は無限に転がっています。
なぜこんなことになるのか?
それを考えることが「優しさ」とは何かを考える一つの手がかりになるのではないかと思います。
「正しさ」を押し付けるのは、正しくないと自分が定義するものへの本質的な不安があるからではないでしょうか。
皆、自分は正しいと考えるから、自分と同じではないものへの不安と言ってもいい。自分と違うものを排斥しようとする。
自分が仕事を頑張っているのに同じように頑張らない人、できない人、間違う人を見て、「なんだあいつ」と思う。
逆もあるでしょう。自分よりもできる人、才能がある人を見て、その人の正しくないところを何とか見つけようとする。
そういう場面でなくても、自分と違うものを排斥しようとするのは、人間の本質と言ってもいいと思う。LGBTQとかが社会的に問題になるのも、根は同じです。自分と異なるものを排斥しなければ、こんなこと問題にもならない。
結局、優しさというのは、自分とは違うものに自分と同じであることを強要しないことなんじゃないかと思います。
あ!でも、やっぱり否定形になってしまいました。
否定形でないように表現してみると、優しさとは積極的に賛成でなくても、自分と違うものを見た時に、「そういう生き方、やり方、考え方・・・もあるかな」、「そういう人もいても仕方がないかな」と考える心の余裕ではないかと思います。
「正しさ」は自分の偏狭さを隠す仮面です。
だから、「正しい」ことを声高に叫ぶ人には、注意した方がいい。
だから、自分自身「正しさ」が気になる時には、注意した方がいい。