現代日本で、「まねしたい人」とか「尊敬する人」のモデルとなるような人、思いつきますか?
スポーツとか芸能とか一芸に秀でた人ですか?
現在、有名な人、野球の大谷翔平、アナウンサーの水卜麻美、将棋の藤井聡太などメディアで祭り上げられている人がいます。それぞれ、本当にすごい人たちだと思います。
でも、こういう人になれるでしょうか?
こういう人になるには多大な努力や運に恵まれる必要があることに加えて、メディアやネットは執拗に粗さがしをして、少しでも突っ込みどころがあれば、大騒ぎをしようと虎視眈々としている。
だから、こういう各界のスターを目標にする人は、今は少ない。
そのため、どうせ一流になれないのであれば、それを目指すのではなく、粗さがしをして溜飲を下げようとする。
正義の鉄槌を下したいという欲求が、社会で膨張しています。
「何か間違いはないか?」、「間違っている人間はいないか?」、「倫理的に批判の対象になる奴はいないか?」・・・と血眼になっている。
きりがないので例は挙げません。
でも、思うんですが、一流になれなくても、人を批判するのではなく、例えば「優しい人になる」という目標を掲げてみてはどうか?
そして、折に触れて、「優しい」とはどういうことか、と考える。
誰だって間違えを犯しますから、間違えた人間を見て、「何とか救えないか。」とか「そんなに気にするような間違いなのか。」とか「間違えるのは自然なことなのではないか。」とか「いい面だってあるのではないか。」とか考えるようにした方がいい。
今、世間で批判されている人を優しい視点で見ることは間違っているでしょうか??
それが、「多様性を受け入れる」ということに繋がるのではないか、と思ったりもします。
声高に、LGBTwとかダイバーシティとか言っていますけど、結局、自分が正しいとか正義だと思っていることから外れている人を、どれだけ受け入れることができるかということじゃないでしょうか。
頑なな倫理観にしがみついて、その倫理観に沿わない人を許さない。そういう態度が「社会正義の実現」を希求し、「正しくないこと」を排斥しようとして、正義を標榜した戦争やいじめ、様々な社会問題を作ってきたことに、そろそろ気づいてもいいのではないかと思うのです。
狭い倫理観にしがみついていると、その倫理観に沿わない人が許せず、その倫理観を守っている「自分だけが損をしている。」、「自分は被害者だ。」と思うようになります。
「間違えない人」が好きですか?
そんな人はいません。
でも、日本の今の社会は、間違えないことが至上命題です。一度でも間違えたら、執拗に批判され、晒され、叩かれます。
でも、私は、間違えたけど、その上で頑張ろうとしている人が好きです。今まで間違えたことのない人よりも、間違えから学び、それを糧として前を向いて人生を生きようとしている人が好きです。
間違えたことの自覚がある人の方が、自分の人生を歩む際に、多くのことを受け入れ感謝して生きてゆけると思います。自分自身、間違いも人生の一部だと思って、そのことも受け入れて人生を歩んでいけたらいいなと思います。