私は、何かの宗教の信者ではありません。日本ではありふれた無宗教。
でも、宗教の教祖と言われる人が本当に言いたかったことについて、興味があります。
釈迦もキリストもマホメットも、本当にいろいろ考えたのだと思います。人間が幸せになるには、どうしたらいいかって。だから、そのことは是非知りたいと思っています。
神が本当に存在するかとか、念仏を唱えると極楽に行けるかとか、様々な出来事は神の思し召しなのかなどの問題は置いておいて、教祖たちがどう生きて、何を感じ、どんな結論に至ったのかに幸せに生きるヒントがあるような気がします。
宗教の中でも、とりわけ自分自身のものの考え方に影響を与えたのは、仏教です。釈迦が何を言おうとしたのかということを理解すると、すごく世の中を生きやすくなると思いました。
釈迦が言ったこと(教え)として、多くのことが残っていますが、私がいつも心に留めるようにしているのは、3つです。そんなに多くはないけど、とても有益です。
人生の困難を目の前にした時、すごく役に立ちました。
その3つについて、私の理解を述べてみます。
あと、ついでに番外編として1つ。
(仏教の理解については、私見です。)
1 正見(しょうけん)
ものごとを客観的に正しく見ることです。
正しいというのは「倫理的に正しい」という意味ではありません。ありのままに正しく。
人間、どうしても主観が混じってしまいますが、それでもできる限り客観的に物事を理解しようとする態度が大切だということです。
世の中は、良いこともあれば悪いこともあります。当たり前です。
また、物事には良い面と悪い面があります。それが世の中です。
それをそのまま見て理解することが大事。
ところが、「悪いことはあってはならない。」と考えてしまう人は珍しくありません。
仕事でミスをしたら、「こんなことはあってはならない。」と目くじらを立てる。今の社会では、特にミスは許されませんから、執拗に非難されます。
でも、人間はミスをするものです。
こんな簡単な当たり前のことを理解せずに、ミスをするとはけしからんと本気で怒っています。また、ミスをした人は、くよくよ悩んで、メンタルダウンしたりしています。
大事なのは、「人間はミスをするもの」という正しい理解をすること。それが理解できたら、ミスを減らす努力をしたら、それでいい。
当たり前のことを執拗に非難するのは、間違っていることがわかります。
また、ミスをしたことはそれ自体は良いことではないけれど、それが将来の大きなミスを防いだのであれば、それは良いことです。
現実をクールに理解することの大切さを、正見という教えは説いています。
「世の中良いことも悪いこともある。そういうものだ。」という当たり前を理解した瞬間、心が楽になることは多い。
また、ものごとの悪い面ばかりを見ないで、良い面も見たら、思い悩むことも軽減されます。
2 諸行無常(しょぎょうむじょう)
超有名です。どんなものでも変わるということです。
超当たり前です。
これを意識するだけで楽になりますし、世の中が見えてきます。
現代日本社会を見てみると、既得権にしがみつき、また、変わることを拒み、大変な思いをしている人は多い。うまくいっていたことが、うまくいかなくなることを極度に恐れている。
世の中は常に動いていて変わっていきます。
過去には日本の経済がうまくいっていたからと言って、同じやり方に固執するから「失われた30年」になっている。
変わることは怖いし、変えることはめんどくさい。でも、世界は変わっているのだから、日本も変わらないとうまくいかない。
価値観も常に変わっています。
親の教えが正しいと思って、自分もその教えに従ってやってきたけれどうまくいかなかったということは、ありがちなことです。親の教えは、親が育った時代には有益だったのかもしれない。でも、変わってしまった世の中には対応できないことがあります。
そうであれば、やり方を変えるしかない。
でも、変わるのは怖いし、大変だから、「自分は親の教えのとおりにやってきたのに、うまくいかない。これは社会が悪い。」と言って、自分が変わろうとせず嘆いている人は多い。
変わるのは当たり前、だから自分も変わる。
変わることは怖い、でも変える。
それだけだと思います。
3 因果応報(いんがおうほう)
これまた超有名です。原因があるから結果があるということです。
「善い行いをしたら、良い人生が送れる」と短絡的に理解する向きもありますが、誤りです。
そういう「倫理的なこと」ではなく、ある結果はある原因から生じているという、もっと乾いた客観的な法則です。
現在、自分が苦労しているとすると、その原因は過去にあります。
同様に、現在は未来の原因になっています。
苦労する人生を抜け出したければ、現在を改めることです。ものごとは原因があって結果が生じるということは、客観的で絶対的な法則です。
それなのに、それを倫理的に正しくないと言って理解しようとしない人が多くいます。
自分は過去において、誠心誠意、正しい行いをして生きてきた。それなのに現在うまくいかない。「誠心誠意正しい行いをしてきた人が不幸になるのは、倫理的に正しくない」と言って、客観的な因果の流れを理解しようとしないのです。
でも、そういう倫理的に正しい行いが現在の不幸に繋がることはよくあることです。
親が子どもに良かれと思って愛情を注いだ結果、過干渉で子どもが引きこもってしまうとか。親の言うことを素直に聞いて努力してきたら、貧乏になったとか。
「自分は悪くない」、「悪いのは他人だ」と言ってみたところで、現実は変わりません。それよりも、因果応報という法則を受け入れて、次はどうしたら良い結果を生むのかをしっかり考えるしかありません。
4 おまけ
この3つの他にも「教え」として言い伝えられていることはたくさんあります。
でも、私は、基本的にはこの3つに尽きるような気がしています。
それでも、あえてもう1つ挙げるとしたら、私は「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」を挙げます。
「自分と法則のみを灯り(あかり)として、自分の人生を生きていきなさい。」ということです。
つまり、他人が言うことや、法則に反したことに心を奪われずに、素直に「正見」とか「諸行無常」とか「因果応報」などの法則を受け入れ、自分自身で考えて生きていきなさいという教えです。
前述の、「自分は倫理的に正しいことをしてきたのに不幸になるのはおかしい。」というのは、法則に基づかない思い込みにすぎません。そんなことは、世の中には山ほどあります。「倫理的に正しいことをしたが、なぜ今という結果があるのか。どうしたら、次はよい結果を生むことができるか。」ということを、冷静に考えることが必要です。
私も、自分自身の心が疲れてしまった時、世の中の理不尽さや間違いが気になって仕方ありませんでした。「自分は間違っていないのに、社会が間違っている」という気持ちに囚われていました。
でも、
「世の中とはそういうもの、でも悪いことばかりではなく、良いこともある。」
「世の中もいつまでも同じではないし、自分がよりよく変わっていけばいいだけ。」
「今、何をしたら良い結果につながることを考えて生きていくしかない。」
と思えた時、とても楽になりました。