スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

正しいことの残酷さ(1) ~正しさへの執着は幸福な人生を生み出さない。~

大学で法律を学びました。

大学で学んでいた頃は、法律で社会をより良くできると信じていました。争いになったら、どちらが正しいかを判断し、悪いことをした人がいれば、処罰をして被害者を救う。法律があることで社会が正しく運営される。

困った時には助けてくれるものが法律であると単純に考えていました。

 

こういう感覚は、結構長い間、無意識に持ち続けていたと思います。

ただ、ある時、「どんな制度や仕組みにも間違いがある。」と意識するようになりました。人間が運営する以上、かなりの頻度で間違いがある。

 

法律を制度として生かすものとして裁判があります。

裁判に間違いはあってはならないということで、憲法三審制を採用して、基本的には地方裁判所高等裁判所最高裁判所で3回審理を見直すことができる制度になっています。それでもさらに間違った場合に備えて、再審という制度すらあります。

間違いを無くすための制度ではありますが、三審制や再審という制度があること自体、「人間は間違う」ということを前提にしています。

 

もちろんこれだけ厳格な制度、手続になっている訳ですから、大きな間違いは滅多にないかもしれない。でも、これだけやっても間違う可能性を0にすることは、絶対にできない。

 

 

じゃあ、手続を尽くしたけれど間違えた結論になってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?

 

すべての手続を踏んだならば裁判は終わりです。納得できなくても、それ以上はどうにもなりません。(*)

だから、それはそれで納得せざるを得ないということになります。

* 制度としては再審申立を繰り返すということも考えられますが、実効性の点で疑問もありますし、ここでは取り上げません。

 

間違いがない制度はありません。そうなってしまえばそれを受け入れるしかない。

「受け入れる」というのは、どういうことでしょうか?

受け入れるとは、「それがいいこと」と許容したり、「どうせ、そんなものだ」と諦めたりすることとは違います。間違うことが不可避な人間の社会では「そういうこともある」と納得することだと思います。

 

そうすることで、その問題としては決着をつけて、次の人生のステップに進むことが想定されている訳です。

裁判を一つの区切りとして、その問題に関わることをやめて、次のことを考えるということが大切なのです。

 

 

裁判という制度を例にしましたが、世の中のあらゆるところで同様に考えることができるのではないかと思います。

多くの人が「納得ができない。」と言って、一生恨む気持ちを捨てられなかったり、人につらく当たったりするということがあります。でも、ある程度で区切りをつけて、その状況を受け入れて、次に進むことが大切だと思います。

 

最近は、いつまでも人を恨んだり、避難したりすることが多くなっています。社会もそれを推奨するような傾向が強まっています。

人の間違いを許さず、声高に人の間違いを糾弾し、執拗に批判を繰り返します。

でも、こんなことをしていたら、間違えた人は必要以上に排除され、簡単に社会から抹殺されるようなことも起こります。それと同時に、批判する人も恨みに囚われ、次々とそういう批判の対象を探すようになります。誰も幸せになれない。

間違えを根絶することなど、不可能なのですから。

 

「人は間違える」ということを前提に、一度考えてみてもいいのではないでしょうか。