「老人は集団自決したらいい」というのはけしからん、と炎上しています。
対談番組での成田悠輔さんの発言のようです。
その際、「現代日本では、コミュニケーション能力すら疑われるような高齢者が高いポジションンに居座っていることが多く、そういう人を周囲が持ち上げている。本当は、そういう人に対しては、軽蔑したりする態度を取って、退場を促す圧をかけることも必要なのではないか。そうでなければ、世代交代は進みませんよ。」という趣旨のことも言っています。
また、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか。」とも言っています。
もっともだと思います。
高齢になっても肩書などにすがりつくような構造になっている日本は、裏返せばそれが無くなれば価値のない人間だということが暗黙の了解事項となっている訳ですから、そういう社会は変えた方がいいと私も思います。
「経済的な価値や肩書という価値しか認めない社会を突き詰めていけば「集団自決」を要求する社会に行きつきますよ。」という風に私には聞こえます。
ネットでは「老人に集団自決を求める考えなどけしからん!」と騒いでいますが、そういうことを言いたいのではないのは明らかです。
討論などを全体として理解して、その上で発言の当否を考えることは手間はかかりますが、議論をする上では必須の労力です。コメントとは違って、会話や討論、文章などは全体として伝えたいことがあるのは自明のことです。殊更に単語やフレーズを抜き出して、全体を理解しようとしない態度が目立ちます。
もういい加減、人の発言の一部を切り取って炎上させるのはやめた方がいいと思います。
ただ、こういったネットの風潮を煽るマスメディアや知識人もいます。
有名な方々が、いろいろ言っておられますが(いちいち取り上げませんが)、要約すると「集団自決などということを言うのは倫理的に許されない。」というものです。
それなりのメディアや知識人であるならば、倫理観にすがるのも、いい加減やめた方がいいと私は思います。
倫理的な価値は時代や状況によって変わります。それに頼っていると本質が見えなくなります。
太平洋戦争で集団自決が賞賛されたのは軍部が悪いという程度しか検証されてこなかった日本ですから、戦争中の集団自決をするようなことになったのは、本質的に何が悪かったのかという議論がなされて来ませんでした。
集団自決を現実にするなどという暴挙がまかり通ったのは、その時代の倫理観、価値観を多くの国民が結果的には受け入れていたからではないでしょうか。
同様のことが、東京大学の入学式の来賓あいさつでもありました。
映画監督の河瀨直美さんが、
「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」
と述べたのです(これは東京大学のHPに掲載された原文です。)。
これが炎上しました。
「ロシアは悪ではないのか。」、「ロシア擁護」などの言説が溢れ、あろうことか学者の中にも「今のロシアを悪と言えない学問はいらない。」などという感情的な批判をする人すら出てきました。
河瀨監督の言っていることは、私には至極まっとうな問題提起だと思われます。学問はどちらが正しいかという幼稚な議論をするものではありません。国際紛争を解決できるのか、できるとするとどういう方法で・・・と地道な検証が求められます。
どちらかの立場に立って正義と悪を決めるだけでは、問題は解決しないのです。
価値観に頼ると、ち密な議論ができません。
成田さんの発言については、「能力のない高齢者がはびこるのは、社会的な価値(ポジションとか肩書とか知名度とか)以外の価値に気づけていないからではないか」という問題提起について、もっと真剣に議論したらいいのではないでしょうか。
河瀨監督の来賓あいさつを契機として、ロシアの歴史的な事情や現在の世界情勢などからなぜ戦争に至ったのか、それを終結させるにはどうしたらいいのかを、真剣に学び議論したらいいのではないでしょうか。
もう少し、議論ができるような素地が日本にもできたらいいなと思います。
福沢諭吉先生も「日本人は、西洋からの「思想の結論」のみを追い求めているが、それではいけない。その思想が日本においてどうなのかを議論をし納得した上で、取り入れるべきだ。」という趣旨のことを言っています。