ユダヤ人の習慣として、週に1日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)が安息日とされすべての仕事や作業が中断されるそうです。社会的には商業施設はもちろん公共交通機関も動かなくなる。
その1日は、読書をしたり、家族と過ごしたり・・・休息をします。
これをシャバットと言うそうです。
私は、このシャバットのことは最近知ったのですが、キリスト教やイスラム教、また仏教でも休息(日)という似たような考え方が出てきます。おそらく、人間には適切な休息が必要であることは何千年も前から認識されていたからではないかと思います。
他方で、自分自身の過去の生活を振り返ってみた時、こういう本来の意味での休息が取れていたことは極めて少なかったと思います。
朝から晩まで働き、仕事が終わると帰って寝るだけ、次の日の朝は早い時間から出勤。休日も仕事が入ることもまれではなく、仕事が入らなくても翌週の段取りを考えたり、不安に思ったり、気が休まる暇もありません。
日本社会の働き方は、異常です。
でも、私は、忙しすぎて日本社会が異常だという事実に明確に気づくこがとできなかった。欧米はバカンスの習慣があるとか、使用者に対して契約外の労働は拒否してプライベートな時間を確保しているとかいう知識は持っていましたが、それをきちんと理解していませんでした。
昨年夏に思うところがあって退職して初めて自分の時間を持つようになり、本来考えるべきことを考える習慣がついてくると、様々なことに気づくようになりました。シャバットについても、人生における休息の大切を感じるようになって初めて自分のアンテナに引っかかってきた。
様々な宗教で同じように休息の大切さが説かれ、習慣として定着しています。宗教以外でも医学、心理学、文学などあらゆる側面からも、重要性が認識され、休息を取らないことへの警告がされているにもかかわらず、社会は変わりません。それどころか、どんどん忙しくなっている。
こういう社会に暮らしていても、あるいは暮らしているからこそ、うすうすは「もっとプライベートな時間がほしい」とか「一人時間を大切にしたい」とか「余裕を持ちたい」と個人として考える。多分、それは心の声なのだと私は思います。
休息を取れば、もっと心の声が明確に聞こえてくると思います。
でも、自分の経験から言うと、週末の休日に心の声に耳をすますことができるような完全プライベートな休日は少なかった。圧倒的に時間が足りなかった。
日々の生活に押し流されていた。
退職して1年以上が経って、こういうことに気づくようになりました。
今は、自分の生活をマネージメントして、週に1~2度程度の休息日を設けることもできます。休息日には本を読んで、仕事ではなく人と会って、散歩して、ぼーっとして、ゆっくり食事をして・・・。
そして、翌日からは「これからの人生をどうするか」を考え、行動につなげていく。また、やりたいこと、知りたいことを探し、全力で体験していく。
早期退職したことの良さは、こんなところなのかもしれません。