スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

「人と比較すること」が人を不幸にするか。

「人と比較することで不幸になる」と、最近よく言われます。

他人が評価の基準になっていて、「他人に比べて自分はだめだ」とか考えていると、結局、自分はどうしたいのかがわからなくなったり、やる気が起きなくなってしまいます。

他方で、いろいろなことを学んだり、仕事をしたりする場面では、他人と比較は成長を促すために不可欠のようにも思われます。

 

実際どうなのか、考えてみます。

前回のブログにアップした沢木耕太郎さんのルポタージュに出てくるボクサーの話があります。

カシアス内藤というその選手は将来を嘱望されていました。沢木さんの目から見ても、トレーナーの目から見ても才能は天下一品。しかも、トレーナーは世界チャンピオンを何人も育てた人です。
でも、カシアス内藤はチャンピオンになれない。あと一息でKOというところでパンチを出し続けることができない。練習でも突き抜けて努力ができない。弱い性格で優しすぎる。
ボクシングの世界では、だめな選手です。(*)

ボクシングの世界で、もがき苦しんで、結局芽が出ず引退することになるのですが、人生では幸せをつかむことがほのめかされて物語は終わっています。

 

(*)誤解のないように言えば、「世界」チャンピオンになれなかったということで、ものすごい選手です。

 

 

20年も前に読んだ物語で、読み方として正しいかどうかはわかりませんが、カシアス内藤の「幸せ」には、条件があったと私は思っています。
「やさしさ」とか「弱さ」を肯定的に捉えるメンタリティー
ボクシングの世界で絶対にマイナスになるその要素を、自分で自分を評価する「ものさし」として持つことができたのではないかと思うのです。


ボクシングの世界のものさしとしては、やさしさや弱さは、マイナス評価される。カシアス内藤も、他のボクサーと比較して自分の欠点だと理解して、克服しようと苦しみます。克服できていれば、ボクシング選手としては頂点を極めていたかもしれない。だから、読者は残念で仕方がない。
でも、他人の作ったものさし(評価)です。カシアス内藤は、その価値観を受け入れなかった。

 

これが「他人との比較しない」価値観だと思います。他人のものさしではなく、自分のものさしで自分の人生を見ると言ってもいいのではないでしょうか。
こういう自分が属する社会における価値観とは別に自分の価値観を持つ生き方は、難しいけれど、本当に人生において必要とされることだと思います。時として、その社会では成功しないことを意味することもあります。

 

 

 

このように、自分のものさしを持つことは大切なんですが、そうなるためには、それなりの経験が必要ということも言えると思います。他人と比較することは悪いことかというと、一概にそれ自体が悪いということではないと思います。


自分で選んで極めていこうと思った分野で他人と比較し、自分のできていない点を分析して能力を伸ばしていくのは、目標を達成するための一つの重要な方法だと思います。その努力はボクシングの世界でチャンピオンになるというような目標には直結します。
さらに、その後の人生を豊かにもする。

比較しながら頑張った経験は限定的な分野で目標を達成するためのものですから、目標を達成したとしても(チャンピオンになったとしても)、自分の幸せとは直接はリンクしない。加えて、多くの人はどんな分野であれチャンピオンになれるわけではないから、残念ながら、別の価値観を持つ必要がある。
でも、こういう価値観を多重的に理解していく経験は、確実にその後の人生に深みを与え、自分自身の価値観を持つことに寄与すると思うのです。

 

カシアス内藤も、ボクシングの世界の価値観とは違う価値観を持つ必要に迫られましたが、ボクシングの世界の価値観の中で、他人と比較され、もがき苦しむ経験がなかったら、深い意味での「やさしさ」、「弱さ」の大切さの理解を享受することはできなかったのではないでしょうか。

 

 

他人との比較は、そのこと自体悪いことではないけれど、自分の評価の基準を持っていないと不幸になる、ということだと思います。