いじめ問題について、いじめられる側のことを、更に考えてみたいと思います。
社会的に見れば、いじめられる側の被害者に「逃げる」ことを強いるのはおかしい。ただ、それと同時に、実は「逃げる」ことが、被害者にとって、現実的で有効な問題解決の手段であることは前回のブログで書きました。
「逃げる」ということは、否定的に捉えられがちですが、言葉を変えて言えば「距離を置く」ということだと思います。加害者であるいじめる人から、距離を置いて自分自身の安全を確保する。
今いるところ以外の別の自分の居場所を見つけることは重要で、学校でのいじめであれば、放課後や休日のスポーツなどの活動、家庭など学校以外の居場所が必要だと思います。それで問題が解決しなければ転校して距離を置く。
逃げるとか距離を置くと言うと、消極的に聞こえるかもしれませんが、私は、そうは思いません。
自分を否定するような居場所から離れて、新たな居場所を求めるのは、勇気や精神的、体力的エネルギーを要することです。自分の人生を自分で切り開くと言ってもいいと思います。
いじめから離れて考えてみても、あらゆる場面で今の居場所から離れる決断をしなければならない時というのはあるのではないでしょうか。
それができる人は、自分の人生を生きられる人です。
職場でハラスメントを受けた時、ハラスメントをする人との会話をできる限り少なくしたり、異動を申し出たり、それでもダメなら退職したりすることは、重要な決断です。毒親との関係を解消したい時、接触する時間をできる限り持たないようにする、親が高齢の場合には施設に入ってもらう、究極の選択としては会わないなど、様々な決断があると思います。
こういう時に、最も妨げになるのは、実は「身近にいる常識人」です。
「がんばることがいいこと」、「子供は親を大切にすべき」と言う人の影響力は思うよりも大きく、自分の決断を鈍らせます。いじめにおいては、「もう少し頑張ってみたらいい」、「あなたにも悪いところはある」などと言われて、加害者から離れることができなくなります。
しかも、こういう人の良くないところは、親切心に基づいて言っているというところです。それがわかるから無下にもできず、その人のことを尊重している間に、時間が経ってしまい、大きなダメージを受けるということは少なくないと思います。
だから、いじめられた人に必要なのは、加害者から逃げることだけではなく、一般常識に基づいてモノを言う周囲の人から逃げることです。
そういう人たちは、一つの世界を構成しています。その世界は「世間」と繋がっています。世間は、昔ながらのこと、多くの人が考えることに至上の価値を置く人たちです。そういう人が実は親だったということも多い。だから、親を拒絶できる人は、自分の人生を生きることができる人だと思います。
そういう人たちから離れて、自分を理解してくれる人に出会えば、楽になると思います。
私自身、60歳を目前にして、そう思うことが多くなりました。
退職という周囲の人とは違う選択をしたことで、今、多くの常識的な価値観からの攻撃にさらされています。(笑)
でも、実際に辞めてみると、そんな常識なんて関係ない人や、積極的に私を認めてくれる人・・・様々な人との出会いがありますし、これまで付き合ってきた人のそういう面を発見したりすることもあります。漫然と生活しているとわかりませんが、意識して見れば、そういう自分を理解してくれるような人たちは確かにいます。
いじめられるような人は、多数の人とは違った価値観を持っていることが多い。その価値観は才能に繋がっている可能性も結構あると思います。
そういうところに目を向けて生きていけたらいいなと思います。