一昨年の7月までは、仕事は忙しく、目の前のことを処理するだけで毎日が消費されていきました。平日は仕事、休日も仕事があったり、家事や少しの息抜きで終わってしまっていました。場当たり的に生きていたと言ってもいい。
「これではいけない。」という思いもあり、一昨年7月末58歳で退職をしました。
人がやることには4つの分類があると言われます。
1 急ぎで、重要なこと
2 急ぎじゃないけど、重要なこと
3 急ぎで、重要じゃないこと
4 急ぎじゃないし、重要でもないこと
これまでの生活では、できる限り4は省くようにしつつ、1や3、要は急ぎの仕事や課題に振り回されて来ました。
でも、人生のスパンで考えた時、本当にやるべきなのは、2の「急ぎではなく先延ばしになっているけど、重要なこと」なのではないかと思います。
目先の生活に振り回されて、今まで考えてこなかったけれど、例えば「自分が幸福になるために本当にやるべきこと」とか「人生において優先してやるべきこと」とか、真剣に考えて実行すべきことが結構あったりします。
その中でも、いつかはある程度の時間をかけてじっくり考えたいと思っていたことが『「死ぬ」ということについて』です。
親や親せきの死も経験しました。また、仕事をしている時に、目の前で仕事の関係者が亡くなったこともありましたし、親しい職場の知り合い、同僚も4人病死しました。
死の宣告は、突然やってきます。
昨日まで、普通に生活していたけれど、どこかが痛くなって医者に診てもらったら、癌だったとか・・・。
死の宣告をされて衝撃を受け、「そんなはずはない。」と悩み苦しみ、最後に「仕方ない」と死を受容して亡くなるという経緯が一般的だと言われます。
近しい人の死を見るたびに、「死」が自分にとってどういうものか、いざ死の宣告を受けた時にはどうしたらいいのか等々、考えておいた方がいいと思いました。でも、とても大事なことだけれども、日々の生活にかまけて、先延ばしにしてきた。
「死」について考えることは、「どう生きるか」を考えるのと表裏の関係にありますから、これからの自分の人生を考える際に大きな指針となります。
昨年の今頃、職探しを始めました。幸い、生活に困って職探しをしているという訳ではなかったので、あわてず淡々と活動を継続していました。
でも、その中で、社会の矛盾は強く感じることになりました。就職氷河期と言われる時期に就職できなかった人が、今尚、救済されず放っておかれていることが端的に示すとおり、労働市場に関する問題は、政治的に、意図的に、手つかずのままになっています。
こういう状況に強い憤りを感じました。
他方で、大きな問題ではありますが、そんなことに自分の人生の時間を割くのは得策ではないとも感じました。自分が生活できるだけのお金などがあれば、あとは好きなことをやって生きるのがいい。
もっと、「自分の好きなこととは何なのか」ということを深く考えることに時間を割いた方がいい。
好きなことというのは、娯楽とか趣味とかもありますが、自分が死ぬときに「ああ、こういう経験ができてよかった」と思えることだと思います。自分の心が、そう感じて、死を迎えられたらいい。
今の生活では、常に「何をしたら、自分は充実していると思うのか。」と自分自身に問いかけ続けているような気がします。自分に刺激を与えてくれること、生きていく上での価値観を深めてくれること、端的に楽しいこと・・・何が自分の人生を深め、意義あると実感させてくれるのか、その都度考えています。
これからはもう、場当たり的に生きるのはやめようと思います。
社会が重要だと言うことが必ずしも自分にとって重要だとは限りません。自分の価値観に照らして重要かどうか、考えつつ今後の人生を送っていけたらいいなと思います。