スタイルのある生活~早期退職シニア男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

公務員を早期退職して3年経って思うこと ~理想の人生後半戦~

今年3月いっぱいで再就職先を退職。最近は、人生のテーマって何だろう?とか、自分が死ぬ時にどんな人生を送っていたら満足するだろう?とか考えています。

現時点の結論は、「人生を味わい尽くすこと」。

 

今は、率直に「本当にやりたいこと」をやっています。

旅行して、勉強して、テニスして、芸術を鑑賞して、様々な人と接して・・・。そういう生活をすることができるようになりました。

自分の人生、正しいかどうかとか、役に立つかどうかということから離れて、自分が死ぬとき、「人生でやりたいことをやり尽くした。」と思いたい。

 

そのためには、

1 お金に汲々としない。

2 人と適切な距離を保つ。

3 やりたいことはすぐにやる。

 

退職後は人それぞれ。仕事してなかったりすると批判的な人も多く現れます。

でも、自分の人生は自分が作っていい。

こんなこと公務員として生活していた時には、考えもしなかった。それだけ不安もあるけれど、楽しくもある。逆に言えば、不安を引き受けることができる人のところにしか楽しみはやって来ない。

 

私は現在60代。あと何年生きられるか?って考えるようになりました。いつまでも仕事や人間関係に振り回されている場合ではない。

若者がすぐに退職する理由がわからない人たち

前々職に就いていた頃のことですが、「同じことを2度も3度も聞くな。」とか「人に質問する際には、自分で調べてからにしろ。」という上司が多かった。私自身は、後輩や部下に対しては、「質問はいくらしてもいい。同じ質問を何度しても構わない。」と常日頃から伝えていました。

 

1 私が「同じ質問をしてもいい。」と言ってきた理由

私がそんなことを言っていた理由はいくつかあります。

(1) いちいち調べてから質問しようとするのは時間の無駄だから

上司(先輩)に対して質問を連発する人は、その問題について精通していないことが多い。考えてみればわかりますが、ある程度のレベルになってくると、人に質問するよりも自分で調べた方が早いと考えるようになります。その人は、そのレベルに至っていないということです。

そういうレベルに留まっている間は、調べ方、調査の方向性、深さなどもわかっていないので、闇雲に調べまわるのは本当に時間の無駄です。昭和の時代のように「無駄もまた将来役に立つ。」などと呑気なことを言っていられる時代ならまだしも、現代社会でそんなことをしていたら、組織としても効率が悪くて仕方がない。

しっかり理解している上司や先輩に質問をして、方向性がわかってから調べても遅くはありません。

 

(2) 2度目、3度目の質問は質問者の問題意識が違う可能性が高いから

一見同じ質問であっても、一度目の質問の後、実務を経験してみたら、深くわかっていなかったことに気づく場合があります。そういう場合には、一度質問した人と再度やり取りすることは、合理的でとても有用だと思います。前回の質問の際のやり取りがベースにあるので、理解を深めていくにも時間が節約できます。

誰でも仕事をしていると、問題意識が深まることはよくあることです。一旦「答えが出た。」と思っていても、少し違う事案にぶつかった時に考え直さなければならないことは珍しいことではありません。

そこで再考察することが許容されているという環境が必要です。

 

(3) 質問者の中で、問題に対する答えが再構成される機会になるから

(2)とも関連しますが、質問、回答を繰り返していく過程で、理解が深まり、知識が体系的になっていきます。様々な角度から考え直すことで、知識が更新されていく。

口に出してやり取りする中で、自分の中で悶々と考えているだけでは気づかないことを会得できることも多いと思います。

 

(4) 質問をされた人も、問題に対する理解が深まり、更に答えを適切に後進に示すノウハウを得る機会にもなるから

(3)の裏返しにもなりますが、質問を受けた方でも質問者と同様に問題に対する理解が深まります。

それと同時に、質問に対する答え方を反省する機会になります。後進の理解が浅かったのは自分の説明に問題があったせいかも知れません。また、質問者の意図に寄り添えていなかったため求める答えを提示できていなかったのかもしれません。

コミュニケーション能力も含めて、自分自身のやり方を顧みて改善していく良い機会になると思います。

 

2 「同じ質問をするな。」という上司の多い職場の問題点

当時から感じていたのですが(私の感想ですが)、同じ質問を嫌がる人は上司としての資質に欠けていることが多い。同じ質問をする人を向上心の無い人と決めつけて排除しようとします。そういう態度がどれほど職場に悪影響を及ぼしているのかを考えていないように私には見えました。

もちろん、自己研鑽を怠り「何でも聞けばいいや。」という態度の職員もいることは事実です。でも、だからと言って「同じ質問をするな。」と公言していいとは思えません。

 

質問を一回限りと限定すると、問題点について試行錯誤をして検討する機会が奪われます。そういう態度は次第に組織自体を蝕んでゆきます。

組織風土として試行錯誤を嫌うようになる。安直な正解を求め、間違いを認めず、一度出した結論からの逸脱を悪と見なすようになります。

 

最近、メディアやネットで「最近の新入社員は優しくしても、すぐに辞めてしまう。」という声をよく聞きます。

私には、新入社員が辞めるのは「厳しいから」とか「優しいから」とかではなく、上司や先輩も「共に」、問題解決に当たる姿勢が感じられないからではないかと思っています。そういう姿勢は新入社員のやる気を削ぎます。

そういう組織風土を若者は敏感に感じているのではないでしょうか?

 

3 蛇足

先日、前に働いていた職場の若手たちが我が家に遊びに(呑みに)来ました。その際に、在職時の私について、

「何度でも丁寧に教えてもらったけれど、要求レベルは高かったですよ。」

と笑って言われました。

「何度でも質問してくれたら相手になる。」という姿勢を示すけれど、しっかり到達点を示すというのが、職場の先輩がすべきことだったのだと再認識しました。

(ちょっと自慢です。)

 

今、心から、後輩たちが活躍できることを願っています。

 

退職後の人生を模索する時の周囲の反応 ~人と違う人生を歩む際にはNIMBYに注意~

1 退職した際によくある周囲の反応

退職をして人とは違う人生を歩もうとすると、反対意見を言う人が現れます。また、意見を言わないまでも、否定的な態度を取る人も多いです。

2年前に退職した頃は、「無職は良くない。」、「ブランクが長いと就職は難しくなるのに何をしているのか?」、「これからどうするつもりなのか?」などと言われました。

先月末に2度目の退職をして以降まだ3週間くらいですが、再び、「どうするのか?」的な質問をたくさん浴びせかけられています。



2 自律的な人生を認めたくない人たち

日本社会では「長いものに巻かれろ」、「寄らば大樹の陰」という価値観が長い間支配的でした。人生においても、就職して生計を立てているのが「まっとうな生き方」で、就職以外の生計の立て方は「よくない生き方」と考えている人は多い。

時代が変わって、多様性などと言われる現代社会においても、実は、相当支配的な考え方なのだと感じます。

 

イギリスの言い方で「NIMBY」というのがあります。「Not In My BackYard」の略です。意味は「よそでやってくれ」ということです。

「そういう考え方ややり方は理解する。でも、自分の近くではやめてくれ。」という態度を指します。総論賛成、各論反対とも言われます。

 

多様性を標榜する現代日本でもNIMBYは多い。多様性とか自由な生き方については、理屈では理解するけれど、自分の近くでは許したくない。自分の目の前の人が、そういうことを言ったら否定したい。

「退職して自由な人生を歩む。」とか言うのは、理屈は理解するけれど感覚的に許せない、あるいは「ずるい」と感じているのだと思います。

 

3 NINBYの見分け方

社会のあらゆるところにNINBYは存在します。実は自分の家族やごく親しい人、またこれまで「よき理解者」だと思っていた人が実はそうだったということも少なくありません。

NIMBYは我々の生活のそこここに隠れています。一見したところは、とても親切だったり優しそうだったりします。だから、100%NIMBYを避けることは難しい。

 

ただ、早期に見つける方法はありますし、警戒するポイントもあります。

考えてみれば当たり前ですが、NIMBYはその態度から見てもわかるとおり、自分から行動は起こさない人たちです。社会的に言われている正論とか倫理については、相当精通していたりしますが、何事についても保守的で常識的です。

だから、その人がNIMBYかどうかは、その人を注意して見ていればわかることが多い。その人の生き方ににじみ出ている。

傾向としては、NIMBYは、起業した人よりサラリーマンの方が多いし、若い人より年寄りに多い。何か問題が起こった時に「どうやって解決しようか」と考える人より「誰が悪いか」を考える人がNIMBYである確率は高い。もしかしたら政治的には多数党を支持する人に多いかもしれない。100%そうだと言う訳ではありません。でも、ある枠組みにしっかりはまっている人がNIMBYである蓋然性は高い。

 

4 NIMBYの取説

そういう人に、うっかり自分の将来のビジョンなんて話したら、食いついてきて批判されるか、胡散臭げに見られます。その人との関係では、建設的な展開は期待できず、嫌な思いだけをします。

親切そうに「これからどうやって生計を立てていくの?」と質問をされても、その人はNIMBYかもしれません。本音を話すことは慎重になった方がいい。

 

自分が必死に考えに考えてきた「人生のビジョン」や「生計の立て方に対する考え方」など、自分にとって重要なことは本当に理解してくれる人にしか開示しない方がいい。

 

そして、NIMBYだとわかった人は、できる限り自分の人生から排除していくのがいいと思います。

付き合わずにすむ人は、即座に付き合いをやめる。

親しい間柄で完全に縁を切れない人でも距離を置くようにする。

 

繰り返しになりますが、NIMBYはどこに潜んでいるかわかりません。完全に関係を断つわけにいかない家族とか親しい人にもNIMBYはいます。こういう人たちは善意から様々なアドバイスを送ってきます。実は、この手のNIMBYは要注意で、知らず知らずのうちにこちらが大きな影響を受けるから本当に注意した方がいい。

 

5 NIMBYから距離を置くことが幸せを招く

二度目の退職をして、私の周囲のNIMBYが再度あぶりだされています。NIMBYは人生のどんな局面でも次々湧いて出てきます。

 

だから、そういう人との付き合いを距離を置くように、できれば切り捨てるよう心掛けています。そうすると、当たり前ですけど、NIMBYではない人が周囲に多くなってきます。

そうすることで、新たな出会いや気づきを常に得られるようになるのだと思います。いつまでもNIMBYと付き合っていても、人生の新たな展開はありません。

 

現在、新たに出会った人や昔からの知り合いでも発展的な話の出来る人と関わりながら、人生を変えていこうとしています。2度目の就職先を3月末に退職して、資格試験の勉強をしながら、どんなことができるか考えているところです。

ろくに話も聞かず、「資格なんか取ってどうするんだ?」という人とは、絶対に距離を置くようにしています。

小学生の自由って尊重しなければなりませんか? ~理想の教育と限界~

小学生の見守りの仕事で小学校で働くようになってから1年半近くが過ぎ、今月末退職することにしました。馴染みのない業界でしたが、本当にいろいろなことを学ぶことができて、感謝しています。

この節目に、現在の仕事を通して考えたことを書いてみます。

 

教育関係の専門家の言う「子どもの自由を尊重してのびのび育てる。」「それぞれの違いに配慮した教育」という考え方に強く限界を感じるようになりました。

 

1 一部の児童だけが自由な現場

現在の教育現場では、静かにしていられない(常に声を発していないといられない)、人の話が聞けない、じっとしていられない、人に対して過度に攻撃的などの特徴のある児童が相当の割合存在します。いわゆる「切れる子」もいます。

こういう子ども達に対しては、子どもの言うことをよく聞き、いいところを誉め、課題について自分で気づかせるのが良いとされています。それが「理想の教育」であると、言い方は違っても多くの教育の専門家が言っています。

でも、現場でそういうことをしてみても、大体は失敗します。

 

その理想を追求しようとした場合のデメリットは一般には知られていません。

 

こういう子ども達は少数であっても、環境を著しく悪化させます。いいとか悪いとかの問題ではなく事実です。

数の子どもが騒ぎ始めた時、教育専門家の方の言うように騒ぐ子にきちんと配慮していると、その少数の子どもに追随する子がどんどん現れます。そうすると大人は手が回らなくなりますから、大方の教室では収集がつかない状況になっています。

 

「のびのびと育てるためにじっくりと向き合うように」していると、「自分にも関心を持ってほしい」という子が追随する。自分たちも騒いだり乱暴なことをして注意を惹こうとする。一人に「丁寧に」向き合っていると、それ以外の付和雷同する子が出てきてしまい、どんどん環境が悪化する。

結局、周囲に合わせられない子どもの自由を尊重することで、教育環境全体が著しく悪化することになるということです。

 

2 自由を尊重されるべきなのは誰か

こういう環境の悪化に同化しない子どもも一部います。人が騒いでいても、自分はそういうことをせず、自分のやるべきことをやる。また、周囲がそれ以上に騒いだり乱暴になったりしないように、大人との間を調整したりすることさえあります。子どもなのに大したものだと感心します。

でも、そういう子は本当に大変です。多数の騒いている子に巻き込まれず自分自身でどうすべきかを判断し、他方で騒いでいる子と軋轢を生まないようにやっていかなければならない。

今、割を食っているのはこういう子どもです。

 

私が小学生時代を過ごした昔であれば、先生や指導的立場にある大人が無理やりにでも騒ぐ子を黙らせました。方法が適切だったかどうかは置いておくとして、まじめにやっている子が損をしないような配慮がされていました。

まじめにやっていれば、自分に不必要な負荷がかかることは無かった。

 

でも、今は違います。そういうまじめな子たちに社会の歪みのしわ寄せが行っています。現代社会で負荷がかかっているまじめな子ども達に関しては、教育専門家は何も言いません。現場の大人もそういう子たちに目が行きません。

 

私は、本当に自由を与えのびのび育ってほしいのは、こういう子ども達であると思います。

 

3 理想的な教育とは何か

私のこういう感じ方、考え方に対しては色々な批判があることは容易に想像がつきます。

最近は、自分がADHDであることを公表し、それでも社会に貢献している人もいますから、一概に和を乱す子どもが悪いと言うつもりもありません。そういう子どもをも受け入れることができる教育環境が理想なのでしょう。ただ、教育の専門家と称する人は概して、そういう理想論は語るけれども、語った後は現場にまかせっきりです。

やりたい放題やる子どもを目の前にして、大人ができることは何なのか?という問題に正面から答える専門家を見たことがありません。

 

拒絶反応を承知で言えば、「どうしてもうまくいかない子」というのは必ずいます。「そんな子はいない。」と理想論を安全地帯から発信するのは勝手すぎる。どうしようもない人がいるというのは、大人も子どもも同じです。大人の社会で一部の真摯な人にしわ寄せが行っているのと同じことが、子どもの社会でも起こっています。

そういう人間に出会ったとき、どうするべきなのか、突き詰めて考えることが喫緊の課題だと考えるようになりました。

 

4 教育無償化と言われていますが・・

現在、教育無償化が議論されています。耳障りがいい言葉だと思います。

ただ、無償化されて学校に行けるようになって、何が変わるのでしょうか?何となく「学校は行けた方がいいよね。」という雰囲気ですが、本当に今のままの学校にみんなが行けたらいいのでしょうか?

政治的な議論になると、何でもそうですが、結局「カネ」の問題にすり替わってしまう。カネを出せば、問題は解決すると思っている。

 

無償化して多くの子どもが学校に行くようになったら、学校はどうなるんでしょうか?今のままでは対応できないのは明らかですが、どうするんでしょうか?制度を整備するために、更にお金を使ったり、現場の余裕を作ったりするのでしょうか?

今の日本では、学校、教育のシステムのリコンストラクション(再構築)が必要だと強く感じます。今、放送中のドラマ「御上先生」のセリフです。ドラマの問題意識とは少し違うけれど、根は同じなのではないかと思います。

 

早期退職後2年、お金はどうしているか? ~「もう無理。」と退職してから現在まで~

 

2年半前に早期退職していろいろと試行錯誤をしてきました。

お金に関して言えば、退職するまでに準備をしてきたつもりでしたが、退職直後は「これからは定期的な収入は無いんだなあ。」と漠然とした、でも強い不安がありました。この不安は、ある程度生活が軌道に乗るまでは続きました。

それまでは、支出の見直しをして自分としての最低限の必要経費を割り出してみたり、貯蓄や投資の金額を整理して、それまでの貯えと退職金をどう使うかを考えたりしました。そうしながら、自分の金融資産がどの程度増減するのかをモニターしてみました。

そんなことをしてみて分かったことを書いてみます。

 

1 「もう無理」と思う人がお金について準備すべきこと

「もう無理」と思いながら仕事をしている人は多いと思います。私もそうでした。仕事を辞める前10年間くらいは、本当に「もう無理」と思いながら過ごしていました。我ながら、よく我慢したと思います。

だから、私としては、そういう人は仕事を辞めたらいいと思っています。

 

でも、条件があります。

仕事を辞めるには、できる限り(体調を崩してしまったり、すぐにでもそうなりそうという緊急事態を除いて)、「やるべき準備をしてから。」・・ということです。

hatasan2.net

hatasan2.net

やるべき準備の一つとして「お金の準備」があります。

ネットやメディアでは、様々な言説があって、仕事を辞める時に一体どれほどのお金があればいいのか、さっぱりわかりません。「退職した人の末路」などという多くの預貯金がありながら結局破産したとかいう脅かすようなものもあるし、「貯金0でも辞められる」というような異常に楽観的なものまであります。

私自身の退職前、調べても調べてもイメージが全然作れなかったことが思い出されます。

 

2 退職後のお金の考え方

退職後のお金についての考え方を整理してみます。ネットやメディアで言われている考え方は、大体、以下のようなものだと考えられます。

(1) 退職後に再就職して働きながら暮らすという考え方

「貯金0でも大丈夫」と言っている人の考え方です。貯えが無くても、「健康で働く」ということを想定しています。ある程度の年齢になってから退職すると稼げる金額は多くはないので、そういう場合は支出を超ミニマルにするイメージです。

例えば、健康で月々15万円くらい稼いで、その範囲で生活していく。こういう方々は「月々●万円で暮らす・・・」という書籍を出していたりします。

 

私は、個人的にはこういう考え方は嫌いではありません。

とにかく働けるだけ働いて小さくコンパクトに生きていく。印象としては「お金が無くても、たくましく生きていく」というイメージで、人生の後半戦を生きていくにあたっては、強みとなるメンタリティであることは間違いないと思います。

ただ、当然のことながら、デメリットもあります。シンプルに、健康を害したら終わりです。これは大きなリスクです。また、「もう無理」と今思っている人からすると、辞めてからもすぐに働くことを強要される生き方でもあります。

 

(2) 預貯金を取り崩しながら生活するという考え方

記憶に新しいのは財務省の出した「年金だけでは老後2000万円が不足する。」ということを根拠にした「2000万円が必要」という考え方です。ネットやメディアでは多様な金額が出ていて「預貯金8000万円で大丈夫と思って退職した人の末路」とかいう記事すらあって、結局、本当はいくら必要なのか、全然わかりません。

こういう考え方の前提は「仕事を辞めてからは働くことなく、貯金を取り崩して生きていく」ことです。取り崩すことを前提とするから「預貯金は多ければ多いほどいい。」という結論に帰着します。

この考え方では、いつまで経っても現在の仕事を辞めることはできません(なぜなら「退職するときの預貯金は多ければ多いほどいい。」ということであれば、働けるだけ働いた方がいいから。)。

更に、資産を取り崩しながら生きていくことになるので「足りなくなるのでは?」という不安が死ぬまで払拭されません。

 

(3) 投資をしてお金を増やすという考え方

年金制度が破綻する等々と言われたこともあり、社会的に投資を推奨する風潮が顕著になっています。今の日本社会のこの風潮は、非常に危うい面がありますが、他方で資本主義社会に生きている以上、投資をするというのは生活防衛上きわめて有効な手段です(今回は詳しくは述べませんが)。だから、今の風潮に乗ってよくわからないまま投資を行うことは慎むべきだと思いますが、きちんと理解をした上で「運用してお金を増やす」ということは是非考えるべきだと思う。

ただ、投資については、耳にタコができるほど言われていますが、リスクがあります。このことは肝に銘じておくべきだと思います。

 

3 私の退職後のお金の考え方(3つのバランスを取る)

ネットやメディアで退職後のお金の話が出る時、上記の3つの考え方のどれかに偏って語られることが少なくありません。

でも、考えてみれば、貯金0で一生働き続けるのは現実的ではないし、預貯金をただただ取り崩していく生活で心をすり減らすような生活は嫌です。だからと言って、退職後の経済的な基盤を投資一本に絞るのもリスクがありすぎます。

結局、3つの方法をどう組み合わせるかということになると思います。

 

現在、私は金融資産を次のように分けて管理しています。やり方はシンプルです。

まず、1年以内に使うであろう金額は預貯金にします。それ以外の使う予定のない金額は投資に回しています。他方で、仕事で年間100万円くらい稼いでいます。

1年間に必要なお金が250万円くらいだとすると、仕事からの収入が100万円ありますから、150万円を預貯金にするイメージです。それ以外は、放っておけば増えていくよう投資している。

 

預貯金は、生活費で次第に減っていきます。だから、1年に一度くらい、投資を取り崩して預貯金に充当します。取り崩す額は、預貯金の残高が150万円になる程度。

このとき、「取り崩す額」よりも「その時点で出ている投資の利益」の方が多ければ、自分の金融資産は目減りしていないことになります。そこまでの利益が出ていなくても、年単位で投資の利益が出ていれば、その分は目減りが減らせている訳です。

例えば、投資で年間15パーセントの利益が出るとすると、1000万円を投資していれば利益が150万円ですから150万円を取り崩しても、資産全体として見れば目減りしていないことになります。5パーセントだとすると50万円の利益ですから150万円を取り崩すと、資産全体としては100万円が減ることになる。

そういうイメージです。

 

実際には、他の記事で書いたとおりここ2年間は投資で30パーセントくらいの利益が出ています。もちろん、いつもこうなるとは限りませんが、基本的には不安なくやっていけています。

こんな感じのイメージで、「必要以上に退職後の生活に恐れを抱かず、冷静に計画を立てて退職に至ればいいんじゃないかなあ。」などと考えているところです。

 

(コラム)早期退職後2年半、ここまでの生活を振り返る。(3) ~経済的な基盤とこれからのイメージ~

 

1 退職後2年半、現在の経済状況

退職を考えるにあたってはお金の問題を避けて通ることはできません。

「早期退職後1年半・・・」という記事でも書きましたが、お金の問題を解決するのに効果的な方法の一つが投資をすることだと思います。退職後1年半の時点で、「経済的な基盤はほぼできたのではないか。」と書きましたが、現在ではその感覚はより強くなっています。

 

hatasan2.net

 

ざっくりした報告ですが、自分が投資をしているアメリカの投資信託(投信、インデックスファンド)は退職後1年で年間30パーセントの利益が出ていました。それから大体1年後の現在、投信の利益は70パーセントになっています。年間30パーセントだとすると、1.3の二乗で1.69で計算上は2年目も30パーセント程度の利益が出ているということがわかります。

 

2 もしも銀行に預金していたら・・・

最近のネットの記事で見たのですが、日本の銀行(特にネット銀行)の預金の金利が上がっていて、定期預金では1パーセントを超えるものも出てきているそうです。ネット記事では「金利が跳ね上がっている。」と表現していました。

もう分析の必要もないと思いますが、日本の金融市場の状況が透けて見えます。

 

退職を考える時、1000万円を苦労して貯めたとして(あるいは退職金をもらったとして)、それを日本の銀行の定期預金に預けて1パーセントの利息をもらったとすると、年10万円の利息が付くということになります。

これに対して、投資をしていれば(私の例で言えば)、300万円の利益が出ます。

10万円で1年暮らしていくことはできませんが、300万円あればある程度の生活水準でやっていけると思います。

 

投資を語る際には、絶対に言わなければならないことがあります。

「投資は元本保証されている訳ではなく、暴落の可能性、外国に投資するのであれば為替リスクもあります。」。これは事実であり、理論的には全く正しい。

ただ、他方で預金をする場合のリスクについては、滅多に語られません。

上記の例で考えれば、著しく低い利率で「誤差の範囲」と言っていいような利息しか付かない(これ自体リスクのような気がしますが)のに、さらに物価が上がるなどのインフレリスクには対応できない。

最近、スーパーに買い物に行くと多くのモノが値上げされています。日銀が利上げしないのが不思議なくらいです。さらに、日本経済が強くなる兆しはないから円安が続きそうです。そうすると、原材料費は高いままでモノの値段はもっと上がる。

継続的なインフレのリスクが現実化しています。すでに現在でさえ、食費などは年間1パーセント以上上がっているのではないでしょうか?預金の方が、大きなリスクを孕んでいると考えた方がいいと思います。

退職後2年半、お金を運用していて、そういう想いが強くなりました。

 

3 これからの人生を考える。

生活のかなりの部分を投資の運用益で賄えるくらいになってくると、気持ちにも余裕が出てきます。私自身、もしも投資してお金を運用していなければ、再就職した現在の職場を辞めようとは思わなかったかもしれません。

 

現在の仕事は3月いっぱいで辞めます。

そのあとは(1)前職、(2)前職を退職後から今の仕事を見つけるまで、(3)今の仕事、で経験できたことを活かしたことができないかと考えています。また、お金の面でこれからも継続して利益が出せれば、大学に行くとか、そのほかの経験を積むとか、もっと思い切ったこともできるかもしれないと夢想したりもしています。

 

4 現在の日本社会と自分自身の関係

日本社会の経済、労働環境は、酷い状況になっています。

「もう無理!」と感じながら働いている人は多い。仕事を辞めようにも、家族はいるし、転職なんてうまくいくかどうかわからない。だから、辞めるに辞められない。

そういう人が多くいます。

 

そういう人たちの問題をすべて解決できるとは思わないけれど、1,2で書いた投資関係の知識を含めて、自分自身、ある程度の割合の人の役に立つものが身についてきているように感じます。

前職の後輩たちとは結構な頻度で交流をしています。また、退職後、相当の人と知り合い色々な話を聞くこともできました。さらに現在の仕事で、教育現場を通して、今の社会の問題点が見えたような気がします。

自発的に勉強もしてみました。そういう歴史、経済、金融、社会についての知識も総動員して、何かできないかな・・・。人生100年時代に向けて、人生の後半戦をどうしていくか、継続して考えています。

 

組織が変わる方法 ~中居正広問題でフジテレビは変わるか?~

1 フジテレビ、中居正広氏をめぐる性加害問題

中居正広氏の性加害疑惑が報じられ、フジテレビが窮地に陥っています。

・散々「正義の味方」面してやってきたテレビ局が、女性アナウンサーをいかがわしい接待に利用したという疑惑は本当なのか?

・本当だとしたら(本当だと多くの人は決めてますけど)どう責任取るのか?

ということで大騒ぎです。

 

2 今回の問題を経てフジテレビは変わるか?

ジャニーズ問題もそうだったし、性加害以外の企業の不祥事なども同じですが、似たようなことが何度も繰り返されます。

これに対する流れは、いつも大体同じです。犯人役の人を探して、大騒ぎをして叩いて・・・。その人が責任を負ったような感じになって終わりです。

 

今回も、10時間にも及ぶ記者会見をして、散々ひな壇の上の人を糾弾しました。これからは、辞任する人が辞任したら、あとはフジテレビが潰れるか存続するかが焦点でしょう。そこで終わりになるんだろうと思います。

 

つまり、結局、何も変わらない。

フジテレビがジャニーズのように潰れても、業界の本質的な問題は温存されたままになる。

 

余談ですが、日本が太平洋戦争に敗北した時も、結局、「陸軍が悪かった。」という程度の総括でした。日本の組織の意思決定の方法や個人のものの考え方など、本質的に改めるべきところは何だったのかという議論はされないまま現在に至っています。

 

3 組織ってどうしたら変われるのか?

じゃあ、組織や社会が変わるためには、どうしたらいいのか?

結論から言ってしまえば、組織があらゆる場面で多くの人の意見を拾って、良い意見であればそれを実行に移すことだと思います。言葉を代えて言えば、

(1)組織内の問題を議論の俎上に上げる。

(2)問題を議論して、議論の結果を踏まえて組織としての問題解決に動く。

ことだと思います。

こういう自律的に問題を解決してゆくやり方が理想だと考えられます。

本当に、ばかばかしいくらいに当たり前のことです。

ただ、このオーソドックスはやり方は、実はとても難しい。

 

4 なぜ組織は自律的に改善されないのか?

このオーソドックスな自律的変化が難しいのには、当然、理由があります。

第一に、組織内の問題を直視することが嫌いな日本の組織では、問題があることを口にすること自体がはばかられるという現状があります。組織内で気を使って(忖度をして)意見がいいにくい。また、「どうせ変わらない。」という諦めが蔓延していて意見を言おうとしない。

実際、「意見を言っても、どうせ自分の組織では通らない。」という類のことを言う人はとても多い。

第二に、良い意見があったとしても、それを拾って実行に移すというコンセンサスがない。

個々の社員は意見を言ったらそれを自分がやらされて忙しくなるのではないかと恐れ、職場のリーダー的な立場にいる人は「意見をすくい上げて、それを実行なんてできる訳がない。」とか「めんどくさい。」と意識的にも無意識にも考えている。また、組織の上層部は、意見をうるさがるし、意見を言う人を排除したがる。

 

その結果、現場は、

・意見を言っても無駄と感じる(現に無駄)。

・意見が通ったとしても、周囲の協力が得られない。

ということになる。

 

30年以上、私も組織で過ごしてきましたが、「無駄」という空気感は予想以上に強い。また、これまでと違うことをやろうという雰囲気も、上層部から現場に至るまで驚くほど無い。

 

5 意見を言えば組織は変わるか?

「どうせ変わらないと思わずに、意見を言い、様々な声を上げることが大切だ。」というのは、様々な識者が語っています。このことに私も異存はありません。

ただ、現在の日本の組織ひいては日本の社会では、声を上げにくい雰囲気が非常に強固に蔓延(はびこ)っています。「忖度」、「同調圧力」などの単語があらゆる場面で頻繁に使われることも、その証拠です。

この強固な雰囲気の正体は、「個人のメンタリティの問題」であると同時に「組織、社会が積極的に同調圧力を好んでいる結果」であると思います。

 

更に、意見を言ってすり合わせた上で、「さあ良い方向に動こう。」となっても、「どうせ無駄」という人たちが協力するはずもなく、それを任された人は苦労ばかりする。だから、個人も組織(上層部)も短期的に見たら、何も言わない何もやらない方が楽なんです。

 

だけど、少し考えればわかることですが、長期的に考えたら、日常的に改善を繰り返していた方が組織は良くなるに決まっている。

 

6 組織の構成員はどうあるべきか?

フォロワーシップという言葉があります。組織や社会の構成員としてリーダーとともに組織を作っていくことで、自分が組織の一員であることを自覚して積極的に関わっていく態度を指します。現在の日本では、リーダーシップを語る人は多いですが、フォロワーシップについて考えたり語っている人を見たことがありません。

 

フォロアーシップの考え方は、組織の中の人が、積極的に意見を言って、方向性が定まったら協力して実行に移していくということです。

30年以上公務員として働いてきて、私は、フォロワーシップの重要性を痛感しました。

 

他の記事で何度も書いてきましたが、組織にぶら下がる人がどんどん増えてきています。育児休業などを取得することを理由にまともに仕事の引継ぎもしない人、働かないおじさんと言われる人・・・。

どう考えてもフォロワーシップとは対極の人たちです。

こういう人たちは、そもそも意見を言う気もなく、良いことだとわかっていても今までやっていなかったことをやる気もありません。

 

こういう人たちは極端な例だとしても、それ以外の多くの人も意見を言わない。だから組織として問題が認識されない。また、組織も意見を拾わない方が余計な仕事が増えないから拾おうとしない。

更に、「意見を言うけれど言いっ放し(自分は動かない)。」の人もいて、仮に組織として何かをやろうとしても笛吹けど踊らずという態度を取る。

そういう態度を取っておきながら、「組織はどうせ変わらない。」と言っている。

 

組織の構成員である会社員や公務員は、もっと意見を言うべきです。このことは論を待たない。その上で、それと同じくらい大切なのは、自分の意見が通っても通らなくても、方針が決まったらきちんと協力して仕事をすることが大切です。

 

そういう努力をした上で、どうにもならなければ、非常手段として、内部通報制度を利用して、外から組織にプレッシャーをかけるなどの方法もあります。ただ、原則は、組織が自律的に動いて変わっていくことが重要だと考えられます。

 

7 再考 フジテレビは変わるか?

10時間もかけて経営者をつるし上げて、あとはどうなるのでしょうか?

多分、社長が辞任して、あとはあいまいな「解決」に至る。誰かを生贄として、あとはまたもとの生活に戻る。

 

10時間も記者会見をやって、そこで批判ばかりして、その後どうするかという問題が浮き彫りにはならない。日枝さんが辞任したら・・、管理職だったアナウンサーを誹謗中傷したら・・、すべて解決するのでしょうか?

地道ではあるけれど、やるべきことが他にあるはずです。

(1) 変わるためには何をすべきか。

どこの組織も似たようなものだと推測していますが、現場は「本当に必要なのかどうかわからない仕事」(ブルシットジョブ)で首が回りません。テレビ局も例外ではないでしょう。

テレビ局内で意見を自由に言えるようにするためには、現場が多忙を極めていては、そういう改革はできません。まず、「余裕を作り出す。」ことが大切です。

 

その上で、

・「意見を言える場」を作る。

・意見を言った上で決まった結論には皆が協力するという意思統一をする。

(2) 意見を言える組織を作る。

まずは、組織の上層部が「意見を聞く」という姿勢を示すことだと思います。そのハードルが高いことは、私も長年の公務員生活で痛いほどわかっています。

ただ、めんどくさくても、ろくな意見が出なくても、石の中に玉が混ざっている可能性がある。

意見を聞く制度なんてここに書くまでもなく、いくらでもあります。失敗してもいいから、そういう制度をまず作って運用してみることが必須だと思います。そして、良い意見を拾うために労力とお金をかけること。

(3) 議論の結論を協力して実行する雰囲気を作る。

組織風土ということになるのかもしれません。

「女子アナ上納制度とかの組織風土を作ったのは日枝氏だ。だから辞任しろ。」と言っている人がいます。まあ、辞任して組織が改善されるのならいいけど、・・。

でも、リーダーシップ、フォロアーシップが適切に発揮されるような組織を作るため、本当に組織のことを考えてリーダーとして働こうとする人や、それに協力しようとする人を大切にする組織の雰囲気、組織風土を作れるなら、誰でもいいのではないかと私は思います。日枝氏にそれだけの影響力があるのならば是非実行してもらえばいいのではないかとさえ思う。

実行しないと言うことならば、その時点で辞任要求とかしたらいい。

 

組織風土を作るには、表面的に正しいことをお題目として唱えるのではなく、本当に働いている人を大切にする組織を作ることが重要です。そういう企業方針を現場も巻き込んで作ってみてもいいのではないでしょうか。

(4) 体制は作って終わりではない。

当たり前ですが、自律的に変わっていける組織は一度作ったら終わりではありません。

でも、自律的に変わっていく組織風土があれば、そんなに大きく道をはずれることはないのではないかと感じます。

注意しなければならないのは、大きな問題があって長期間それが解決できないと、組織全体として諦めムードが支配的となり、カリスマ的なリーダーを求め始めます。自律的な組織よりも簡単だし、一時的にはカリスマが気持ちよく問題を解決してくれることもあります。

その結果、カリスマからのトップダウンだけで組織が動き始め、下々は指示待ちとなる。カリスマをあがめ、奉ったことによる末路です。

指示待ちとなっている組織は本当に多いと思います。もしかしたらフジテレビもそうだったのかもしれない。

「おかしいことをおかしいと言えず、言ったとしても黙殺され、諦めて働いている人が多くて、そのうち組織の上層部から何か指示があればやればいいとみんなが考えていた。」ということは無いのでしょうか。

 

8 まとめ

結局、「批判はするけど、問題の解決は人任せ」という現在の日本社会の悪癖を排除しない限り、問題は解決しないということのような気がします。「フジテレビはとんでもない。」と批判している人たちも「批判はするけれど何もしない。」という点では全く同じなのではないか?

個人的には、人の批判はほどほどにして、本当に微力ではありますが、自分にできることに目を向けて生きていきたいと思います。