スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

正しいことの残酷さ(3) ~世の中の「原因と結果」を考えることの方が大切~

過剰に正しさに執着する現代社会ですが、これが幸せにつながらないことは、今の閉塞感や圧迫感に押しつぶされそうな世の中を見ていれば明らかだと思います。

 

本当は、正しさに執着するより、「こうなったらいいな。」ということを実現するためには、「どうしたらいいのか。」を考える方が断然いい。

今の自分の行いは、将来に繋がっています。今の自分の行いが「正しいかどうか」ではなく、「将来の良い結果の原因になっているかどうか」を模索して生きることが、自分の幸せにつながると思います。

同様に、自分の行いが「人に良い影響を与えるか」、「社会に良くなる原因になるか」を模索することが、良い社会の実現に繋がる。

 

「自分は正しいのに、社会や人がおかしい」等と嘆くのは終わりにして、今何をしたらいいのかという自分の問題に向き合うことが大切です。

 

そう考えて、自分は何をすべきか色々考えています。笑笑

 

2年前に漠然と考えていたことは、「退職という思い切った決断をして、自分の人生を良い方向に変えたい。」ということでした。

実際に退職することで、時間ができ、自分の人生について掘り下げて考えることができました。

 

退職後、次に、考えたのは「自分や社会に良い影響を与えられることはないか?」ということでした。

国の組織で公務員として働いていた時に感じていた問題点、つまり仕事が大変だからと言って辞めてしまったら人生が立ち行かなくなるという問題を、個人として乗り越えるためにはどうしたらいいかを考える中で、実際に就職活動をしてみました。

この経験はこのブログの「退職から人生再建へのモデル」というカテゴリーにまとめました。文字通り一つのモデルは作れたのではないかと思います。

 

現在は、再就職をして半年ほどが経とうとしています。

生活は安定しつつあります。

次は、どうしようか。楽しみながらも、真剣に考えているところです。

 

正しいことの残酷さ(2) ~「愛」や「正義」は幸福につながらない。~

この世の中から「間違い」を排除することはできません。

間違いを嫌い、執拗に糾弾する社会は幸せを招きません。

 

他方で、「これがあれば幸せ」と考えられているものがあります。そして、大多数の人(おそらく「全ての人」と言ってもいいくらい)が、これだけは間違いないと思っている。

それは「愛」とか「正義」です。

 

でも、「愛」から出た行為が人を傷つけ、貶めることが頻繁に行われています。

子どもを愛するあまり、子どもの自主性を奪い引きこもらせてしまったり、恋人を愛するあまりストーカー化して犯罪を犯してしまったり、生徒のことを考えるあまり暴力をふるってしまったり・・・。

正義を標榜して、人を平気で傷つける人も多い。

ユーチューバーが逮捕を繰り返したり、不倫をした人を執拗に批判したり、マスク警察として因縁をつけたり・・・。

こういう例は、極端なものですが、同じようなことは他にいくらでもあります。

 

実体験として言えば、前職で部下職員のパワハラ行為が問題となり、そのパワハラをした職員と面談をしたことがあります。なぜハラスメントをするのかをじっくり聞いたところ、「ハラスメントを受ける人が間違っている。自分は正しい。彼(彼女)のためを思ってやったことだ。」ということでした。

その人は「自分は被害者だ。」とも言っていました。

hatasan2.net

結局、パワハラをした人は、「愛や正義のためにやったことでハラスメントではない。」と言う訳です。本気で信じている様子でした。

 

間違いを許さない社会で暮らしていると、人を激しく糾弾することの反作用として、常に「自分は間違っていない。」ことを主張標榜する必要が出てきます。これは、とても苦しいことです。

この苦しさを何とかやりすごす方法として、「自分は愛を持ってやった。」とか「正義のためにやった。」と言うようになります。

 

今、社会にはこういう人が溢れています。

 

こういう「愛」や「正義」によりかかっている人たちは、実は、「愛」とか「正義」とかについて、深く考えたことがないのではないかと感じます。

こういう人たちの言う「愛」や「正義」は、言い換えれば「正しさへの執着」ではないかと思います。

 

現代社会は、何となく「愛」や「正義」を至上の価値として取り扱っています。それを無批判に受け入れた人は、苦しみから逃れるために「愛」や「正義」を振りかざします。そのことによって、人を無自覚に傷つけ続けています。

でも、そうまでして自分を守りながら、実は、その人自身も、自分が批判されることを怖れ、とても苦しんでいる。

 

こんな世の中で生きていくことは大変です。

そういう世の中で、自分が苦しくなく生きていくためには、どうしたらいいのか?

 

「正しさへの執着」を手放すことだと思います。「愛」や「正義」で人を判断することを止めることです。「愛」や「正義」に寄りかからずに物事を判断したり、人も見ることは、実はとても大変です。「正しさに執着」している間は、物事や人を正当に判断することはできないと思います。

 

正しさに執着しないで、物事を見ると、もっと人生が楽になるのではないかと思います。前回、裁判を題材に述べたように、人生の次のステップに進むことができるようになる。

 

もういい加減に、「愛」だとか「正義」だとか言うのを止めて、物事を見るようにした方がいいのではないかと感じています。

 

正しいことの残酷さ(1) ~正しさへの執着は幸福な人生を生み出さない。~

大学で法律を学びました。

大学で学んでいた頃は、法律で社会をより良くできると信じていました。争いになったら、どちらが正しいかを判断し、悪いことをした人がいれば、処罰をして被害者を救う。法律があることで社会が正しく運営される。

困った時には助けてくれるものが法律であると単純に考えていました。

 

こういう感覚は、結構長い間、無意識に持ち続けていたと思います。

ただ、ある時、「どんな制度や仕組みにも間違いがある。」と意識するようになりました。人間が運営する以上、かなりの頻度で間違いがある。

 

法律を制度として生かすものとして裁判があります。

裁判に間違いはあってはならないということで、憲法三審制を採用して、基本的には地方裁判所高等裁判所最高裁判所で3回審理を見直すことができる制度になっています。それでもさらに間違った場合に備えて、再審という制度すらあります。

間違いを無くすための制度ではありますが、三審制や再審という制度があること自体、「人間は間違う」ということを前提にしています。

 

もちろんこれだけ厳格な制度、手続になっている訳ですから、大きな間違いは滅多にないかもしれない。でも、これだけやっても間違う可能性を0にすることは、絶対にできない。

 

 

じゃあ、手続を尽くしたけれど間違えた結論になってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?

 

すべての手続を踏んだならば裁判は終わりです。納得できなくても、それ以上はどうにもなりません。(*)

だから、それはそれで納得せざるを得ないということになります。

* 制度としては再審申立を繰り返すということも考えられますが、実効性の点で疑問もありますし、ここでは取り上げません。

 

間違いがない制度はありません。そうなってしまえばそれを受け入れるしかない。

「受け入れる」というのは、どういうことでしょうか?

受け入れるとは、「それがいいこと」と許容したり、「どうせ、そんなものだ」と諦めたりすることとは違います。間違うことが不可避な人間の社会では「そういうこともある」と納得することだと思います。

 

そうすることで、その問題としては決着をつけて、次の人生のステップに進むことが想定されている訳です。

裁判を一つの区切りとして、その問題に関わることをやめて、次のことを考えるということが大切なのです。

 

 

裁判という制度を例にしましたが、世の中のあらゆるところで同様に考えることができるのではないかと思います。

多くの人が「納得ができない。」と言って、一生恨む気持ちを捨てられなかったり、人につらく当たったりするということがあります。でも、ある程度で区切りをつけて、その状況を受け入れて、次に進むことが大切だと思います。

 

最近は、いつまでも人を恨んだり、非難したりすることが多くなっています。社会もそれを推奨するような傾向が強まっています。

人の間違いを許さず、声高に人の間違いを糾弾し、執拗に批判を繰り返します。

でも、こんなことをしていたら、間違えた人は必要以上に排除され、簡単に社会から抹殺されるようなことも起こります。それと同時に、批判する人も恨みに囚われ、次々とそういう批判の対象を探すようになります。誰も幸せになれない。

間違えを根絶することなど、不可能なのですから。

 

「人は間違える」ということを前提に、一度考えてみてもいいのではないでしょうか。

 

先延ばしにしてきた人生の課題 ~本当にやるべきこと~

一昨年の7月までは、仕事は忙しく、目の前のことを処理するだけで毎日が消費されていきました。平日は仕事、休日も仕事があったり、家事や少しの息抜きで終わってしまっていました。場当たり的に生きていたと言ってもいい。

「これではいけない。」という思いもあり、一昨年7月末58歳で退職をしました。

 

人がやることには4つの分類があると言われます。

1 急ぎで、重要なこと

2 急ぎじゃないけど、重要なこと

3 急ぎで、重要じゃないこと

4 急ぎじゃないし、重要でもないこと

これまでの生活では、できる限り4は省くようにしつつ、1や3、要は急ぎの仕事や課題に振り回されて来ました。

でも、人生のスパンで考えた時、本当にやるべきなのは、2の「急ぎではなく先延ばしになっているけど、重要なこと」なのではないかと思います。

 

目先の生活に振り回されて、今まで考えてこなかったけれど、例えば「自分が幸福になるために本当にやるべきこと」とか「人生において優先してやるべきこと」とか、真剣に考えて実行すべきことが結構あったりします。

 

 

その中でも、いつかはある程度の時間をかけてじっくり考えたいと思っていたことが『「死ぬ」ということについて』です。

 

親や親せきの死も経験しました。また、仕事をしている時に、目の前で仕事の関係者が亡くなったこともありましたし、親しい職場の知り合い、同僚も4人病死しました。

死の宣告は、突然やってきます。

昨日まで、普通に生活していたけれど、どこかが痛くなって医者に診てもらったら、癌だったとか・・・。

 

死の宣告をされて衝撃を受け、「そんなはずはない。」と悩み苦しみ、最後に「仕方ない」と死を受容して亡くなるという経緯が一般的だと言われます。

 

近しい人の死を見るたびに、「死」が自分にとってどういうものか、いざ死の宣告を受けた時にはどうしたらいいのか等々、考えておいた方がいいと思いました。でも、とても大事なことだけれども、日々の生活にかまけて、先延ばしにしてきた。

 

 

「死」について考えることは、「どう生きるか」を考えるのと表裏の関係にありますから、これからの自分の人生を考える際に大きな指針となります。

 

 

昨年の今頃、職探しを始めました。幸い、生活に困って職探しをしているという訳ではなかったので、あわてず淡々と活動を継続していました。

でも、その中で、社会の矛盾は強く感じることになりました。就職氷河期と言われる時期に就職できなかった人が、今尚、救済されず放っておかれていることが端的に示すとおり、労働市場に関する問題は、政治的に、意図的に、手つかずのままになっています。

こういう状況に強い憤りを感じました。

 

他方で、大きな問題ではありますが、そんなことに自分の人生の時間を割くのは得策ではないとも感じました。自分が生活できるだけのお金などがあれば、あとは好きなことをやって生きるのがいい。

もっと、「自分の好きなこととは何なのか」ということを深く考えることに時間を割いた方がいい。

 

好きなことというのは、娯楽とか趣味とかもありますが、自分が死ぬときに「ああ、こういう経験ができてよかった」と思えることだと思います。自分の心が、そう感じて、死を迎えられたらいい。

今の生活では、常に「何をしたら、自分は充実していると思うのか。」と自分自身に問いかけ続けているような気がします。自分に刺激を与えてくれること、生きていく上での価値観を深めてくれること、端的に楽しいこと・・・何が自分の人生を深め、意義あると実感させてくれるのか、その都度考えています。

 

これからはもう、場当たり的に生きるのはやめようと思います。

社会が重要だと言うことが必ずしも自分にとって重要だとは限りません。自分の価値観に照らして重要かどうか、考えつつ今後の人生を送っていけたらいいなと思います。

 

早期退職後の生活は充実しているか。 ~「諦め」の蔓延する職場から離れて~

現在、わりと充実した生活を送れています。

 

思い切って前職を退職する前は、「退職後の人生や生活って、どんな風になるんだろう?」と不安に思い、良くも悪くも「静かな生活になるのかな。」などと思っていました。

実際は、「かなり忙しい。」というのが実感です。

 

退職直後こそ、何もせずゆっくりしましたが、「これからの人生をどうしたいのか。」を考え、それを実践しようと動き出したことで、次第に多忙な生活になってきました。

当初は、「再就職をするに際して、現在の労働市場ってどうなっているんだろう。」という疑問を実地に体験すべく、そこそこ忙しくしていました。

その後、再就職をした今は、週に4日が仕事で、土日月がお休みです。この3日間に趣味のテニスをしたり、人と会って食事をしたり、その他やりたいことをやっています。ここ数カ月はこういう予定が1日に複数入ったりしていて、完全に休みの日はなかなか確保できないほどです。

趣味をもとに人との繋がりが広がりましたし、そういう中で新たな発見があり、将来的にやりたいことも見えてきました。

 

 

前の職場を辞める理由の一つとして、「やる気のない職員に囲まれていたこと」が挙げられます。言葉を変えて言うと、将来を諦めている職場だったということです。

そうなってしまったのには様々な原因がありますから、諦めている人をむやみに責めるつもりはありません。

でも、その人が必ずしも悪いとは言わないとしても、「どうせ頑張ったって組織は変わらない。」とか「やっても結果は見えている。」とか「自分が働いている時さえ無事に過ごせたらいい。」と考えている人ばかりの職場に留まれば、自分自身もそうなってしまうと強く感じました。

 

その頃から、「自分が仕事をしているやりがいって何だろう。」と考えてきました。

 

今から16年前の2008年の北京オリンピック、メダルを獲ることは難しいと思われた男子陸上短距離の400メートルリレーで、塚原、末續、高平、朝原の各選手の日本チームが銅メダル(結局は上位チームが失格で銀メダル)を獲りました。

このことで、リレー競技は日本が得意とするものとなり、その後のオリンピックでは注目の種目となっています。

 

リレーの面白いところは、出場する4人のタイムの合計が速いからと言って必ずしも勝てるわけではないこと。ただ、そうは言っても、南米などの身体能力の高い人たちと比べると不利であることは明らかです。でも、諦めず全力を尽くすことで、結果が出ることがある。

この「諦めず全力を尽くす」というところは、すべてに共通することではないかと思います。

 

 

リレー選手の中で一人でも諦めた人がいたら・・・、間違いなく、結果を出すことはできないでしょう。

諦める人がいなかったら・・・、もしかしたら結果が出るかも知れない。もちろん、現実はそう甘くはなく、結果はやはり出ないかもしれない。

それでも、諦めずにやったことが、それぞれの参加者に納得のいく結果をもたらすのではないでしょうか。それが、将来につながる。

北京オリンピックのリレーは、各選手が諦めることなく全力を尽くすとともにチームとしてバトンパスの技術を磨き、メダルを獲得しました。金メダルではなかったけれど、日本チームも金メダルを含むメダルを狙えるポテンシャルがあることを明確に示したことで、将来の日本の短距離陸上に大きな影響を及ぼしました。

 

 

現在の日本社会は「諦め」ムードが蔓延しています。

「どうせ変わらない。」、「楽に生きたい。」、「自分だけ運よく困難にぶつからないといい。」という雰囲気が強く、自分を強く主張したり、新たなことにチャレンジしたりすることがどんどん無くなっている。

言うまでもなく、政治も経済も旧態依然としたままです。バブル期の水準に株価が戻ったと喜んでいますが、30年前に戻ったというだけです。

こういう社会に身を委ねていても、満足のいく幸せな人生にはたどり着けません。

 

 

諦めてしまった環境にいつまでも身を置くことは、良くない。

そこから自分の意思で離れ、たとえ逆境でも、人と違っても、諦めず自分の人生を歩んでいける人が、結局、幸せになるのではないかと、今、感じています。これからものびのびと試行錯誤をしながらも進んで行けたらいいなと思います。

 

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。~精神的安定について~

前の職場で働いていた頃は、いつも不安でした。抱えている仕事を全て完璧に処理できるかどうか心配で、夜中に目が覚めたことも度々ありました。目が覚めると、頭の中を仕事のことが回って眠ることができなくなりました。早朝に目が覚めることもありました。

睡眠に支障が出ると、間違いなく体調に異変を来します。

程度の差こそあれ、そういうことを繰り返して来ました。

 

仕事を辞める直前はとてもブラックな職場で、精神科に通って睡眠導入剤を処方してもらうなどしながら何とか乗り切りました。退職した直後は、ものすごくほっとしたことを覚えています。

でも、退職直後は、仕事が無くなったからリラックスしようとしたのですが、なかなかできませんでした。

 

退職してから1年半以上が経った最近、やっとそういう状況から抜け出したように感じます。

夜、目が覚めても、また眠りにつくことができます。朝は明るくなって目が覚めます。目が覚めた時の気持ちもすがすがしい。

現在の生活や仕事に、全くストレスが無い訳ではないけれど、きちんと生活できていると感じます。

 

 

振り返って切に思うのは、自分の人生は自分で選択することが大切だということです。

前職だって勿論、自分で選択して就職した職場です。でも、そこにいつまで留まるかどうかも、悩んだけれど、自ら決断しました。

悩みましたが、退職する決断をできたことは、とても良かったと思います。今、毎朝、感じています。

 

 

精神的な余裕ができたことで得たものは多いです。

 

自分の人生を考える時間ができた。

自分の身体を大切にするために健康診断などに行くことができるようになった。

息子が小さい頃、輸血で助けてもらいました。恩返しに献血に行くこともできる。

ゆっくり体を休めることもできる。

付き合いたい人と時間を作って一緒に過ごすこともできる。

趣味に没頭することもできる。

今まで知らなかったことを勉強する時間もできた。

 

まだまだあると思う。

 

 

他方で、前職はブラックだったけど、その経験で培ったことも多い。

現在、幸せな気持ちで生活ができているのは、その経験に依るところが大きい。何千件と経験したクレーム対応のノウハウは、実は、人間関係一般で応用できるものであることに最近気づきました。このブログを書くなどは前職で無数の決裁文書を作ったからこそできることだと思います。

hatasan2.net

 

結局、人生というスパンで見れば、良いこともあれば悪いこともあります。人生は全て塞翁が馬です。

でも、悪いことばかり起こると思う時期でも、真摯に問題に向き合えば、その経験は後の人生に必ず役に立つ。そう思います。

そう思えた時、幸せを感じられるということなのかなあ・・。

 

(コラム)早期退職後1年半、ここまでの生活を振り返る。~健康診断にも行けなかった以前と今の生活~

前職で多忙を極めていた頃、「健康診断には必ず行くように」というお達しが回り、部下職員にも必ず行くように言っていましたが、自分は行けないことの方が多かった。健康は大事だとわかっていても、職場は慢性的な人手不足で余裕などどこにも無いような状態の中、すぐに処理しなければならない仕事も多く、気づいた時には健康診断の時間が過ぎていました。

 

幸せなことに両親から授かったこの体は、健康診断では長い間、異常値が出ることもなく過ごして来ました。でも、さすがに異常なまでの忙しさの中、どこまで持つのか不安を持ち続けていました。

 

 

退職してから、近所の病院に健康診断に行きました。結果は異状値は特になし。でも、血圧がやや高いと言われました。先生が丁寧に説明をしてくださって、「一つの方法として体重を落とすことを考えてもよいのでは。」とのことだったので、それからダイエットを始め、現在は退職時と比べて10キロほど痩せました。

 

仕事を続けていたら遅かれ早かれ何らかの異常が出ていたのではないかと思います。慢性的なストレス、睡眠不足、アルコールの過剰な摂取など、原因になるものが満載でした。

今は、ストレスもほとんど無くなり、アルコールも適量の範囲です。そのせいもあって睡眠もよく摂れます。体重を落としたせいで、実感として体が軽くなり、ほとんど持病と化していた腰痛も無くなりました。思わぬ副産物として、体が軽くなり、テニスで動きがよくなりました。

 

 

当たり前以前の問題として、健康はすべての基本です。

健康を害するような生活からは、できる限り速やかに離脱することが何よりも大事だと痛感する毎日です。