スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

怒りの感情に支配されない幸せな人生を生きる。 ~戦争、いじめ、ネット社会の誹謗中傷について~

今の世の中には「怒り」が渦巻いています。

怒りの感情は、人を苦しめます。「怒っている時に気分のいい人などいない」とわかっていても、人は怒ります。怒って、恨んで、妬んで、自分自身を苦しめます。

 

人は「仕返し」をすれば、いい気分になれると信じていますが、仕返しをしてもいい気分にはなりません。「私は、こういう仕返しをしてやった。」と人に自慢してみて、褒められることもない。

社会的に尊敬はされないし、自分自身でも自分を誇ることができなくなる。さらに、仕返しをされた人は自分を憎むようになる。

「ざまあみろ」と思えるからいい気分だという人がいるかもしれませんが、仕返しをされた人は、さらにどんな仕返しをしてくるかわかりませんから、心は休まりません。

 

こんな風に怒りは自分自身を苦しめます.。

でも、自分が苦しんでいることに気づかない人が多い。

なぜなら、人に対して、社会に対して、国に対して怒るとき、人は自分が「正しい」と思っているから。正しいから怒って、何が悪いんだ?と考えています。自分の怒りは正義なのだと思い続けています。

でも、怒りは、自分を傷つけ続けます。怒りに支配されることは、大きなストレスなのに、怒りの感情を手放そうとしない。更に、怒ろうとする。

 

 

今の世の中、怒っている人の方が偉かったり、正義であると考えている節がある。怒っていない人は、無理解な人間であったり、正義のわからない人間だと思われている。

 

少し考えればわかることですが、こういう感情が戦争を引き起こし、いじめを蔓延させ、また、人を傷つけるようなネット社会を増長させたりしています。

みんな、自分は「正しい」、「正義だ」と考えて怒っています。

冷静に見てみると、戦争をする人、いじめる人、ハラスメントをする人、ネットで誹謗中傷をする人の多くは、自分が正しいと考えているように思われます。直接その人の話を聞いてみて実感することもあります。

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でも、私は「こんな世の中、居心地悪くないか?」と常々考えています。個人が「正しいこと」を実現しようと怒って、憤って、恨んでも、世の中は良くならない。

 

 

怒らなくても正しいことは実現できます。

人や社会や国のどんなところに問題があるのかを、冷静に理解して、どうしたら問題が解決できるのかを考えることです。

怒っていても問題は解決しません。

 

 

ただ、「怒ること」を完全に否定している訳ではありません。

人間には感情がありますから、怒る瞬間があるのは当然です。

ただ、いつまでも怒っていてはいけないと思います。継続して怒りの感情に支配されてしまうと、人を殺したり、いじめたり、感情的に批判をして人を傷つけたりすることになります。例を挙げるまでもないでしょう。

 

怒りの感情は、自分が向き合っている事の問題点に気づく契機になります。

人に傷つけられたと思った時、社会が間違えていると怒りを覚えた時、国に文句を言いたくなった時、どうしたら問題が解決できるのかを冷静に考えることが大切だと思います。

「そんなことでは、問題は解決しない」と怒って言う人もいます。でも、冷静に考えず、怒りに身をゆだねている方が、間違いなく問題を大きくします。

だから、怒りの感情を抱いていることに気づいた時には、まずは感情に任せて怒ることをやめて、どうしたらいいかを考えることだと思います。

 

怒りの感情は、そんなに簡単に止められないと言う人もいます。

でも、多くの人は止めようとしていないだけです。止めようとしたら、意外と怒りの感情が暴走することを止めることはできます。

 

学問的に言うと、社会のあり様を「間違っているのではないか」と認識して、それを冷静に理解し、解決策を考えるという作業を「批判的検証」と言います。現実、現在の制度をそのまま「良し」と鵜呑みにするのではなく、何か間違っているのではないかと批判的に見ることが出発点です。

怒りは、「何か間違っているのではないか」と気づく契機になる感情です。

そういう怒りの感情を契機に、物事を批判的に検証することが大切です。決して、怒りに任せて行動してはいけない。

 

 

自分自身、無自覚に人を傷つける人や無理解な社会に対して、相当怒っていたことがあります。

プライベートでは子どもを授かり、職場では多忙を極めていました。完全に自分のキャパシティーをオーバーしていました。「なぜ自分がこんなに苦労しなければならないのか?」と常に考えていました。子育てをしたこともない年長の上司の無理解に接して、「なぜあの人は、わからないのか?」と怒り続けていました。

現代の日本社会では、こういう環境に置かれている人は、多いのではないでしょうか。

こういう感情を抱き続けた結果、私は、うつ病になりました。

 

今ならわかります。

国も悪いかもしれない、社会も問題が満載かもしれない。人も自分を理解してくれない。でも、それは、程度の差こそあれ、当たり前のことなのだと理解できます。

そういうことは前提として理解して、次に、やるべきことは、自分が怒りの感情に苦しめられていることに気づき、それを解決するにはどうしたらいいのかに焦点を当てて考えることです。いつまでも怒っているのではなく、批判的に現状を分析し、解決策を検討する。

そうすれば、自分の置かれた環境に問題があっても、その環境を是正することや、是正することが叶わなくてもその環境から離れるなどの対策を取ることができます。

過去の自分は、それができなくて大きな回り道をしました。

 

これからは、怒らず(怒りの感情を感じても、それを客観的に見て)、淡々と、気持ちのいい人生を送るよう努力したいと考えています。

 

自分とは違う人を理解しようとする心の余裕の大切さ ~凪良ゆうさんの「流浪の月」、町田そのこさんの「52ヘルツのくじら」~

人が人を理解するとき、どうしても自分の枠組みを当てはめようとします。

それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと思います。

 

自分とは違う世の中のマイノリティを理解するときに、マイノリティの人たちはこういうものだという形を作ってあてはめて理解したつもりになるということが、よくあります。

ある経験をした人は「こう感じるはずだ」と決めつけてしまいます。離婚をした親の子は・・・とか、犯罪の被害者は・・・とか、受験に失敗した人は・・・とか、枚挙にいとまはない。

世の中のマイノリティについて、そういう人たちは・・・だと決めつける。

 

そういう構造的なことは、思い込んでいる人に説明しようとすると、とても難しいし、まだるっこしい。

そういう経験のない世の中の大多数の人は、マイノリティとは「こういうもの」と理解したら、その枠組みで考える。でも、枠組みにはまらないのがマイノリテイなんじゃないですかね。

 

 

今、日本社会ではLGBTQとか、ダイバーシティとか言っています。

専門家とかがマスメディアに出てきて、色々言っていますが、本当に、端的に言えば「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」ということだと思います。ただ、それだけ。

その人その人の置かれた状況、立場で、そういうこともあるのかもと、立ち止まって考えることの大切さや、自分と違うからと言ってヒステリックにならないことの大事さを明確に認識しようということだと思う。

 

メディアが取り上げれば取り上げるほどLGBTQとは「こういう人」と定義されていくような気がします。そのこと自体が、違うじゃないかなあと思う。

多分、LGBTQと言ってもいろんな人がいる。

 

様々な文学作品やドラマ、映画などが、こういう問題を取り上げています。マイノリティの理解の難しさ、マジョリティーの無自覚な横暴さを扱った作品は多い。

最近の小説では、凪良ゆうさんの「流浪の月」、町田そのこさんの「52ヘルツのくじら」がすぐに思い浮かびます。両方とも本屋大賞を受賞しています。

 

とても良い小説だと思います。ものすごく売れている小説だから、影響力も半端なものではないと思う。

でも、世の中の多くの人がこういう感性を持ち始めたとも思えない。

 

昔、黒人なんて人間じゃないと言っていたように、あちこちで「ロリコンなんて死ねばいい。」とか、「男女の愛以外の愛はありえない。」とか決めつけている。

「自分と違う立場の人がいて、そういう立場の人もいるということを理解しようとすることが大事。そういう感じ方、考え方もあるんだなあと受け入れよう。」という考え方はシンプルだけど、常にこれを実践することは、すべての人にとって、それほど難しい。人は誰しも、自分自身の枠組みを通してしか人を理解できないから。

それでも、できることならば、できるだけ、自分の枠組みを当てはめてわかったつもりにならずに、あるがままに理解しようとする姿勢が大切だと重ねて思うのです。

シニア世代の断捨離についての考え方 ~溜め込んだモノは遺された子どもを苦しめる。~

私の勝手な印象ですが、本当にミニマムでスタイリッシュな生活をしているのは、シニア世代よりも若い人が多い。

 

でも、余計なお世話かもしれませんが、ミニマムな生活を一番取り入れた方がいいのはシニア世代なのではないかと、私は思っています。「私の家には物が少ない」と言っているシニア世代でも、相当の「物持ち」の人は多い。

 

人生を長く歩んでくると自然と思い入れのある物が溜まります。また日本は物質社会で日々いろいろな物が家に入って来る。普通にしているとモノはどんどん増えていきます。

「相当の覚悟」を持って減らさないとモノは減りません。「整理整頓はちゃんとやっている」とか「不要な物は捨てている」という程度の意識では足りません。

 

 

私事ですが、自分自身がミニマムな生活をしたいと考え出したのは20年ほど前だったと思います。当時は「ミニマリスト」という言葉も無かった。

当時からインテリア雑誌なんかを見ている時には、モノがすくない部屋や家に惹かれていました。そういう中、本気で「モノを減らしたい」と考えるようになったのは、カレン・キングストン著「ガラクタ捨てれば自分が見える」という本を読んでからでした。

この本は、読むとモノを捨てたくなります。

 

それから長い時間をかけてモノを減らすために試行錯誤をしました。当時は、捨てても捨てても、本当になかなかモノは減りませんでした。

着実に減るようになったのは、離婚をしてからでした。理由は、自分の一存でモノを捨てられるようになったことと、モノが入って来るのをコントロールできるようになったこと。本当に見る見るモノが減っていきました。

20年前から家族、親族を説得し続け、モノを整理、処分するようにしていましたが、モノが出ていくより入って来るスピードの方がはるかに速かった。

 

振り返ってみると、当時の私は、家族、親族に「モノを減らしたい」と言葉を尽くして説明しました。でも、本当の意味で理解を得ることができなかった。

皆、「モノは少ない方がいい」と賛同はしてくれるのですが、実際に個別のモノを目の前にすると「・・・だから、これは要る」と言います。色々な理由を付けて捨てない。

また、いろいろな贈答品や記念品を贈ってくれる親族も多くて、婉曲に「次は結構です。」とお断りするけれど、次は更にパワーアップされたものが送られてきたり。

モノを減らす理念には賛成だけど、具体的なモノを捨てたり増やすようなことはやめない。総論賛成、各論反対という状況でした。

 

シニア世代がモノを減らせない心理的な原因はたくさんあって、多くのミニマリストの方が指摘しておられます。それは、ほぼ全て正しい。

でも、核心的な原因は、具体的なモノを目の前にして「捨てる」と決断できないことと、モノのやり取りが好きなでモノをどんどん増やしてしまうこと。

 

モノを目の前にして「捨てる」決断ができないのは、戦中世代のお年寄りに関して言えば「太平洋戦争」を経験していることが大きい。当時はモノが無くて苦労した。だから、モノは大切にしなければならないと刷り込まれている。

時代は下って戦中世代に育てられた次の世代も「モノは大切にすべき」という考えが体に染みついている。

この考えを改めるのは大変です。

 

モノのやり取りが好きなことは、「モノは大切」という考え方が基礎になっています。「大切なモノ」を人に贈るのは誠意の表れだし、いただいたのは「大切なモノ」だから捨てられない。

 

ミニマムな生活をするためには、こういうモノに対する姿勢を根本的に変える必要があります。人生に根差した考え方ですから、とても難しいのですが、この考えを捨てないと前に進めない。

モノを目の前にした時、「捨てることが原則、例外的に今後も使うものは持つ」というくらいの決意が必要だと思います。捨てることが原則ですから、頂き物も基本は捨てる。だから、捨てるのが嫌ならもらわない覚悟が必要です。

 

余談ですが、その人の家に行かなくても、モノのやり取りをするのが好きな人の家はモノが溢れている可能性が高いと私は感じています。

 

 

最近気づいたことがあります。

これまではミニマムな生活をするのは自分のため、自分が心地よい生活をするためだと考えてきたのですが、それだけではない。自分が死んだ時、今、自分が持っているモノはあとに遺された子どもたちが処分するかどうか決めることになります。遺されたモノが多ければ多いほど手間がかかる。その労力を想像するだけで恐ろしい。

遺品の整理は、一つのビジネスになっています。遺族では手に負えないようなモノが残されているということです。

 

俳優の樹木希林さんは、亡くなる前にほぼすべてのモノを処分したそうです。

自分が死ぬ時には、子どもが必要なモノだけが残っている。これが理想だなあ。

早期退職後の生活 ~50代での生き甲斐の変化~

一昨年(令和4年)7月に前職を退職した後、昨年11月新たな職場に採用してもらいました。現在は、その職場で火曜日から金曜日、パートタイムで働いています。

 

現在の客観的な勤務条件は、給料は前職の4分の1程度、おそらく1カ月の支出のすべては賄えないくらいです。勤務時間は、火曜日から金曜日までの原則午後2時から5時まで(1日3時間程)で、仕事内容は小学生と直接関わる仕事です。

立ち仕事で体力的には消耗しますし、ストレスも小さくない。

 

 

現在の日本では、定年退職後の働き方としては、職場を変えることなく65歳くらいまで働き続けることが想定されています。給料は減るけれど、それまでのスキルを活かして年金支給の年齢まで働くことができる。

これからは、年金が足りない時代が来ることを考えて、65歳以上でも働けるようにするというのが国が考えている未来像です。

 

そういう国の施策に従っていれば、現在私が働いている職場より良い条件で働き続けることができます。給料が減ると言っても4分の1になることはないでしょう。だから、これからの日本では、従来の職場で働き続ける人が多数になることが予想されます。

もとの職場に留まっていれば安心して働き続けることはできるし、生活が激変するストレスもない。だから、多少なりとも給料は下がり、職場内で上司部下の関係が逆転し、役職定年で待遇も変わっても、もとの職場に留まり、安心安全な人生を歩む。不平不満を抱えながら。

 

でも、私は今「それはやめた方がいい。」と強く感じています。

ネット上の記事では、「中高年になって転職すると後悔する。」という記事が多く見られます。確かに、従来の職場で働き続けられれば、楽ですし、給料が減ると言っても、まあ半分にはならない。だから、我慢してそのまま同じ職場で働くことが推奨されます。中には、「どんなハラスメントまがいなことを経験しても、転職はさらに地獄。今の職場に絶対にしがみつくべきだ。」と言う人すらいる。

これらの記事の言うところも、「収入」という面から見たら、それなりの合理性はあります。また、現在の日本の労働市場がオワコンであることも、否定するつもりは全くありません。

 

それでも、収入面さえクリアできるのであれば、そういう人生は選ばない方がいいと思う(確保の仕方のモデルを示すことはこのブログの目的でもあります。)のです。

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厳しいことを言えば、不平不満を抱えるようになった時点で、「本当の意味で」組織から必要とされていないのです。「必要ないけど組織にぶら下がってもいいよ。」というのがこれからの社会が選択しようとしている経済構造のイメージだと思います。

 

 

多くの人は、会社などの組織と共に理想を追求する時期が過ぎると、人生の目的を見失い、社会の変化から取り残され、ただただお荷物になっていきます。そうならないためには、転職も一つの選択肢です。

ハラスメントなどに直面したら、人生というスケールで見たら、それはチャンスかもしれません。体調を崩してしまったら、嫌でもお荷物の仲間入りです。そこから、這い出すのは、それこそ容易なことではありません。思い切った決断を促す何かの啓示かもしれません。

 

 

新しい職場は、冒頭で述べたように理想郷からは、ほど遠いものです。

でも、「今でも前職にしがみついていたら。」と思うと、ぞっとします。間違いなく、体調を崩して、やる気を失っていたと思います。

違う職場で働くようになって2カ月ほど、思いのほか大変なことも多いですが、仕事や職場環境のせいで体調を崩すようなことはないだろうと思います。さらに、今まで経験したことのない職種で、良い意味で刺激を受けています。自分が変わっていることが実感できます。

 

こういう生活をしていて「いいな」と思うことは、自分自身が余裕を持ってポジティブに生きられるようになったことです。

現在は、「自分と関わる後進の人たちが人生を歩む際の、できれば模範、それが無理でも拠り所、あるいはたたき台」になれたらいいなと思っています。

それが、今の生きがいと言ってもいいかもしれない。

 

スポーツのスター選手のように、多くの人の「星」になることはできないかもしれないけれど、自分と関わる人の心の中の道しるべとなれたらいいなあ・・・そう夢想するようになりました。

さらに贅沢を言えば、自分の死後も、何人かの人の心の中に残って、人生の岐路で思い出してもらえるようになれたらいいなあ・・・と妄想は止まりません。

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早期退職後の生活 ~人生を豊かにする読書をする。~

前に働いていた職場では、時々刻々と仕事のメールが来ていて、1日休暇を取得すると数十件から百件くらいの未読メールが溜まっていました。これだけの量のメールを読むには、相当スピードを上げて読まなければなりませんでした。

メールの内容はオリジナルのメールの転送を繰り返したものでしたから、速く読もうとすれば、スクロールを素早く繰り返す必要もありました。散々スクロールしまっくった後の結論が、「再度連絡する。」ということも珍しくなかった。

ただ、仕事上のメールですから、時間をかけて読む時間は無いし、読んだところで結局大したことはわからないことと知りつつも、読まない訳にはいかない。

無駄の最たるものでした。

 

そういうことを繰り返していたことの弊害は大きかったと、今は思います。

退職後しばらくは、いろいろな本を読んでいても、自分が丁寧に文章を読むことができませんでした。じっくり読みたいと思っても、本の上を目が上滑りをしている感じです。じっくり読もうとしても、速く読みたくてイライラしてしまう。

だから、読書をしながら、深く考えたり、感じたりすることができませんでした。

ストーリーや筋を素早く理解することはできるのですが、内容をじっくり味わったり、自分のものになるまで関わったりすることができない。

 

ただ、読書自体は好きだったので、図書館や本屋さんでは必ず色々な本をチェックして、

本を読むこと自体は継続していました。

そんなことを続けていたら、退職後1年半くらい経った現在になって、やっと時間や手間をかけて読書できるようになってきました。再読することも苦にならなくなった。

 

速読が悪い訳ではありませんが、それだけだと困ります。

名著と言われる本には、読むこと自体にかなり骨の折れるものも多くあります。昔の本であれば言い回しも現在とは違うし、時代背景も考えながら読まなければならない。

新刊本でも、深い考察を要するものは、読むのに時間がかかります。

 

努力して時間をかけて読むことで、自分の考えが大きく変わることがあります。再読することで新たな発見があることも珍しくありません。

それが楽しい。

 

 

一時期「丁寧な暮らし」という言い回しが流行りました。

あわただしさに押し流されるように生活するのではなく、日々の家事など生活の一つ一つにきちんと向き合って暮らしていこうとするライフスタイルです。そういう生活には、日々の当たり前のことの中にも、新たな発見があったりする。

読書も、同じようなのではないかと思います。

忙しさから概要さえわかればいいという読み方ばかりをするのではなく、丁寧に読むことを実践することで、その本から様々なことを知ることができ、それが人生の深みを増すことに繋がる。

そうやって自分を変えていくことで、世の中の出来事に対する洞察も深まっていく。世の中の流れに付和雷同しなくなるし、一方的に人を憎むことも無くなる。

そういう経験が回りまわって、幸せな人生に繋がるんじゃないのかなあ・・・。

 

 

これまでは忙しさに押し流されて、じっくり本と関わることができませんでした。

じっくり読書をすること、これも、これからの楽しみです。

退職してよかったこと ~幸せな人生の後半戦~

一昨年(令和4年)に公務員生活を終わりにしました。辞めるまでの経緯や退職後に就職するまでのことなどを、このブログで書いてきました。退職して良かったと思うことはたくさんあります。

 

その一つが、生活がすごく刺激的になったことです。新たな職場に就職をしてから、大体2カ月程度ですが、はっきりとそう感じます。

現在の仕事の内容は、教育関係で子どもと直接接する仕事です。

給料は安いです(笑)。その割には大変です。ストレスも結構あります。

ネットの記事などで言う、「早期退職した人の末路」みたいな感じかもしれません(笑)。

 

他方で、人生の後半戦で、新たな体験をすることのメリットを強く感じています。

これまで全く経験のないような業界の仕事なので、本当に新たな気づきの連続です。いろいろなことができるようになっていくことの楽しみも感じます。

さらに、前職の経験が生きる場面が、間接的であるにしても、多くあります。

シニア世代ですから、これから現在の新たな組織で出世したり、もっと責任ある立場に就くことはないと思います。でも、責任ある立場の人が苦労している時に、サポートすることにもやりがいを感じます。

 

「転職をする時には、同じ業界でないと経験を活かせない」と多くの人が言いますが、うそだと思います。

 

例えば、子どもとコミュニケーションを取ろうとする時、大人は自分の知っていることや考えを伝えようと一生懸命になりますが、大人の言うことが子どもに伝わるとは限りません。むしろ、伝わる事の方が少ない。

ほんの2カ月ほどですが、子どもと関わってみて大切だと思うのは、「必要のないことは言わない」、「言うべきことは最小限の範囲で言う」ということでした。それを何回かやっていると、こちらの話を聞いてくれるようになってきます。

 

このノウハウは、クレーム対応と同じです。前職で数限りなくやってきたクレーム対応では、「言うべきことは言うけれど、必要のないことは言わない」ということでした。

さらに、この経験を通じて、このノウハウは、クレーマーとか子どもとかに限った話ではなく、どんな人との人間関係でも基本となることだと気づきました。

 

ほんの一例ですが、他にも、新たな発見をしたり、感動したり、感心したり、びっくりしたりすることがたくさんあります。

 

 

考えてみれば、社会的には年金の財源不足などから、長く働くことが奨励され、そのために同じ職場で働けるように定年延長などの政策が勧められています。

でも、同じ職場で働いていたら、こういう新たな刺激を受けることはなかったと思います。しかも、定年延長がされると給料が下がってモチベーションが下がります。仕事から受ける刺激はどんどん無くなるでしょう。

人によっては(多くの人は)、刺激を避けるようにさえ、なっていきます。そういう人を前の職場でたくさん見てきました。

 

 

精神科医和田秀樹先生も著書「80歳の壁」で、長く幸せに生きていくためのポイントとして「興味あることへの我慢をやめる」ということが重要だと書かれています。

現在の職業や生活に興味を失っているのであれば、どんどん新たなことに挑戦するのがいいのではないかと、強く感じています。

相応の準備は必要ですが、転職や退職も「新たなことへの挑戦」の一つだと思います。

 

確かに、私の現在の生活は、悪い面ばかりを見たら「退職した人の末路」のような状況なのかもしれません。

それでも、繰り返しになりますが、相応の準備をした上で、新たなことに挑戦して自分自身をアップデートしながら、良い面を見ていくメンタリティを鍛えて行けば、絶対に幸せな人生になる

今、そんな気がしています。

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早期退職後の生活 ~読書:読み方の変化、読書する場所はカフェ?自宅?~

退職する前、読書する時間すら取れず、「このままではいけない。」と思っていました。特に、朝の通勤中には「一番頭の冴える朝の時間なのに、疲れて電車で居眠りをしている。」とくよくよ考えていました。

だから、退職直後は、片っ端から、目につく本を読みました。1か月に50冊ペースでした。

 

それから1年半近くが経って、読書の楽しみ方が変わってきたような気がします。

読書自体を渇望していて、乱読しまくっていた頃と比べて、最近は、そういう読み方に少し疲れました。

だから、夏川章介さんの「本を守ろうとする猫の話」がすごく心に染みました。

今は、1冊1冊をじっくり読むようになってきました。多分、気持ちに余裕ができてきたからだと思います。今の生活になって、本当に良かった・・・。

 

 

 

読み方が変わるとともに、本を読む場所についても、変化がありました。

落ち着いて本を読める場所って、どこだろう。自宅?、カフェ?、図書館?・・・。

 

本を読む場所で大事なのは、

(1) 暑くも寒くもないこと(身体が気持ちいいと感じること)

(2) 人との距離が近すぎないところ

(3) 適度に人の目があるけれど、うるさくないところ

(4) 長居することをとがめられないところ

かな・・・。そんなことを考えていたら、同じようなことを、もっと深く掘り下げて考えておられる方もいました。

著者の阿久津隆さんは東京の初台にfuzukueというカフェを開いておられる方です。fuzukueは、私も何度か利用させていただいたことがあります。おひとり様限定カフェです。

本を読める飲食店というテーマをここまで深く掘り下げるのは、興味のない人にとってはどうでもいいことかもしれませんが(笑)、私は、衝撃的に面白かった。また、お店に伺わせていただこうと思っています。

 

 

仕事に忙殺されていた頃には、よくカフェへ行って読書をしていました。時間に追われていたので、カフェで読書と言ってもせいぜい15分程度でしたから、特に問題は無かった。

でも、腰を据えて長時間読書をしようとすると、カフェだと何となく店側の目が気になる。また、最近のカフェは、落ち着くことも集中することもできないくらい人との距離が近い。

同じことが「本を読める場所を求めて」では、さらに詳細に分析されていました。

 

だから、最近はカフェにはほとんど行かなくなりました(例外的に、落ち着けるカフェはありますが、・・・。一つはfuzukueです。)。

 

 

退職後、同時に考えたのは、図書館での読書でした。平日に行けるし、「なにしろ本を読むための場所だから、絶対いいはずだ」と考えました。フルタイムで仕事をしていた頃は、平日の図書館には行けなかった。空いている図書館に憧れの気持ちもありました。

でも、結論としては、図書館は諦めました。

なぜかと言うと、平日はお年寄りで満席状態だからです。席と席の間も近いし、なんだか老け込みそう(すみません。個人的な感じ方です。)。

 

結局、最近本を読むために使っているのは、

1 気持ちのいい緑のある公園

2 ビル街の無料のオープンエアスペース

3 自宅

4 例外的に落ち着けるカフェ

です。

 

意識した訳ではないのですが、4以外はすべて「無料」のスペース。

1,2は、真冬や真夏はダメですが、気持ちのいい気候の日であれば、本当にいいです。ビルの谷間の風の遮られる陽だまりのスペースでは、相当寒い時期でも読書できます。

コーヒーでも飲みながら、ベンチや芝生、備え付けの椅子に座って、じっくり読書にふけることもそうですが、そういう場所を見つけること自体も、楽しい。

 

自分でもちょっと意外だったのが、3の自宅での読書でした。

このブログでも以前の記事で書きましたが、ミニマムな生活を目指していたら、自宅が思いのほか居心地がよくなりました。すっきり片付いた机兼ダイニングテーブルで落ち着いて読書をすることができます。

ミニマム化の思わぬうれしい副産物でした。「適度な人の目」はないけれど、集中できます。

 

だから、街の混んだカフェの前を通っても、全然入る気がしません。自宅で、ゆっくり落ち着いた時間を過ごせることがわかっているから、カフェは素通りして、おいしいお菓子でも買って自宅に帰ります。

 

この記事を書いている今は真冬なので、もっぱら自宅でじっくり読書をしています(微笑)。

あと、新たに職場のそばにいい喫茶店を見つけました。