スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

早期退職後の生活 ~50代での生き甲斐の変化~

一昨年(令和4年)7月に前職を退職した後、昨年11月新たな職場に採用してもらいました。現在は、その職場で火曜日から金曜日、パートタイムで働いています。

 

現在の客観的な勤務条件は、給料は前職の4分の1程度、おそらく1カ月の支出のすべては賄えないくらいです。勤務時間は、火曜日から金曜日までの原則午後2時から5時まで(1日3時間程)で、仕事内容は小学生と直接関わる仕事です。

立ち仕事で体力的には消耗しますし、ストレスも小さくない。

 

 

現在の日本では、定年退職後の働き方としては、職場を変えることなく65歳くらいまで働き続けることが想定されています。給料は減るけれど、それまでのスキルを活かして年金支給の年齢まで働くことができる。

これからは、年金が足りない時代が来ることを考えて、65歳以上でも働けるようにするというのが国が考えている未来像です。

 

そういう国の施策に従っていれば、現在私が働いている職場より良い条件で働き続けることができます。給料が減ると言っても4分の1になることはないでしょう。だから、これからの日本では、従来の職場で働き続ける人が多数になることが予想されます。

もとの職場に留まっていれば安心して働き続けることはできるし、生活が激変するストレスもない。だから、多少なりとも給料は下がり、職場内で上司部下の関係が逆転し、役職定年で待遇も変わっても、もとの職場に留まり、安心安全な人生を歩む。不平不満を抱えながら。

 

でも、私は今「それはやめた方がいい。」と強く感じています。

ネット上の記事では、「中高年になって転職すると後悔する。」という記事が多く見られます。確かに、従来の職場で働き続けられれば、楽ですし、給料が減ると言っても、まあ半分にはならない。だから、我慢してそのまま同じ職場で働くことが推奨されます。中には、「どんなハラスメントまがいなことを経験しても、転職はさらに地獄。今の職場に絶対にしがみつくべきだ。」と言う人すらいる。

これらの記事の言うところも、「収入」という面から見たら、それなりの合理性はあります。また、現在の日本の労働市場がオワコンであることも、否定するつもりは全くありません。

 

それでも、収入面さえクリアできるのであれば、そういう人生は選ばない方がいいと思う(確保の仕方のモデルを示すことはこのブログの目的でもあります。)のです。

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厳しいことを言えば、不平不満を抱えるようになった時点で、「本当の意味で」組織から必要とされていないのです。「必要ないけど組織にぶら下がってもいいよ。」というのがこれからの社会が選択しようとしている経済構造のイメージだと思います。

 

 

多くの人は、会社などの組織と共に理想を追求する時期が過ぎると、人生の目的を見失い、社会の変化から取り残され、ただただお荷物になっていきます。そうならないためには、転職も一つの選択肢です。

ハラスメントなどに直面したら、人生というスケールで見たら、それはチャンスかもしれません。体調を崩してしまったら、嫌でもお荷物の仲間入りです。そこから、這い出すのは、それこそ容易なことではありません。思い切った決断を促す何かの啓示かもしれません。

 

 

新しい職場は、冒頭で述べたように理想郷からは、ほど遠いものです。

でも、「今でも前職にしがみついていたら。」と思うと、ぞっとします。間違いなく、体調を崩して、やる気を失っていたと思います。

違う職場で働くようになって2カ月ほど、思いのほか大変なことも多いですが、仕事や職場環境のせいで体調を崩すようなことはないだろうと思います。さらに、今まで経験したことのない職種で、良い意味で刺激を受けています。自分が変わっていることが実感できます。

 

こういう生活をしていて「いいな」と思うことは、自分自身が余裕を持ってポジティブに生きられるようになったことです。

現在は、「自分と関わる後進の人たちが人生を歩む際の、できれば模範、それが無理でも拠り所、あるいはたたき台」になれたらいいなと思っています。

それが、今の生きがいと言ってもいいかもしれない。

 

スポーツのスター選手のように、多くの人の「星」になることはできないかもしれないけれど、自分と関わる人の心の中の道しるべとなれたらいいなあ・・・そう夢想するようになりました。

さらに贅沢を言えば、自分の死後も、何人かの人の心の中に残って、人生の岐路で思い出してもらえるようになれたらいいなあ・・・と妄想は止まりません。

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早期退職後の生活 ~人生を豊かにする読書をする。~

前に働いていた職場では、時々刻々と仕事のメールが来ていて、1日休暇を取得すると数十件から百件くらいの未読メールが溜まっていました。これだけの量のメールを読むには、相当スピードを上げて読まなければなりませんでした。

メールの内容はオリジナルのメールの転送を繰り返したものでしたから、速く読もうとすれば、スクロールを素早く繰り返す必要もありました。散々スクロールしまっくった後の結論が、「再度連絡する。」ということも珍しくなかった。

ただ、仕事上のメールですから、時間をかけて読む時間は無いし、読んだところで結局大したことはわからないことと知りつつも、読まない訳にはいかない。

無駄の最たるものでした。

 

そういうことを繰り返していたことの弊害は大きかったと、今は思います。

退職後しばらくは、いろいろな本を読んでいても、自分が丁寧に文章を読むことができませんでした。じっくり読みたいと思っても、本の上を目が上滑りをしている感じです。じっくり読もうとしても、速く読みたくてイライラしてしまう。

だから、読書をしながら、深く考えたり、感じたりすることができませんでした。

ストーリーや筋を素早く理解することはできるのですが、内容をじっくり味わったり、自分のものになるまで関わったりすることができない。

 

ただ、読書自体は好きだったので、図書館や本屋さんでは必ず色々な本をチェックして、

本を読むこと自体は継続していました。

そんなことを続けていたら、退職後1年半くらい経った現在になって、やっと時間や手間をかけて読書できるようになってきました。再読することも苦にならなくなった。

 

速読が悪い訳ではありませんが、それだけだと困ります。

名著と言われる本には、読むこと自体にかなり骨の折れるものも多くあります。昔の本であれば言い回しも現在とは違うし、時代背景も考えながら読まなければならない。

新刊本でも、深い考察を要するものは、読むのに時間がかかります。

 

努力して時間をかけて読むことで、自分の考えが大きく変わることがあります。再読することで新たな発見があることも珍しくありません。

それが楽しい。

 

 

一時期「丁寧な暮らし」という言い回しが流行りました。

あわただしさに押し流されるように生活するのではなく、日々の家事など生活の一つ一つにきちんと向き合って暮らしていこうとするライフスタイルです。そういう生活には、日々の当たり前のことの中にも、新たな発見があったりする。

読書も、同じようなのではないかと思います。

忙しさから概要さえわかればいいという読み方ばかりをするのではなく、丁寧に読むことを実践することで、その本から様々なことを知ることができ、それが人生の深みを増すことに繋がる。

そうやって自分を変えていくことで、世の中の出来事に対する洞察も深まっていく。世の中の流れに付和雷同しなくなるし、一方的に人を憎むことも無くなる。

そういう経験が回りまわって、幸せな人生に繋がるんじゃないのかなあ・・・。

 

 

これまでは忙しさに押し流されて、じっくり本と関わることができませんでした。

じっくり読書をすること、これも、これからの楽しみです。

退職してよかったこと ~幸せな人生の後半戦~

一昨年(令和4年)に公務員生活を終わりにしました。辞めるまでの経緯や退職後に就職するまでのことなどを、このブログで書いてきました。退職して良かったと思うことはたくさんあります。

 

その一つが、生活がすごく刺激的になったことです。新たな職場に就職をしてから、大体2カ月程度ですが、はっきりとそう感じます。

現在の仕事の内容は、教育関係で子どもと直接接する仕事です。

給料は安いです(笑)。その割には大変です。ストレスも結構あります。

ネットの記事などで言う、「早期退職した人の末路」みたいな感じかもしれません(笑)。

 

他方で、人生の後半戦で、新たな体験をすることのメリットを強く感じています。

これまで全く経験のないような業界の仕事なので、本当に新たな気づきの連続です。いろいろなことができるようになっていくことの楽しみも感じます。

さらに、前職の経験が生きる場面が、間接的であるにしても、多くあります。

シニア世代ですから、これから現在の新たな組織で出世したり、もっと責任ある立場に就くことはないと思います。でも、責任ある立場の人が苦労している時に、サポートすることにもやりがいを感じます。

 

「転職をする時には、同じ業界でないと経験を活かせない」と多くの人が言いますが、うそだと思います。

 

例えば、子どもとコミュニケーションを取ろうとする時、大人は自分の知っていることや考えを伝えようと一生懸命になりますが、大人の言うことが子どもに伝わるとは限りません。むしろ、伝わる事の方が少ない。

ほんの2カ月ほどですが、子どもと関わってみて大切だと思うのは、「必要のないことは言わない」、「言うべきことは最小限の範囲で言う」ということでした。それを何回かやっていると、こちらの話を聞いてくれるようになってきます。

 

このノウハウは、クレーム対応と同じです。前職で数限りなくやってきたクレーム対応では、「言うべきことは言うけれど、必要のないことは言わない」ということでした。

さらに、この経験を通じて、このノウハウは、クレーマーとか子どもとかに限った話ではなく、どんな人との人間関係でも基本となることだと気づきました。

 

ほんの一例ですが、他にも、新たな発見をしたり、感動したり、感心したり、びっくりしたりすることがたくさんあります。

 

 

考えてみれば、社会的には年金の財源不足などから、長く働くことが奨励され、そのために同じ職場で働けるように定年延長などの政策が勧められています。

でも、同じ職場で働いていたら、こういう新たな刺激を受けることはなかったと思います。しかも、定年延長がされると給料が下がってモチベーションが下がります。仕事から受ける刺激はどんどん無くなるでしょう。

人によっては(多くの人は)、刺激を避けるようにさえ、なっていきます。そういう人を前の職場でたくさん見てきました。

 

 

精神科医和田秀樹先生も著書「80歳の壁」で、長く幸せに生きていくためのポイントとして「興味あることへの我慢をやめる」ということが重要だと書かれています。

現在の職業や生活に興味を失っているのであれば、どんどん新たなことに挑戦するのがいいのではないかと、強く感じています。

相応の準備は必要ですが、転職や退職も「新たなことへの挑戦」の一つだと思います。

 

確かに、私の現在の生活は、悪い面ばかりを見たら「退職した人の末路」のような状況なのかもしれません。

それでも、繰り返しになりますが、相応の準備をした上で、新たなことに挑戦して自分自身をアップデートしながら、良い面を見ていくメンタリティを鍛えて行けば、絶対に幸せな人生になる

今、そんな気がしています。

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早期退職後の生活 ~読書:読み方の変化、読書する場所はカフェ?自宅?~

退職する前、読書する時間すら取れず、「このままではいけない。」と思っていました。特に、朝の通勤中には「一番頭の冴える朝の時間なのに、疲れて電車で居眠りをしている。」とくよくよ考えていました。

だから、退職直後は、片っ端から、目につく本を読みました。1か月に50冊ペースでした。

 

それから1年半近くが経って、読書の楽しみ方が変わってきたような気がします。

読書自体を渇望していて、乱読しまくっていた頃と比べて、最近は、そういう読み方に少し疲れました。

だから、夏川章介さんの「本を守ろうとする猫の話」がすごく心に染みました。

今は、1冊1冊をじっくり読むようになってきました。多分、気持ちに余裕ができてきたからだと思います。今の生活になって、本当に良かった・・・。

 

 

 

読み方が変わるとともに、本を読む場所についても、変化がありました。

落ち着いて本を読める場所って、どこだろう。自宅?、カフェ?、図書館?・・・。

 

本を読む場所で大事なのは、

(1) 暑くも寒くもないこと(身体が気持ちいいと感じること)

(2) 人との距離が近すぎないところ

(3) 適度に人の目があるけれど、うるさくないところ

(4) 長居することをとがめられないところ

かな・・・。そんなことを考えていたら、同じようなことを、もっと深く掘り下げて考えておられる方もいました。

著者の阿久津隆さんは東京の初台にfuzukueというカフェを開いておられる方です。fuzukueは、私も何度か利用させていただいたことがあります。おひとり様限定カフェです。

本を読める飲食店というテーマをここまで深く掘り下げるのは、興味のない人にとってはどうでもいいことかもしれませんが(笑)、私は、衝撃的に面白かった。また、お店に伺わせていただこうと思っています。

 

 

仕事に忙殺されていた頃には、よくカフェへ行って読書をしていました。時間に追われていたので、カフェで読書と言ってもせいぜい15分程度でしたから、特に問題は無かった。

でも、腰を据えて長時間読書をしようとすると、カフェだと何となく店側の目が気になる。また、最近のカフェは、落ち着くことも集中することもできないくらい人との距離が近い。

同じことが「本を読める場所を求めて」では、さらに詳細に分析されていました。

 

だから、最近はカフェにはほとんど行かなくなりました(例外的に、落ち着けるカフェはありますが、・・・。一つはfuzukueです。)。

 

 

退職後、同時に考えたのは、図書館での読書でした。平日に行けるし、「なにしろ本を読むための場所だから、絶対いいはずだ」と考えました。フルタイムで仕事をしていた頃は、平日の図書館には行けなかった。空いている図書館に憧れの気持ちもありました。

でも、結論としては、図書館は諦めました。

なぜかと言うと、平日はお年寄りで満席状態だからです。席と席の間も近いし、なんだか老け込みそう(すみません。個人的な感じ方です。)。

 

結局、最近本を読むために使っているのは、

1 気持ちのいい緑のある公園

2 ビル街の無料のオープンエアスペース

3 自宅

4 例外的に落ち着けるカフェ

です。

 

意識した訳ではないのですが、4以外はすべて「無料」のスペース。

1,2は、真冬や真夏はダメですが、気持ちのいい気候の日であれば、本当にいいです。ビルの谷間の風の遮られる陽だまりのスペースでは、相当寒い時期でも読書できます。

コーヒーでも飲みながら、ベンチや芝生、備え付けの椅子に座って、じっくり読書にふけることもそうですが、そういう場所を見つけること自体も、楽しい。

 

自分でもちょっと意外だったのが、3の自宅での読書でした。

このブログでも以前の記事で書きましたが、ミニマムな生活を目指していたら、自宅が思いのほか居心地がよくなりました。すっきり片付いた机兼ダイニングテーブルで落ち着いて読書をすることができます。

ミニマム化の思わぬうれしい副産物でした。「適度な人の目」はないけれど、集中できます。

 

だから、街の混んだカフェの前を通っても、全然入る気がしません。自宅で、ゆっくり落ち着いた時間を過ごせることがわかっているから、カフェは素通りして、おいしいお菓子でも買って自宅に帰ります。

 

この記事を書いている今は真冬なので、もっぱら自宅でじっくり読書をしています(微笑)。

あと、新たに職場のそばにいい喫茶店を見つけました。

(コラム)「人間の市場価値」という言い方について ~日本の労働市場における市場価値とは何か~

仕事探しをしていると「公務員には市場価値がない」という表現をよく見かけます。

 

採用担当者から見て、営業とか経理とかのエキスパートではない元公務員が即戦力にならないというのは、実感としてよくわかります。私も、いきなり営業をやってみろと言われても無理です。素直にそう思います。

 

でも、他方で、民間の会社で働いていた人ならば、「即戦力」になれるのでしょうか。そういう訳ではないとも思います。

民間で働いていたというだけで市場価値があるわけではなく、同じ業界で働いていて、同じ仕事をした経験がないと、市場価値はない。現在の日本の労働市場では、そう考えられています。

公務員だろうが民間出身だろうが、同じ仕事をしたことがなければ市場価値はないのです。

「市場価値」と言われて、一生懸命考えてみましたが、実際に求職活動をしてみてわかったのは、ただそれだけのことです。

 

 

公務員として働いていた頃、新人の教育担当の役割を割り当てられることが多かったのですが、その時、感じたことがあります。

プロとして仕事ができるようになるかどうかは、最初の印象とはかなり違うことが多いです。

専門分野について大学などで学び、採用試験をいい成績で突破してきた新人は、能力が高いのは事実です。その能力を基に更に経験を積んで一人前になるのが理想です。

でも、他方で、採用試験の成績はぱっとしないけれど、配属された後、ガッツがあり先輩の指導に食い下がるような新人もいました。いわゆる「叩けば伸びる」タイプです。

 

叩けば伸びるタイプは、専門性や試験の知識などは、その時点では今一つなのですが、配属されれば部署に馴染む能力が高く、専門性がないが故の視野の広さを持っている場合があります。新人の教育の場面で、「叩けば伸びる」タイプを伸ばすことができれば、職場の大きな戦力になります。

 

組織としては、専門性もあって知識もある人材がほしいという本音はわかります。そういう人は得難い人材です。ただ、それだけでやっていけるのかどうかは、私は、常に疑問に思っていました。特に大きな組織を維持していこう思えば、一見、即戦力とは言えない人、言い換えれば「市場価値のない」人を、化けるようにすることが人材育成において、実は重視されるべき点なのではないかと考えていました。

でも、残念ながら、こういう意見は私の勤めていた職場では採用されませんでした。

 

 

これは、おそらく私が勤めていた組織以外でも、同じなのではないかという気がしています。人材を育てるという意識もノウハウもない。

 

人間の「市場価値」というのは、とても嫌な言葉です。

「市場価値があるかどうか」は、採用サイドの都合のいい「ものさし」に過ぎません。私はそう感じます。

 

経験者以外は市場価値がないという人事担当者の偏狭な姿勢の方が、今の日本社会にとっては、大きな問題です。ある程度の時間をかけて人材を育成するノウハウはないし、面倒だから「即戦力」を求める。このことの弊害は、とても大きいと思います。

失われた30年の原因は、ここにもあります。

 

その業界の経験のある即戦力しか採用しないという偏狭な態度が許容されている日本では、違う世界に飛び込むことは奨励されませんから、結局、同じ業界、同じ企業に居続けるしかありません。

職業選択の自由だとか、個人の幸福追求の権利だとかいう理念とは対極の、江戸時代さながらの閉鎖的な社会です(江戸時代に対して失礼か?)。

 

 

ネット上の記事を見てみるとよくわかります。中高年、公務員、就職氷河期に正社員になれなかった人、つまりスキルのない人、・・・そういう人たちには「市場価値」がないと書かれています。しかも、それは本人のせいだとまで書かれている記事が多くあります。

たいていは人事コンサルタントとか大企業の人事担当者などの書いたもののようです。

 

一度、謙虚になって、どうしたら多くの人の能力を活かして、社会全体として発展していくことができるのかを考えるべきだと思います。そういう世の中にならないと、まだまだ日本の社会は「失われる」ことになると思います。

 

 

 

自分の正しさの枠で人を理解する危険性 ~「あなたはかわいそうな人」という決めつけ~

本屋大賞などでベストセラーになっている本、人気のドラマ・・・。最近、扱われる主題に共通するものがあるような気がします。

自分は「正しい」と信じて疑わない人のものの見方の危うさを扱っていることです。

 

当然のことながら、自分自身を含め人は、自分の価値観を通してしか人を見ることはできません。完全な客観性を備えた人間はいない。「正しさという仮面」のフィルターを通してしか物事を見るしかない。

でも、「もしかしたら自分の価値観を通した見方は間違えているのかもしれない」と留保した上で理解しようとすることは可能なはずです。

 

 

松岡茉優さん主演の「最高の教師」というドラマでは、「自分の価値観」を人に押し付ける大多数のクラスメートが、無自覚に人を傷つける姿が題材となっていました。

 

凪良ゆうさんの「流浪の月」(本屋大賞の受賞作)では、「自分の善意」で人を理解したつもりになって、そのために人を傷つける残酷さが描かれました。

自分の価値観で「あなたはかわいそうな人」として勝手に善意で事実を捻じ曲げる人たち。自分が人を傷つけているなど、思いもよらない人たちがたくさん出てきます。

 

また、このブログでも書いたことがあります。ハラスメントをする人の多くは自分を被害者だと思っています。彼ら(彼女ら)の正しさのフィルターを通すと、そのハラスメント行為も正当な行為ということになります。

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人は「自分の正しさ」という価値観を通して外界を認識し、多くの間違いを犯します。

 

ここ1年の私の経験でも、自分の中にある枠組みや価値観(多くは、自分の経験やメディアから吹き込まれた枠組みや価値観)でしか、物事を理解しようとしない人に多く出会いました。

求職活動をしていて様子を聞かれた際に、「労働市場は厳しい。」という話をすると、活動の仕方が甘いとか、退職したことの是非とかについて説教をいただきました。

多くは、「会社勤めや公務員などは恵まれていて、そういう仕事を辞めるべきではない」、「自分の市場価値も知らずに仕事を辞めて苦労しても、それは自分が悪い」という偏見から、仕事を辞めたと聞いた瞬間に「そういう人」と認識し、客観的な状況を説明しようとしても、説明すらできない。聞いてもらえない。

「もう。いいや。」って何度も思いました。 

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でも、気づいたことがあります。

自分自身、「なんだ。この人も仮面の人か。」と思ったのですが、そう思うこと自体が自分の「正しさという仮面をかぶって」、人を見ている。本当に注意していても、そうなってしまう。

その人は違うかもしれない、今回は違うかもしれない。そう思って対処できるよう気を付けようと思いました。

 

更に、これまで、そういう風に人を理解したつもりになっていたのかもしれない。

勝手に「あなたはかわいそうな人」、「あなたはダメな人」と決めつけたこともあったのではないか?自分の価値観で人をジャッジしてしまったことも、おそらく多い。

 

退職して、考える時間ができて、初めて明確に意識できたことです。これからは、できる限り気を付けて生きていきたいと思います。そうしたら、新たな幸せな気づきもあるんじゃないか?

現在、本やドラマからも、多くを学んでいるところです。

優しさについて ~「正しさ」という仮面をかぶらないこと~

「優しい」ってどういうことか?深く考えてみたことはありませんでした。

最近は、自分の時間もできて、いろいろなことを徒然に考えることができるようになりました。

 

「厳しくないこと」、「意地悪ではないこと」というように否定形では定義は簡単なんですけど、積極的に何が優しさなのかというとイマイチわからない。

今まで、何となく「人に厳しくなく」、「意地悪せず」生きようと思って生きてきました。でも、それだけで優しいと言えるのか?

 

経験的に、「優しくないこと」の例として真っ先に思い浮かぶのが、「正しさを人に押し付けること」。

仕事をしていて「これが正しい」という仕事のやり方が組織から示されると、それにそぐわない人は、排斥される。更に、正しくない人を排斥しない人も、排斥される。いじめも同じ構図です。

当時から思っていましたけど、正しさなんて相対的なもので、時代が変われば簡単に変わってしまう。それなのに、人が間違うことや、仕事ができないことが正しくないと言って、排斥して、結局、組織の効率すら落としてしまう。

 

具体的な例(ほんの一例)として言えば、職場に入って来る新人の中には、仕事に馴染もうとがんばっても、空回りして失敗してしまう人が、どうしてもいます。そういう時に、それを悪いこととして注意したり、努力が足りないとか言う上司や先輩が多くいました。

多かれ少なかれ自分だってそうだっただろうし、誰だってできないことや間違うことはあるのに。

だからと言って、できない人を庇うと、それも排斥される。「おまえが甘いから、できるようにならないんだ。」と随分言われました。

こんな風に、画一的な「正しさ」を押し付けることが、今の社会では頻繁に行われています。

 

その辺を見渡せば、例は無限に転がっています。

 

なぜこんなことになるのか?

それを考えることが「優しさ」とは何かを考える一つの手がかりになるのではないかと思います。

「正しさ」を押し付けるのは、正しくないと自分が定義するものへの本質的な不安があるからではないでしょうか。

皆、自分は正しいと考えるから、自分と同じではないものへの不安と言ってもいい。自分と違うものを排斥しようとする。

自分が仕事を頑張っているのに同じように頑張らない人、できない人、間違う人を見て、「なんだあいつ」と思う。

逆もあるでしょう。自分よりもできる人、才能がある人を見て、その人の正しくないところを何とか見つけようとする。

そういう場面でなくても、自分と違うものを排斥しようとするのは、人間の本質と言ってもいいと思う。LGBTQとかが社会的に問題になるのも、根は同じです。自分と異なるものを排斥しなければ、こんなこと問題にもならない。

 

結局、優しさというのは、自分とは違うものに自分と同じであることを強要しないことなんじゃないかと思います。

あ!でも、やっぱり否定形になってしまいました。

否定形でないように表現してみると、優しさとは積極的に賛成でなくても、自分と違うものを見た時に、「そういう生き方、やり方、考え方・・・もあるかな」、「そういう人もいても仕方がないかな」と考える心の余裕ではないかと思います。

 

「正しさ」は自分の偏狭さを隠す仮面です。

だから、「正しい」ことを声高に叫ぶ人には、注意した方がいい。

だから、自分自身「正しさ」が気になる時には、注意した方がいい。