スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

「王様は裸だ!」と叫ぶことの危険性について ~「王様は裸だ」という声が黙殺される日本~

「裸の王様」という童話は誰でも知っていると思います。

「裸の王様」という芥川賞を取った小説はご存じですか?

 

開高健の小説です。テーマは童話と特に違うところはありません。

でも、現代社会について考えさせられます。随分前の小説ですが、今の社会に通用する問題提起がされています。

 

 

どんな時代でも、どんな社会でも、「裸の王様」と「それに追従する取り巻き」は存在します。

ヒトラーとその取り巻きもそうだったのだと思います。現代日本の組織のトップとその取り巻きも、おそらく大多数がそうです。

ただ、そのこと自体は問題ではあるけれど、現実はそういうものです。

 

 

よく考えてみると、王様が裸であること言うためには、その人が言っても報復など危険な目に遭わない人であること、そういう人が適切なタイミングで「王様は裸だ」と言うことが必要です。

王様の取り巻きが「王様は裸だ」とテキトーな時に無防備に呟いたりしたら大変なことになるでしょう。

だから、重要なのか

(1) 「王様は裸だ!」と言うことのできる人がそう言うこと

(2) 「王様は裸」という事実を絶妙のタイミングで言うこと

です。

 

 

例えば、ジャニー喜多川が裸の王様で、少年に性加害をしてもいいと思っている。周囲は、気づいているけれど言わない。

気づいたのになぜ言わなかったのか?とメディアは大騒ぎです。でも、気づいていたからと言って、当時、本当に言えたのでしょうか?

また、そのことをきちんと取り上げるような社会だったでしょうか。

 

働き方改革で残業はしない方がいいと言われて、組織の幹部は残業禁止と声高に言っています。彼らは裸の王様です。ただ残業を禁止しただけで組織がうまく行くわけはない。

でも、だからと言って、現場の人が、今の働き方改革は間違っていると言えるでしょうか?

言ったら、どこかでそれが取り上げられ、改善に繋がるでしょうか?

 

パワハラは怪しからんと言います。でも、組織のトップでパワハラをしている人は今でもいるのではありませんか?私の元職場のトップもパワハラをしていたと思いますが、今なお安泰で、トップの座にいます。

周囲も気づいていると思いますが、言い出せません。

言ったら、自分が不利益を受けないと言えるでしょうか?

 

 

 

こういうことを踏まえて、どうしたらよかったのかを検証することが大切です。

 

裸の王様であることを指摘する人、童話ではパレードを見ていた子どもです。パレードという誰しも自由に事実を受け入れられる状況で、「王様が裸だ」という真実を明らかにします。

 

ジャニー喜多川の性加害問題では、過去に何度か週刊誌などですっぱ抜かれています。

でも、世の中は何の反応もしなかった。加害者は、状況が忘れられるのを待っていました。そして忘れ去られた。

 

ジャニーズ問題でも、働き方改革パワハラ問題でも、すべて構図は同じです。指摘しても反応する人がいない。せっかく問題が表に出てきても、それを契機に事態を改善させることができない。

 

 

他方で、外国のメディアが取り上げ、国連から指摘されたら、急に問題が大きくなりました。週刊誌ではダメだったけれど、外国メディアなら問題が取り上げられたら問題が大きくなった。

その理由は何なのか?ここが本質的な問題です。

 

日本では、こういうこと、つまり、問題が明らかになったのに社会的に問題を解決していけなかった理由を議論することがありません。

声が挙がっていたのにそれが取り上げられなかった理由よりも、声を挙げなかった人を、後から、後出しじゃんけんで吊るし上げて終わりです。

 

結局、これからも「王様は裸だ!」という声を聞いた時、誰も何もせずに終わる社会が続くことになります。日本社会のあらゆるところで、声が聞こえても黙殺するような構造や組織が温存されています。

 

これでは、未来永劫、同じことが繰り返されるだけだと思います。

 

 

正義と優しさ ~正しいことよりも優しいことを求める人生観~

現代日本で、「まねしたい人」とか「尊敬する人」のモデルとなるような人、思いつきますか?

スポーツとか芸能とか一芸に秀でた人ですか?

現在、有名な人、野球の大谷翔平、アナウンサーの水卜麻美、将棋の藤井聡太などメディアで祭り上げられている人がいます。それぞれ、本当にすごい人たちだと思います。

でも、こういう人になれるでしょうか?

 

こういう人になるには多大な努力や運に恵まれる必要があることに加えて、メディアやネットは執拗に粗さがしをして、少しでも突っ込みどころがあれば、大騒ぎをしようと虎視眈々としている。

だから、こういう各界のスターを目標にする人は、今は少ない。

 

そのため、どうせ一流になれないのであれば、それを目指すのではなく、粗さがしをして溜飲を下げようとする。

正義の鉄槌を下したいという欲求が、社会で膨張しています。

「何か間違いはないか?」、「間違っている人間はいないか?」、「倫理的に批判の対象になる奴はいないか?」・・・と血眼になっている。

きりがないので例は挙げません。

 

 

でも、思うんですが、一流になれなくても、人を批判するのではなく、例えば「優しい人になる」という目標を掲げてみてはどうか?

そして、折に触れて、「優しい」とはどういうことか、と考える。

誰だって間違えを犯しますから、間違えた人間を見て、「何とか救えないか。」とか「そんなに気にするような間違いなのか。」とか「間違えるのは自然なことなのではないか。」とか「いい面だってあるのではないか。」とか考えるようにした方がいい。

 

今、世間で批判されている人を優しい視点で見ることは間違っているでしょうか??

 

それが、「多様性を受け入れる」ということに繋がるのではないか、と思ったりもします。

声高に、LGBTwとかダイバーシティとか言っていますけど、結局、自分が正しいとか正義だと思っていることから外れている人を、どれだけ受け入れることができるかということじゃないでしょうか。

 

頑なな倫理観にしがみついて、その倫理観に沿わない人を許さない。そういう態度が「社会正義の実現」を希求し、「正しくないこと」を排斥しようとして、正義を標榜した戦争やいじめ、様々な社会問題を作ってきたことに、そろそろ気づいてもいいのではないかと思うのです。

狭い倫理観にしがみついていると、その倫理観に沿わない人が許せず、その倫理観を守っている「自分だけが損をしている。」、「自分は被害者だ。」と思うようになります。

 

「間違えない人」が好きですか?

そんな人はいません。

でも、日本の今の社会は、間違えないことが至上命題です。一度でも間違えたら、執拗に批判され、晒され、叩かれます。

 

でも、私は、間違えたけど、その上で頑張ろうとしている人が好きです。今まで間違えたことのない人よりも、間違えから学び、それを糧として前を向いて人生を生きようとしている人が好きです。

間違えたことの自覚がある人の方が、自分の人生を歩む際に、多くのことを受け入れ感謝して生きてゆけると思います。自分自身、間違いも人生の一部だと思って、そのことも受け入れて人生を歩んでいけたらいいなと思います。

 

一人でもいいですか? ~人生の後半戦を楽しく生き抜く人~

ネットには「仕事を辞めた人の末路」というような記事が多くあります。

人生をやり直そうと仕事を辞めてみたら、お金に苦労して後悔したとか、人間関係が最悪だったとか、生活に張り合いが無くなった・・・などのことが書かれていて、結論としては「どんなに辛くても仕事は辞めない方がいい」と結んでいます。

 

私は、こういう記事には反対です。

仕事を辞めたら、確かに退職後にお金、人間関係、人生などの問題点に直面することになることは否定しません。でも、それを考えたとしても、現状が酷い状態で辞めないと体を壊してしまうようであれば、仕事を辞めるべきだと思います。

辞めた時のリスクを過剰に煽って、しかもそのリスクは回避不可能という記事を垂れ流すのは無責任です。

 

 

でも、他方で、確かに辞めたら後悔するであろうと予測できる人もいます。

誰かに依存して、楽しませてもらったり、相手をしてもらわないと楽しくない、あるいは人と関わっていないと寂しい・・・という人。言葉を変えて言えば、自分の人生を他人に任せることが楽だと感じている人。組織に長くいて、人にお膳立てしてもらうことに慣れ切っている人も気を付けた方がいい。

 

このブログでも再三書いてきたとおり、日本の労働市場や経済は完全に行き詰まっており、問題だらけなので、会社員や公務員として組織にぶら下がっていた方が楽だというのは、様々なネット上の記事が指摘するとおりですから、辞めたら確実に苦労します。

 

 

でも、苦労したとしても自分の人生に自分で責任を持ちたい人、自分で自分を楽しませるメンタリティを持っている人は、仕事を辞めても大丈夫だと私は思います。言い換えれば、人に楽をさせてもらおうと特に思わない人。例えば、本を読んでいれば満足な人、一人旅が好きな人、1日人と話さなくても特に問題を感じない人など1人をいとわない人は、辞めても何とかなる可能性が高い。

また、人から何かをしてもらうよりも、人に何かをしてあげたいという人。例えば、自分から声をかけて飲み会をセッティングすることが苦でない人、人にサービスをすることが好きで人から声をかけられる人、謙虚に人と接することができる人などは、現在所属している職場を辞めても、退職後の人生を自分で構築できる可能性が高い。

現在所属している職場と同条件を求めても無理だとは思いますが、自分が置かれた状況を前提にどういう準備をして何をしたらいいのかをその都度試行錯誤していけばいい。

 

退職して、そういうキャラクターに自分を寄せていける人は大丈夫です。

苦労はするけれど、楽しい(楽ではなく)人生が待っていると思います。

 

 

退職後は、国や社会、組織はレールを敷いてくれません。いえ、敷いてくれてはいますが、不満に溢れて一生を送ることになる。

だから、組織に所属することを人生の中心に持ってくるべきではありません。それ以外のことで、「1人で」あるいは「自分が人を巻き込んで」、楽しむものがあれば、よい人生を送れると思います。

 

 

そういうことができる人には、このブログの「退職から人生再建へのモデル」というカテゴリーに分類した記事に書いたような準備を周到にした上で、退職することをお薦めします。

 

理想の生活とは ~夫婦共働きフルタイム勤務は当たり前か?~

「週5日勤務で夫婦共働き、仕事と家事それに子育ての両立」これって、理想の生活ですか?

 

国などは美辞麗句を並べますが、今の日本は本質的には経済が傾いていて労働力も不足しているから働き手を増やしたい。だから、女性やシニア世代にも「働くことは良いこと」というイメージ操作がされています。

若者たちの多くも共働きで子育てをしています。

でも、「大丈夫ですか?」と聞きたいです。

 

 

夫婦共働きというだけで、生活の時間の大部分を削られます。それにプラスして家事や育児ってできるんでしょうか。本当に素朴な疑問です。

日本では、夫婦で働かないと生活が立ち行かないような社会になっています。

経済的には夫婦ともに正社員であることが理想です。でも、夫婦で正社員、通常は週5日勤務ということになれば、家事をする時間、育児をする時間なんて取れないのではありませんか?ましてや自分の時間なんて夢のまた夢。

じゃあ、夫婦のどちらかあるいは両方が、パートタイムなど時間が短い仕事ならばいいのかというと、そんなことある訳がない。私も最近就職活動をしたのでよくわかりますが、パートタイム、アルバイトの職はほぼ最低賃金のレベルです。時間単価が低いのに、短い時間しか働かなかったら、生活が立ち行きません。

 

結論を言えば、現在の日本社会では、夫婦共働きをしないと暮らしていけないけれど、共働き家庭では家事にも育児にも手が回らない。

 

余談ですが、「男性の協力が得られないから女性が苦労する」という問題を矮小化した言説が目に付きます。木を見て森を見ずとは、このことです。社会的な観点から見れば、そいう問題ではない。

 

 

ここまでは現状分析ですが、では、どうしたらいいのかを考えなければならないと思います。

こういう社会の構造を前提にすると、暗澹たる気持ちになりますが、個人でできることを考えてみたいと思います。個人でやることですから、これをやれば絶対大丈夫!!というようなウルトラC(死語?)のようなことではありません。

でも、基本的な考え方として、この方法かな・・と思っています。

 

1 生活をミニマルにする。

個人個人で考え方もあるし、程度の問題もありますが、少しでも経済的、時間的に余裕を作ろうと思えば、この方法だと思います。

とにかく無駄を削りまくる事が重要で、そうすると支出が削られ、時間にも余裕ができます。加えて、精神的にも充実した生活に近づきます。

ここで詳細は語りませんので、多くのミニマリストの方の発信されている情報を見てみてください。程度はいろいろありますが、ゆるくてもミニマリスト的な発想を持って日々を過ごせたら相当生活に余裕が出てくるのではないかと思います。

hatasan2.net

 

 

2 投資をする。

「金の問題ではない。」と言いたい方がいらっしゃるのもわかります。でも、現実問題お金の問題をクリアしないと余裕のある生活はできません。ミニマルな生活をしたことで余剰の資金を作り、それを貯蓄と投資に回していく。即効性はありませんが、10年スパンでかなり生活が変わってくる可能性が高いと思います。

投資については、このブログでもかなり書いていますので、もしよろしければ読んでみていただけたら幸いです。

hatasan2.net

hatasan2.net

hatasan2.net

 

3 生活をミニマルにして、投資を成功させたら、給料に頼る生活から離れる。

支出を削り、投資をして金融資産から利益が出るようになってくれば、その分働く必要が無くなります。そういう余裕ができてきたら、自分の才能を活かして起業してもいいし、負担のないお金の稼ぎ方を考えてもいい。SNSを使ったり、単発の請負の仕事をするなどの選択肢も出てきます。

最終的には、仕事でもいいし趣味でもいいから、自分のやりたいことを中心にした生活を実現していく。

hatasan2.net

hatasan2.net

 

 

ざっくりと言えば、こういう考え方が最も無理がないのではないかと思います。

共働きの生活は理想的ではないと思います。でも、現在のその生活を地道に維持しつつ、将来の理想像を考えて、希望を持って生活していったらいいのではないか。

現状の問題点を、直ちにすっきりは解決はできませんが、着実に解決の方向に持っていくことが重要だと思います。

 

間違っても国や社会の推奨するレールの上を一生走り続けるのはやめた方がいいと私は思います。社会や組織が、お金を費消することを推奨しても、それには決して乗らず、将来のために取っておきましょう。

個人の消費が伸びないと経済は活性化しませんが、そういう社会を作るのは政治や経済全体を動かしている人の仕事であって、その責任を個人が負う必要はありません。

貯めたお金は将来さらにお金を生む卵になります。

そうすると、社会の経済情勢如何に寄らず、共働きで週5日働く必要が無くなるのではないか、そう考えています。

人生の第一タームを終えた人の役割 ~映画「マイ・インターン」から学ぶこと~

映画「マイ・インターン」を見ました。

ご覧になった方も多いと思います。

人生の後半戦、第二の人生のイメージを作るためには、格好の映画だと思います。

 

 

かつての日本の社会は、定年が55歳でした。退職すると職場から離れ、年金だけで生活をするというイメージでした。

ところが現在は会社員や公務員の定年は65歳、これからは70歳と延びていきます。

でも、70歳になっても、年金だけでは足りない。だから、働けるうちは70歳を超えても働かないといけない。

これが今の日本社会です。

 

こういう状況の中、50代、60代の公務員や会社員は、将来の不安に押しつぶされそうになり、他方で、役職定年や再雇用などで、かつての部下が上司となることは珍しくない。

モチベーションは低下し、「働かないおじさん」として組織のお荷物になっています。

 

 

私は、昨年夏(令和4年7月)に職場を早期退職して、これからの人生を模索してきました。前職では「働かないおじさん」を目の当たりにして、現実に幻滅し、そうはなりたくないと強く思いました。

 

 

早期退職する前から感じていましたが、「働かないおじさん」たちには、第二の人生のイメージがありません。それなりに苦労して現役時代を過ごしてきて、「退職したら悠々自適といきたけれど、時代が許さない」とか「もう苦労はしたくない」とかいう考えで頭が満たされています。人事関係の面談で「今後どういう目標を持って仕事をしていきますか?」と問われても、「これまでのスキルを活かして、後進や組織の役に立っていきたい」と通り一遍の目標を掲げ、現実には、日々のルーティンをこなすだけの日々を重ねています。

こういう「おじさんたち」(性別は問いませんが)が、組織、ひいては社会の役に立たないことは火を見るよりも明らかです。

 

自分が役職退職となったり、定年延長で組織に留まることになった場合、更に退職した後に、組織や社会に対して、どう役立っていくのか考えることは、現代の日本の社会では極めて重要な課題です。でも、そういうモデルが、日本社会では示されていません。

 

 

映画「マイ・インターン」では、ロバート・デ・ニーロ演じる主人公が、定年後に若者ばかりのベンチャー企業インターン(見習い雇用)でやって来ます。最初は、若者ばかりの環境の中、浮いていましたが、誠実で穏やかな人柄で職場で一定の(無くてはならない)役割を獲得していくという物語です。

主人公のベンは、決して、過去の自分の経験をひけらかすことはなく、上司の指示には素直に従い、しかし他方で、役に立つ状況であれば控えめではあるけれど、要所を押さえた働きぶりで、次第に職場でなくてはならない存在になっていきます。

 

 

現在の日本社会では、シニアの立ち位置については議論もされていませんから、こういうイメージを持っている人は少ないのではないかと思います。

現在、私は、幸いにして退職後、就職をすることができました。

シニアを積極的に採用しようとする職場であるため、私も採用してもらうことができました。本当に感謝しています。

 

ただ、採用されて間もないのですが、強く感じることがあります。採用されているシニア層の人たちが不満でいっぱいということです。

その原因は、自分たちの過去の価値観が現在では通用しないことです。また、現役時代のように期待もされていません。

 

何となく昔が良かった、今の時代は間違っている、そう思っていることが伝わってきます。

そう思いたい気持ちはわかります。でも、時代は変わっています。

自分の価値観や倫理観の中に今の現実を押し込むことはできません。そうではなく、それとは逆に、今の現実を前提にこれからどうしたらいいのかを考え、その中で自分の経験が役に立たないかを考えることが重要だと思います。

 

 

ベンは、自分の経験や価値観を若者に押し付けません。

若者と一緒に苦労し、過去の経験で役立つことがあれば若者に提供します。あくまで現実優先です。恋に悩む若者に説教はしませんが、涙する女性にハンカチを差し出すことを提案します。

 

 

今、私は好んで従前とは違う世界に飛び込みました。

現状はそのまま受け入れ、何か自分の経験したことで役立つことはないか考えながら仕事をしていけたらいいなと考えています。

(コラム)間違いを許さない社会がチャレンジを阻む ~それでも挑戦するという人生の選択~

人生を振り返ってみると、誰でも人生における大きな失敗をいくつかしているのではないでしょうか。

でも、失敗を経験をして実感したことは、「人は間違いから多くのことを学ぶ」ということ。

 

でも、間違いから学ぶと言っても、その学び方は人それぞれです。

割合としてかなり多くの人は、「これからは、間違えたくない」と学びます。

間違えないために、最も効果的な方法は、「挑戦しないこと」です。

前の職場には「働かないおじさん」的な人(性別は問わないし、もしかしたら年齢も問わないけれど)がたくさんいました。皆さん、間違いを怖れて、新しいことに挑戦することを止め、間違えないために仕事の守備範囲を少なくしよう躍起になっていました。

働かないおじさんとまでいかなくても、人はみな、次第に守りの人生になって行きます。

歳を重ね間違う経験をして、新たなチャレンジをしなくなり、変化のない安楽を求めるようになります。

でも、こうなると確かに間違いは減りますが、そこから何かを学ぶことが無くなります。

 

 

だから、人生の岐路に立った時には、間違ってもいいから挑戦することも大切だと思います。積極的に変化することに挑戦して、その後の人生で試行錯誤していくことは、大きく学びを得る機会になります。

 

 

 

 

私は昨年(令和4年7月)に33年間勤めた職場を退職しました。理想だと思える人生を目指して変化してみることにしました。

当時は、明確にそう意識していたわけではありませんが、今振り返ってみるとそういうことを漠然と感じていたのではないかと思います。だからこそ、決断できた。

 

 

 

現在の日本社会は、間違いを極度に怖れ、間違えた人を執拗に糾弾し、間違えないように敷かれたレールの上を走る人を保護する社会です。

だから、間違えを怖れ、安楽な人生、肩書や収入が保証された人生を求めて、敷かれたレールを走る人は多い。

このこと自体を非難はできないと私は考えています。安楽に生きたいという気持ちは誰にだってあります。

でも、思うのですが、そういう人生は豊かにならないだけでなく、実は安楽ではない可能性すらあるのではないか。

 

日本の社会制度は劣化を重ねています。会社などの組織では、正社員というニンジンをぶら下げて、社員を死ぬまで働かせようとしています。以前は60歳までがんばれば終わりだったのに、それが65歳になり、70歳になろうとしています。

「劣化」と言いましたが、人を死ぬまで働かせようとする巧妙な装置は、今なお、健在です。

 

 

だから現代社会では、ある程度年を取ったら、間違いを怖れず自分から変化をしていくこと、これが自分の人生を楽しく、そして、実は安楽に生きる必要不可欠な資質なのではないかと思うのです。

年齢を重ね、人生における間違いから学んできたのですから、無鉄砲に変化するのではなく、間違えた経験を活かして、できるだけ周到に準備をした上で(リスク管理をした上で)変化していけばいい。そうすれば間違うことで被る痛手を最小限にすることもできます。現在の社会制度に踊らされない人生を生きるのがいいのではないかと思います。

 

 

「退職から人生再建へのモデル」という記事は、そういう想いを込めて書いてみました。





 

退職後の人生のイメージ ~人間が長生きする本質的な意味~

生き物が生きる意味は、生物学的に言えば、子孫を残すためと言われます。だから、多くの動物は生殖を行い短い子育ての時期が終わると死にます。でも、子孫を残すことができなくなってからも長い時間生きる動物がいます。そういう動物はそれほど多くないけれど。

例えば、シャチやクジラ、それに人間などです。

(「生き物が老いるということ-死と長寿の進化論」稲垣 栄洋 (著)から)

 

 

そういう生き物たちは老いを重ねながらも何のために長生きするのか?

シャチは、そういう長生きした個体がいる群れとそうでない群れとを比較すると、群れ自体の生存率が前者の方が高いそうです。長生きした個体が経験から得た知恵を群れに還元していると言われている。

人間が長生きする際のヒントになりそうな話です。

 

 

他方で、古代インドでは人生を4つに分ける考え方があります。

1 学生期

2 家住期

3 林住期

4 遊行期

1,2は大体想像がつくと思います。3は子供が成人するなどして独立した後の時期、4は老境の時期でしょう。人間が生殖、子育てを終えた後の人生だと理解できます。

短命であった古代インドの時代でも、生殖子育て期の後に相当長い時間があることを想定していたようで驚きです。

 

林住期は、社会生活から身を引き、林に庵を結び、思索を深める時期であり、遊行期は庵を畳み家を出る時期。一遍上人のように、踊り念仏を広めながら全国を旅して歩く人もいれば、西行法師のように、歌の道に志し、花鳥風月を求めて旅をしながら生きる人もいた。そう作家の五木寛之さんは指摘されています。

 

 

 

つまり、社会から身を引いた後は、自分の人生の意味や役割について深く考察し、それを社会に還元していく時期と捉えることができると思います。

子育てを終えた時期からの人の生き方を教えてくれるような気がします。

 

 

現代社会においては、中高年は最後まで働くことを要求されています。働く時期がどんどん長くなっています。子育てを終えても組織にぶら下がり、給料泥棒と誹られながらもやる気なく働き続ける姿は、林住期や遊行期の理想像からは大きくかけ離れています。

自分自身の生きてきた環境を振り返ってみても、思索を深めるどころか過去の経験や肩書の上にあぐらをかき、若者を苦しめている老害と化した中高年を多く見てきました。

 

 

定年退職後は第二の人生などと言われるようになりました。

社会的には、スキルを活かして現在の職場で継続して働いたり、転職してこれまでと同じように働いていくことが推奨されているようです。でも、「第二の人生」でやるべきことは、本当にそういうことなのでしょうか。

まずやるべきことは、これからの人生のビジョンを明らかにするために、一旦これまでの生活をリセットして思索中心の生活を構築することではないかと思われます。

 

これまでの生活様式やスキルの活用は、若い世代に任せて、余計な口出しは不要なのではないかと思います。シャチの群れでは、狩りは若い世代が中心になって行うことでしょう。

そうではなく、人類という人間の群れに自分がどういう役割を負えるのか一遍上人西行法師などの過去の偉人たちに学ぶべきではないかと思います。

 

 

自分ができるようになった「仕事のスキル」ではなく、自分が「仕事を通して」できるようになったことをいかに社会に還元していくかを模索して、そういう意識、視点で第二の人生を送って行けたらいいなと思いつつ、退職後の生活を楽しんでいます。