人は存在するだけで価値がある。
それはどんな人でも人生の中で、人に安心感を与えているからではないかと前の記事で書きました。そして、多くの安心感を与えるためには、人生を誠実に生きる姿勢、寛容さがあることが大切だとも書きました。
反対に、自分で自分の価値を損なうような生き方もあると思います。
自分を「不幸」とか「被害者」とか「弱者」と決めつけて、相手への寛容さを失っていく態度を持つことだと思います。
現代社会では、マイノリティや社会的弱者に対して最大限の配慮をするような方向に動いています。そのこと自体は、とてもよいことだと思います。
ただ、そういう場合に、自分をマイノリティや弱者だと言い募り、配慮を要求する人が一定数は必ず出てきます。そのことの弊害は、思いのほか大きく、仕事をしていても必要な配慮の範囲を超えて「自分は弱者なので、人がやって当たり前。」という人が増殖し、職場の仕事が回らなくなったりします。社会の流れに乗っかって、そこから利益だけを得ようとする人です。
でも、よく考えてみると、自分自身をマイノリティや弱者、被害者と決めてしまって要求ばかりをする態度は社会的な弊害があるほかに、実は、その人自身に対して大きなしっぺ返しをしているように思います。
そういうメンタリティが自分自身を痛めつけます。
「自分は弱者なのに、・・・」というのが口癖や考え方の癖になってくると、人に感謝できない、寛容でない人になってしまい、自分自身が苦しくなってしまう。
職場にいたころ、周囲に迷惑をかける人たちを見て、痛感しました。
配慮が行き届かない人、そういう社会に対して正当な要求をすることは、最大限尊重されるべきだと思います。でも、それを超えた要求をしたり、要求をするメンタリティに足を取られてしまうのは感心できないと思います。
浅田次郎さんの「おもかげ」という小説があります。
主人公は捨て子でした。
死を目前にしたとき頭の中を過去がめぐり、人生の幸福を再認識する。
涙を流しながら読みました(ああ、かっこわる!)。
主人公は、周囲から「親がいないから」という目で見られることを頑なに拒みます。「親がいないから」という見方は、その中に「不幸」という感覚が含まれます。
そのことを意固地なまでに拒絶して「自分は不幸ではない」と突っ張って生きることは安楽ではありません、
でも、そういう問題に真正面から対決してきた人生の終わりに、主人公が出会う幸せが見事に描かれていました。
結局、人生における損得は、目先の利害得失とは一致しません。
自分自身の経験からも、自分にとっての逆境が最も自分を成長させ今の幸せにつながっていると思います。今が幸せであればそれに感謝し、そうでなければ今が将来の幸せにつながることを意識して生きていけたらいいなと思います。
倍賞千恵子さん主演の「プラン75」という映画を見て、本当にいろいろなことを考えました。3回にわたって書き連ねてきましたが、これからも更に考えを深めていきたいと思います。