スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

人生のお手本~沢木耕太郎さんのかっこよさ~

先日、沢木耕太郎さんがNHKの番組でインタビューを受けておられました。

そのブログで「かっこいい」と書きましたが、私が考えるかっこよさのポイントについて書いてみたいと思います。

 

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1 外見

今回、沢木耕太郎さんは、黒のタートルネックにジャケットを着ておられました。昔からこういうシンプルなものを着ておられたように思います。バブル時代でも変わらず、シンプルだった記憶があります。

黒のタートルネックと言えば、スティーブジョブスも有名ですが、私は、断然沢木耕太郎さんのイメージが強いです。最近はミニマリストの方なども、こういうシンプルな格好を好む人が増えています。

 

結局、身に着けるものは、自分を引き立てるものでなければならないということでしょう。服そのもののデザインが良くても、それが自分を引き立てていなかったり、人間が服を引き立てているのは、どうなのかと思います。

私の記憶では、沢木さんは服にはあまり気を使わないというようなことを書いておられたような気がしますが、今回のインタビューでNHKのサイトにもアップされた写真を見ると、沢木さんの人柄や知性を浮き彫りにするような、絶秒のコーディネートだと思います。

 

私も真似をして、どんどん服の数を減らして、シンプルなもの、少しでも自分を引き立てるものだけを残すようにしようと思います。

 

2 人に対する姿勢

「銀の街から」という映画エッセイ集では、宮崎駿監督の「風立ちぬ」にさらっとダメ出ししていたりして、私などは、天下の宮崎監督にそんなこと言って大丈夫なのかなと思ったりもするのですが、最後に「これは宮崎監督にもう1本撮らせるための作品だ」と言って、宮崎監督へのリスペクトがさりげなく添えられています。

ネットの記事などを見ていると、悪意を持って書いていると感じられるものや、ほめてはいるけど本当に書き手がそう思っているのかと疑わしい記事も多いですが、こういう相手におもねることはしないけれど、きちんと尊重する態度はすごいと思います。

 

本当に学ぶべきところだと、思っています。

 

 

3 内面がにじみ出る態度

NHKでインタビューを受けておられる時に、桑子アナウンサーから最後の質問として、「今後は、どういう作品を考えているのか?また旅に出るのか、それとも・・・」というような質問をされましたが、それに対して、わりと長く考えた上で、「それを言っちゃ面白くないでしょう。」と返しておられました。

なんとか、インタビュアーを尊重したい、でも、答えられない、答えたくないということだったのだろうと思います。それを誠実に、「言葉」と「シャイな態度」で示されたのだと思います。

 

ちょっとした所作に人間性がにじみ出ているような気がします。

 

 

 

以上、ご本人にお会いしたこともない私個人の勝手な分析です。

沢木耕太郎さんは、深夜特急を書かれている通り、旅をすることを大切にされていて、多くの人や多くの文芸作品や映画などに関わりながら、質の高い作品を紡いでこられた方です。

こういう外見とか所作とかミーハーなことではなく、作品の中身さえ見ればいいと言われる方もおられると思います。それは正論でもっともだと思うのですが、私にとっては、作品のみならず外見や生き方すべてについてお手本と言ってもいいと思います。

 

私は沢木さんのように旅を愛するところまでは行かないですし、あんなに精力的に人と関わることもできていないとは思いますが、人生を歩む際には、少なくとも同方向の姿勢をめざしていきたいと思います。

 

 

退職後の人生は迷って当たり前~決めるまでは迷え、決めたら迷うな~

これからどうしようか、ここ半年考えていました。

 

 

退職した後、立ち止まる期間は無制限、ゆっくり考えようと思っていましたが、他方で、なんだか焦る気持ちもありました。

人が働いているのに自分だけ働いていない感覚も少なからずありましたし、期間は決めずと言っても、一体どのくらいで進むべき方向性が決まるのかという不安もあったからだと思います。

 

現在、一応の方向性が決まりましたが、そうなるまでに役に立ったことがありました。

 

1 読書

多くの本を読むことができました。

また、昔読んだ本を久しぶりに読み、新たな発見もありました。

本当にいろいろなことに気づかされたと思います。

 

沢木耕太郎さんの本を読み返して、人生の方針が固まりました。甘えないでシンプルに自分の置かれた状況を分析して、ちょっと熱く理想を持って生きていきたいと改めて思いました。

 

 

今回新たに読んだ本では、小野寺史宜さんの「まち」の中に出てきた「決めるまでは迷え、決めたら迷うな」という言葉が強く印象に残りました。作中の若き主人公に向けられた言葉で、いい歳の私にはおこがましいのかもしれませんが、6カ月しっかり迷ったので、これから迷わず進んでいけたらいいと思います。

 

 

2 ブログ

仕事を辞めて時間に余裕ができてからこのブログを始め、同時に他の方のブログも読むようになりました。

 

退職前は、大手サイトの記事を読むことが多かったと思います。忙しくて時間もなかったので、そういう記事しか読めませんでした。

率直な感想としては、大手サイトの記事は正しいことは書いてありますが、心に響くものは少ない。

 

それに対して、個人の方のブログには、自分の人生について真面目に向き合っているものが多く、少なからず影響を受けました。

 

打ち込んでいたものから離れて次の自分探しをする日々を綴ったもの、全く異業種に転職をして、でも余裕を持って暮らしつつ気づいたことが書かれているもの、退職を機に地方へ移住してその体験を発信しているものなど、様々なブログに出会い、元気をもらいました。

 

自分が迷っている時に、対面だけでなく、他の人の経験に触れることができたことで、自分のこれからの方針を決めることができました。

 

 

3 散歩

この半年、よく歩きました。

東京都区内を横切って歩いたりもしました。知らないところをゆっくり見られてよかったのは勿論ですが、一人で考えることができたのがよかった。

何かあって受け身に考えるのではなく、「これからの人生どうしようかな」と自分自身が主体的に考えるいい時間でした。

「決めるまでは迷え、決めたら迷うな」という観点からすると、歩きながら随分迷いました。

 

 

 

読書をして、ブログを書いて、散歩をして、考えました。

若い頃からずっと、仕事にやりがいを求めて、仕事をして自分の価値を確認してきたようなところがあります。

でも、これからは、余裕を持って生活をするために仕事をしようとは思います。仕事以外にやりがいを求めていこうと考えるようになりました。

 

そう考えると、まず仕事を探す心理的なハードルが下がりました。

相応の給料で、無理のない範囲の仕事を探せばいい。生活費は減らしたから多くの収入は求めない。その代わり、自分のやりがいを求めるための余力を残すことは必須。

やりがいを求める部分については、特に収入につながらなくてもいい。

これが現時点で考えた到達点です。

 

今日これから、とある団体に履歴書を出しに行こうと思います。就活の始まりです。

 

国やマスメディアが騒ぐと給料が上がる不思議な国 ~素朴な疑問~

ユニクロの従業員の給料が最大で4割上がるそうです。

いいですね。

その後、それに追随する企業が出てきています。これもいいことなのでしょう。でも、なんとなく違和感がぬぐえません。

 

 

企業は利益が出たら、設備投資、株主への配当などに使い、次に従業員への給与に充てます。つまり、企業に利益が出たら従業員の給料が上がります。

そうすると、上がった給料で物が買われますから、巡り巡って企業に利益が出るという循環が起こり、景気がよくなります。

これが、資本主義社会の原則です。

 

 

でも、今は、原材料費の値上げなどで企業の業績は悪くなっているんですよね。

なぜ給料が上がるのだろう????

 

給料が上がることに文句を言う人はいないから、特段問題にはなっていないけれど、なんかおかしい気がする。

 

 

企業は、今は利益が出てもいないけど、従業員のために給料を上げるということなのだろうか????

そんな聖人君子が企業を経営しているとすると誇らしいですが、やっぱり違う気がする。

 

今、世の中の風潮、政治、マスメディアが給料を上げないといけないと言い始めたから、批判をかわすために、これまでの内部留保を吐き出すということなのではないのか・・・。

そうだとすると、これまで大企業が内部留保を蓄えるために、下請け企業がぎりぎりの状態でやってきていて、だからこそ、今、中小企業が賃上げをできないという構造が理解できる。

 

 

資本主義社会は弱肉強食の社会と言われるけれど、他方で競争に勝てば潤うし、競争をすることで経済全体が上向くという仕組みになっているはずです。

でも、日本ではそうではない。

政治家、大企業の経営者など一部の人の裁量や雰囲気でいろいろなことが決められているように見えます。

 

失われた20年の原因は実はこういうところにあるのかもしれない。

日本では株価が理屈どおりに上昇(下降)しない。通常の資本主義経済の理屈では説明できない。

だから、私は日本株に投資をすることはしません。

 

本当に大きな問題ですから、細かい難しい問題もあるのでしょう。

ただ、根本的なところが何か間違っているように感じられるのは、私だけでしょうか?

早期退職後の人生について半年考えた。動き出すことにした。

昨年7月に早期退職をしました。

 

退職するに際しては、「もう限界」、「早く辞めたい」とずっと考えていました。

でも、巷には、「退職するならば、退職する前に進路を決めてからでも遅くはない。」、「転職先を探してから転職すべき」という言説が大手のニュースサイトなどに多く、とても迷いました。

 

 

でも、私の感覚としては、退職する前に転職先を決めたり、具体的な進路を明らかにする余裕があるのであれば、そうしたらいいけど、そんな余裕がないことの方が多いのではないかと思います。

 

自分自身、最後はブラックな職場で働いていて、仕事が終わったらもうへとへと、家に帰るのは午後8時~11時、それから必要最小限のことをして、次の日は5時前に起床して仕事に行く、泊り勤務も休日出勤もある、という生活をしていましたから、余裕なんて一切ありませんでした。

 

 

こんな風に、余裕のない状態で無理して転職先や退職後の進路を決めると、同じような職場に転職してしまうなど同様の環境に身を置くことになると思いました。自分が今までいた職場と同業種のところに就職するならば、その可能性も高まります。

 

 

だから、「このままでは健康を害するかもしれない」と考えた時点で、できる限りの準備はするものの、退職後のことは退職後に考えることにして、とりあえず退職したことは正解だったと思います。

 

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退職から現在までの半年間、仕事をしていた時は、やりたくてもできなかった読書をしたり様々なものを見たりしながら、今後の人生をどうしていくのか、じっくり考えるようにしました。

仕事をしていた頃は、ブラックな職場でしたので、仕事以外のことはロクに考えることもできませんでした。でも、退職をしたことで時間が取れるようになり、集中して考えることができました。

 

 

それから、退職後にこのブログを始めて、他の方のブログを読むようになりました。

大手企業のサイトの記事ではなく、個人の方のブログを拝見していると、退職後に地方へ転居して新たな生活をスタートされた方、全くの異業種の職業で生計を立てておられる方、いろいろな方がいらっしゃいます。

とても参考になりました。

 

 

こんな風にして、一度、心をリセットして、退職後のことはそれから決めることにして、働いたりはせず過ごしてきました。

 

 

 

この時間があったおかげで、何となく方向性が見えてきました。

自分がどうしたいのか。

仕事をしていた頃の、張り詰めた、追い詰められた、自分自身の心を失うような生活は、もう決して、しない。できる限り余裕を持ちながら、でも、やりたいことを見つけては前進していく。

そう考えて、私もこれから動き出すことにしました。

 

 

 

私は、大学を卒業して就職する直前、2つの方向性を検討していましたが、法学部に在籍していた流れで前職を選びました。

その時、「将来やってみたい」と思っていたけれど選択しなかった、もう一つの道があります。その続きをやってみようかと思います。

道筋については、まだ調べなければならないことも多いのですが、ゆっくりでいいので、やりたかったことに改めて挑戦しようと思います。もしかしたら、大学から勉強しなおさなければならないかもしれません。

でも、人生の一つの目標に向かって、動き出そうかと思います。

 

 

そして、人生の目標に向かって動き出すために職を得ようと思います。

これから勉強するにしてもお金の問題は避けては通れません。勉強に専念できればいいのかもしれませんが、できる限り現在の資産を切り崩さずに、リスクを避けてやって行こうと思えば、収入の道を確保することが必要だと思いました。年齢のこともありますし。

ただし、週に3日~4日程度の無理のない仕事で、収入も多くは求めないことが大事だと思っています。

同時に、この転職という経験も、将来の貴重な経験になるのではないかとも考えています。

 

 

 

こういうやり方は、社会の常識、人生のレールから外れると見る方もいるようです。

でも、楽しんでやっていければいいなと考えています。

 

まあ、退職した時点で外れているんですけど。(笑)

 

パワハラをする人は、自分を被害者だと思っている。

今回の記事は、心理学的分析ではありません。経験です。

 

私は、退職する前10年以上、何人もの職場内ではかなり有名な問題職員と一緒に仕事をしてきました。そういう人事については言いたいこともありますが、今回は置いておきます。

 

話を戻しますが、問題職員のほとんどは、「すぐ切れる」「機嫌が悪くなって周囲に気を遣わせる」「威圧的な態度や言動をとる」という人でした。

 

そういう人と1対1の面談や会話で強く感じたのは、自分がパワハラをしているという自覚が全くと言っていいほどない、ということでした。

反対に、自分がそういう態度を取るのには、十分な理由や事情があるのだと強く主張していました。初めは、「そういう考えの人もいるのかな」と思っていましたが、出会う人、出会う人すべてが、同じようなことを言うので、私も考えを改めました。

 

パワハラをする人は、自分を被害者だと思っています。

つまり、理由があってやったことだから、自分がやったことはパワハラではないと思っています。

 

もちろん全部が全部ではないかもしれませんが、私の肌感覚としては、大多数があてはまります。

 

 

 

ハラスメント全般について言えると思いますが、無自覚であるからこそハラスメントはなくならない。

ハラスメントの類型のうちセクシャルハラスメントについては、自分の意図とは関係なく「被害者がそれをセクハラだと考えたらセクハラ」という定義があります。セクハラをした人が無自覚であっても、被害者がそう感じたらセクハラなのです。

 

これは、論理的に考えるとかなり無茶苦茶な話であって、被害者が「セクハラです」と言えば、すべてセクハラとなってしまう。いくらなんでも、それはないとも思います。

 

でも、そうなったのにはそれなりの理由があります。

セクハラが問題となる前の社会では、今では考えられないような言動がまかり通っていました。その後、セクハラという概念が社会的に認知されてくるようになりましたが、最初はセクハラをするような人たちは「そんなことまでセクハラなのか」とか「自分はそういうつもりではない」「受け取る方に問題がある」などと堂々と言っていたのを思い出します。

そういう人たちにわからせるためには、論理的には相当無理がありますが「被害者がセクハラと言えばセクハラ」と言わざるを得ない。そうまでしなければ、セクハラは無くならないと考えられたからではないかと思います。

 

 

話をパワハラに戻します。

今、パワハラに苦しんでいる人は、とても多いと思います。自分自身、パワハラで体調を崩したこともあります。

 

でも、当時のパワハラをした上司は、自分のパワハラが原因だとは思っていないと思います。多少厳しく教えただけだという程度でしょう。

 

現在のパワハラの定義(労働施策総合推進法)は、

(1) 優越的な関係に基づく言動であること

(2) 業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの

(3) 労働者の就業環境が害されるもの

で、(1)から(3)までを全て満たすものとされています。

お気づきかと思いますが、セクハラのように被害を受けた人がどう考えるかは問題にされていません。

ざっくり言えば、パワハラをした人が業務上必要だったと言えば、パワハラではなくなる可能性が非常に高い。

 

これが、パワハラが無くならない理由だと思います。

「被害者がそう思えばパワハラ」という無茶苦茶なことまで言うかどうかは別として、パワハラについては、明らかにセクハラよりも腰が引けています。

 

根底には、パワハラ的であっても強い指導があった方が組織運営がうまく行く、合理的な理由に基づく強い指導は受け入れられるべきだという発想があります。

でも、これは冒頭に書いたパワハラをする人のメンタリティと全く同じじゃないですか!

 

 

 

長い間、仕事をしてきた私自身の経験から言えますが、強く指導したり、強く言わなければならない職員は、結局、組織で使えるようにはなりません。

また、指導や人材育成は、強く言えばできるようになるなどという、簡単なことはありません。

 

学校における体罰が問題になった時も、当初は、多くの大人が「自分は先生や監督から殴られたが、愛があったからいいと思う」、「殴ってわからせなきゃならないこともある」等と述べていました。

他方で、体罰を加えずにわからせる方法がないかとか、体罰が本当に愛(合理的)なのかという根本的な問題を考えようとしていなかったことが思い出されます。

 

 

「理由があればハラスメントではない」という論理を採用している限り、ハラスメントは無くならないのです。

 

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前の職場に見切りをつけて退職、今までにやってきたこととこれからの課題 ~退職後の生活(途中経過)~

去年7月に退職して、本当の働かないおじさんになってから、約半年が経過しました。

 

これまでやってきたのは、一言で言えば生活を立て直すこと。

 

まず最初の1か月は、とにかく休みました。在職中は激務でしたので、想像以上に疲れがたまっていました。8月は暑かったですし、規則正しい生活は維持しながらも、家にいました。

それからは、次第に生活のパターンを作り、週に2~3度はランニング、テニスなどの運動をするようにしつつ、概ね1~2週間に1度生活が潤うような予定、例えば美術館、博物館に行く、友人と一緒に過ごすなどの予定をいれるようにしました。

 

同時に、生活環境の見直しをしました。

一つは、居心地のよい家に作り替えるように、掃除や持ち物の整理を始めました。半年でかなり理想の状態に近づきました。

もう一つは、金融資産の整理。仕事をしない間とりくずす現金のほかは、基本的には投資信託への投資に回すようにしました。

 

金融資産の整理とともに、支出についても管理できるように見直しました。

携帯代は契約を変更して月々1000円程度に絞り、その他のサブスクも必要最小限にしました。

持ち物を整理したことで必要な物を意識するようになり、物を購入する基準が変わりました。仕事をしていた時には、必要だと思ったら買っていましたが、今は更に、必要かどうかを熟慮したり、他のもので代用できないか、もし代用できるのであれば代用する物も使い切れるのではないかと考えるようになりました。

劇的に支出は減りました。

 

 

新しく始めたことは、このブログです。

当初は、少しでも収入に結びつくかな程度の思い付きで始めました。ただ、収入にはほとんど結びつかず、現在に至ります。

現時点で良かったと感じていることは、収入云々より、文章を書くのが根本的に面白いとわかったことです。

最初は、文章を定期的にアップするのは大変そうだと思っていましたが、意外とそれは大丈夫だとわかりました。書くこと自体は苦痛じゃない。

退職を契機に色々な本や情報に接するようになりましたが、そういうインプットされたものを自分なりの視点でアウトプットすることが、自分にとってとても役立っているように感じます。

例えば、今回のこの文章を書きながら、今後の人生をどう考えるか、考えを整理する機会にもなっています。

収入につながるかどうか等も含めて、今後、どう展開するかわかりませんが、続けていこうと思います。

 

 

 

退職を契機に、考え続けているのは、退職後の生活をどう組み立てるかということです。前に、退職後の見通しについては退職してから考えることと割り切って、退職を決断したということは書きましたが、今尚、考えることを継続中です。(※)

現時点で、今後の生活の方向性として整理できていることは、

1 金融資産の運用で資産を維持して不安がないようにする。

2 収入については、あせらない。とりあえず今年は職を探して就職することで、定期の収入を得るようにする。ただし、仕事は週に3~4日程度で無理のないものとする。

3 無理のない仕事をしながら、勉強をして新たなライフワークを確立する方向に動く。

ということで、やっていこうと思います。

1については、ほぼ形ができたと思っています。

2については、今年の課題だと考えています。これができたら、生活の自由度が増すと思います。

3については、検討を継続します(内容は、楽しみつつ、いろいろ検討中です。)。

 

※ ネットなどには、「退職をするなら次のことを決めないと人生終わる」という記事が多いですが、やり方によっては、そんなことはないと思います。

 

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現在58歳ですが、人生はまだまだ続きます。仕事を辞めたから、あとは気楽に・・・というのも悪くないですが、それだけでなく更に充実した人生にしていくためチャレンジを続けたいと思っています。

 

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直立二足歩行は一夫一妻制に適合している? ~更科功「美しい生物学講義」~

文系人間の私ですが、時々、理系の本も読みます。

 

アウストラロピテクスが直立二足歩行をし始めて、人類は武器を手にすることができるようになった。だから、人類は生存競争を勝ち残ってきた。

そう言われると、なるほどそうかと納得してしまう文系人間ですが、これは違うそうです!

 

更科功さんの書かれた「美しい生物学講義」によると・・・。

当時の化石には頭蓋骨が陥没しているものがあり、これが武器によるものとされていたこともあり、この頃から人間が武器を手にしていたと考えられたのですが、最近の研究で、それは武器によるものではなく自然界で怪我をしただけの可能性が高く、さらに武器の使用はそれからかなりの年月が経ってはじめて人類が覚えたというのです。

 

 

そうすると、直立二足歩行の人類が生き残ってこられたのはなぜなのか?

最近の仮説では、人類という種の中で「争いをやめた」から、ということになるらしい。

どういうこと???

 

直立二足歩行を始めたのと同時期に、人類には牙がなくなったそうです。

このことも考え合わせると、人類は直立二足歩行になると同時に争いをやめた可能性がある。争いと言うのは、他の動物に襲われるということもあるけれども、それよりも動物を脅かすのは、同じ種同士の争い、オス同士の争いです。

人類の牙がなくなり、直立二足歩行を始めた時、一夫一妻制的なことが始まったのではないかという仮説です。

 

多夫多妻制、一夫多妻制などと比べて、一夫一妻制は圧倒的に争うことが少なくすむので、人間社会が平和になった。そういう社会で、直立二足歩行の利点、手を使えることにより、食べ物を自分の家族に持って帰れるようになったことが、人類の生存に対して大きく寄与した。

なるほど。

 

 

一夫一妻制は、文化的、宗教的にそれが良しとされたことの産物であると、私はこれまで思ってきましたが、それだけではない可能性もあるのかと瞠目しました。

そう言われてみると、一夫多妻制などより厳しい制度である一夫一妻制が世界中で珍しくないことは、生物学的にも自然だと考えた方が、納得はしやすい。他の動物に比べて争いを好まず、争わないことで他の動物に対する優位性を確立しているのが、人間だということになるのでしょう。

 

メディアでは、不倫をした芸能人や有名人を叩いて喜ぶ姿が頻繁に見られます。

その報道姿勢が見るに堪えないことも相まって、これまでは不倫というのは人間が勝手に作った一夫一妻制に押し込まれたくない人が、自由を求めた姿ではないかとも感じていたのですが(この書き方も穏当ではないですね。有名人じゃなくてよかった)、生物学的に見ても、間違ったことなのかもしれない。

今度からは、そういう観点からも、不倫ニュースを見てみることにします。生物学的にも自然ではない不倫を求めてしまったのは、なぜなのか??

 

 

私などは、この本を読んだからと言って、生物学をきちんと学ぼうとするわけでもないのですが、そういう輩にもすごく興味を持たせてくれる本です。著者ご自身も、そういう人にも生物学の面白さを知ってもらおうと書いたとおっしゃっています。

 

ここに書いた以外にも、ロボットを使ったストーリーで「自然選択」(昔ながらの表現だと「自然淘汰」ですかね)が説明されていたり、現代的な課題である花粉症や癌、ips細胞についての言及もあります。

どれも、衝撃的にわかりやすいです。