スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

ひっ迫を繰り返す医療現場は日本社会の縮図だと思う。

数日前に、救急隊員が居眠りをして救急車が事故というニュースがありました。17時間連続勤務だそうです。

 

コロナ確認から3年、何度もコロナの流行があり、その度に医療現場のひっ迫、保健所が回らないなどと言われますが、改善されない。救急車の事故も、その延長上にあります。

エッセンシャルワークと言われる病院などで、こういう状況です。それ以外の組織でも、特に問題として表面化しないだけで、仕事が普通に回らないのは同様だと思われます。

 

日本の組織のダメな点ですね。

何度経験しても学ばない。遡れば、太平洋戦争の頃から全然変わってないのではないでしょうか?

 

私のいた組織(国の組織です)もそうでした。

何度も同じ間違いを犯している。ほんの一例ですが、システムの導入に失敗したのは1度や2度ではないけれど、失敗したという認識すらしない。

ただ、なぜそうなるのかもわからなくはない。だから、感情的に糾弾するつもりはないのですが、でもそうは言っても、このままでいい訳がない。

 

 

現在の日本の組織について、一つ共通して言えることがあるのではないかと思います。

働いている人と、働いていない人がいる。

 

働いている人というのは、普通に働けている人。例えば、会社員なら普通に就職して健康で独身とか。要するに普通に働ける人です。

他方で、働いていない人は、

1 健康を害しているとか、子育て中とか配慮を要する人

2 組織を運営している人

この2種類だと思います。

 

1については、これまで何度となく記事に書いたりもしてきました(理念には反対ではないが、一部に仕事が集中している)が、今回は、2の組織を運営している人について、考えてみたいと思います。

 

 

通常、いわゆる幹部職員より上の人が、組織を運営する人という理解でよいでしょう。もちろん現場の職員も組織運営の一翼は担っていますが、組織運営が主たる仕事になっている人と言うと幹部職員です。

 

そういう人たちが、今の世の中、ルーティンをこなすことしかしていません。

毎年やらなければならないこと(人事とか)、突発的に起こったことの対応(報道対応とか)も重要な仕事ではあると思います。しかも、それだけで相当忙しいことも理解できます。でも、そういう幹部職員のルーティンだけやっていればいいのか?

 

期限は特に明確にはないけれど、長期的に見て重要なことで検討し実行しなければならないことに着手する必要はないでしょうか。

 

病院、保健所、消防署は、スタッフが足りない。コロナで大変になったり落ち着いたりを繰り返すことも、当初は、仕方のないことかもしれません。ただ、3年以上経った今でも同じ状況を放置しているのは、「誰」なのか。

 

犯人捜しは嫌いですが、責任の所在が全く明らかにならないのはおかしい。

私がいた職場でも、3カ月基幹システムが止まったことがありましたが、誰も責任を取りませんでした。

 

急がないけれど重要な問題については、責任を追及されないから、組織的な課題を考える人がいない状況になっています。

いろいろな組織で、たまりにたまった歪みが明らかになっているのに、見て見ぬふりが常態となっています。

組織のトップとかそれを支える立場の人、つまり次にトップになるような人は、かなり高い給料をもらっています。でも、それに目を向けることがない。

 

組織のガバナンスがどうとか、情報セキュリティがどうとか、かっこいい名前のついたものだけが仕事ではないと思います。

本当に、この組織(社会、国)をどうしなければならないかを考える必要があります。

 

 

自分自身、仕事をしていた時は、「こうしたい」という案を作って、上司や会議などに諮るようにしていました。

でも、退職する直前には、「そんなこと考えなくてもいい」と言われ、現場の状況を明らかにしたり、提案をしたりということをすると煙たがられるようになっていました。そんなことはやらなくてもいいと言われ、その代わりに、多くのブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)が課されました。

コロナの報告、働き方改革が順調にいっているかどうかの報告、仕事を間違わないために何をしたかの報告・・・・枚挙にいとまのない、どうでもいい仕事をしていました。

 

 

医療現場でも。コロナに関して異常に詳細な報告が強いられていたことは記憶に新しいところです。本来的な診療業務に支障を来すほどに仕事を増やしていたわけです。

 

本当に診療がうまく回るようにするためにはどうあるべきか、どうすればよくなるかという本当に大切なことは、誰か考えているのでしょうか?強く疑問に思います。

もちろん、病院の幹部だけが考えるべきだという簡単な話ではないと思います。現場も考えなければならないでしょうし、組織としてそういうチームを作るなど具体的な方策も必要でしょう。

でも、中心になるのは幹部以上の人たちであることは間違いないと思います。

 

 

このあたりで、病院が疲弊しないように考えて実行するのは誰なのか、保健所や消防署の体制を検討するのは誰なのか、裏返して言うとうまく行かない時に責任を取るのは誰なのか、一度正面から考えてみた方がいいと思うのです。幹部以上の人たちに、きちんと働いてもらうことが大切だと思います。

激しいストレスで苦しい時の精神的な対処法・考え続けないこと

仕事をしていた頃、人間関係や押し付けられた仕事について考え出したら止まらなくなって眠れなくなることが、よくありました。眠れないと体力も削られて、やがては精神的に参ってしまいます。

そういう時にどうしたらいいか。

今では、自分なりの一つの方法があります。

 

 

 

まず、人間はいろいろなものを見たり聞いたりして、「嫌だな」とか「苦手だな」というマイナスの感情が湧くことがあります。

こういう感情は自分の意思で制御することはできません。

外界の刺激に対する人間の自然な反応だからです。

外界の刺激に対する感情は、そのままほおっておくしかない。

 

 

 

問題は、感情が湧いた後、人はそれについて考えることです。

「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」、「なぜ社会はこうなのか」など、実に様々なことを考えます。

こういう考え続けてしまうことは、実は制御が可能です。

 

「嫌い」という感情があって、「あいつは・・・で怪しからんやつだ。あんなこともあった、こんなこともあった」等々と延々と考え続けることも可能ですし、「だから、できるだけ距離を置こう」とポジティブに考えることも可能です。

 

更に、考えること自体をやめることも可能です。

考えることをやめると、心は楽になります。

 

ストレスがかかって眠れなくなっている時には、頭の中をいろいろなことがグルグル回り、仕事のことや人間関係のことが頭から離れなくなっています。考えたくなくても考え続けてします。ストレスフルな事実を嫌だと思う感情はあるがまま受け入れるとしても、その後、そのことを考え続けて苦しい。

だから、考え続けることをやめたらいい。さっさと眠れば楽だし、体力も削られない。

 

ただ、それは、言うほど簡単なことではありません。

こういう「考え続けてしまうこと」をやめるコツを考えてみます。

 

 

コツ(1) 「自分が意図して考えていることは止めることができる」と知った上で、まずは意識的にやめようとしてみる。

往々にしてありがちなのですが、マイナスの体験をしてそういう感情が湧くと、そのあと色々考えたくなる。いかに自分は被害者かとか、いかに相手が酷いかとか。感情に任せて考え続ける状態になります。

感情に任せていたら、ずっと考えが止まりません。

まずは、ここで「考えるのをやめよう」と意識的に思ってみる。これだけで、結構嫌なことを考え続ける苦しい状況が解消される可能性があります。

 

コツ(2) 自分の感情によって考えが止まらなくなっていると気づいた上で、そういう自分を客観視する。

「自分の感情によって考えが止まらなくなっている」と気づいた上で、そういう自分を客観視することで苦しみから逃れることができます。

「ああ、自分は今・・・が嫌でたまらなくて考え続けている」と自分で自分を客観的に見るようにします。そうすると次第に考えが静まっていきます。

無理に考えることをやめようとはしないけれど、考えに没入はしないというイメージです。

 

これは、座禅、瞑想などで心を静めるのと同じだと思います。ストレスで負の考えにとらわれて苦しんでいる状態から逃れる場面でも、大きな力を発揮すると思います。

 

 

 

結局、自分を痛めつけるのはストレスそのものではなく、それを考え続ける自分自身です。ストレスフルなものから逃れたいと思って感情に任せて考え続けることは客観的な解決にはつながりません。

そして、こんな風に感情に任せて考え続けている時には、自分では制御できないことを考えていることがとても多い。社会の矛盾だとか、他人の悪いところだとか、自分で変えることができないことを、延々と考えている。

 

だから、(1)まずは、自分を自分で痛めつけることをやめること、(2)その後、自分で変えられることは何かを落ち着いて考える、という順序で、自分を制御することが大切だと思います。

hatasan2.net

 

足るを知ることが、幸せな人生につながる。 ~塵芥居士「丁寧な暮らしをする餓鬼」を読んで~

「丁寧な暮らしをする餓鬼」(塵芥居士著)という本を、東京国立博物館ミュージアムショップで見つけました。

とても面白いです。

ほろっとさせられるところもあります。

 

 

「餓鬼」というのは、強欲な人生を送った人が死後、「餓鬼道」というところに生まれ変わったときの姿です。本の挿絵にあるような様子で、痩せていてお腹だけが膨らんでいる飢えた人というのが一般的なイメージです。

この普通の餓鬼は、飢えていても食べ物を食べることができず、いつまでも苦しんでいます。

 

面白いのが、餓鬼にも種類があって、そういう一般的なイメージの餓鬼のほかに「富裕餓鬼」というのもいるそうです。

 

いろいろな物を持っていて、食べることにも不自由していない。

でも、持っている物を失うのが怖くて、あるいはもっと物が欲しくて、苦しんでいる。

 

 

これって現代人に重なるような気がします。

物に限らず、失うことが怖く、もっと欲しいと思う。

今の裕福な生活を失いたくないから、失業の恐怖、左遷の恐怖、収入が減る恐怖におびえる。もっといい生活がしたい、もっと出世したい、もっとステータスになるものが欲しいと求め続ける。

まるで餓鬼のように渇望し続ける。

 

でも、実は、自分たちは過剰に持っている。

すでに手に入れているのに、足りないような気がしているだけ。

「足るを知る」ことで、渇望から逃れ、幸せに近づくのに。

 

 

 

自分には既に必要なものはそろっていることに気づいて、過剰な物を求めないというのは、最近流行りのミニマリストに通じるものがあります。

また、『大人もぞっとする日本の「こわい古典」』という本の中では、餓鬼が平安時代の古今著聞集に出ていることが指摘されています。(「水餓鬼」)。平安時代には既に、過剰に欲しがることは幸せにつながらないことが認識されていたということです。

 

 

現在のミニマルの考え方にも、平安時代の古今著聞集にも指摘されているところを見ると、足るを知ることが幸せな人生につながることは、普遍の法則なのかもしれません。

 

 

 

ちなみに、「丁寧な暮らしをする餓鬼」という本を見つけたのは、厳密には私ではありません。一緒に行った人です。ミュージアムショップで姿が見えなくなったと思ったら、この本にかじりついていたのです。餓鬼のように貪るように立ち読みをしていました。

一体、何がその人を惹きつけたのかは疑問です。

 



子育てをした親が考える「異次元の少子化対策」(2)(少子化対策の提言)

前回、現在の子育て環境の問題点として、

 

1 体力的な負担が大きすぎる

2 経済的、金銭的な負担が大きい

3 精神的負担が大きく、生活が硬直化する

 

ということを挙げました。

 

解決法を考えてみたいと思います。

個人的な思い付きのようなものですが、こういうことを考えることで、少子化問題がいかに国の制度の根本に関わっているかがわかると思います。制度の根本問題について議論がされることを願ってやみません。

 

 

1 体力的な負担について

子育てをしながら働くというのは、大きな負担がついてまわります。

この負担をどうするのか。従来の生活様式を前提とする限りはこの問題は解決しないと思います。専業主婦を前提とし、実家や地域の援助が見込めるような社会ではなくなってから随分経っていますが、役割分担は従来のままです。男女の役割分担、地域と家庭の役割分担、学校と家庭の役割分担、家庭と職場の役割分担。

男女の関係では、女性が子育てを一手に担うことが不可能という認識はできてきましたが、そこに夫も関与したら解決するという安易な雰囲気があります。

地域との関係では、地域社会は昔のように防犯機能や教育機能は期待できない。

だからと言って、教育、防犯、保育などの機能が、なし崩し的に学校に押し付けられているのが現状ですが、その期待に学校は答えられない(無理に決まっています。)。

 

一つのアイディアとしては、子供の居場所を確保する制度の創設が考えられます。生まれたばかりの子供から小学校を終了するくらいまで、日中(朝から夜まで)の生活をする場所を制度として提供する。そこでは食事や教育を提供して、原則として親とは仕事が終わって次の朝までも一緒に過ごすだけにする。

 

現在の制度を前提とすると荒唐無稽と考えられるかもしれません。

でも、保育園に入れないという問題の解決に10年スパンの時間をかけ、男性や職場の意識変革や協力に過大な期待を抱き、PTAは親の負担が・・とか議論している場合では、もはやないと思うのです。

 

 

 

2 経済的、経済的負担、精神的負担について

根本的な経済対策が必要だと考えられます。

労働法制も絡みますが、現在のような終身雇用、年功序列の制度は完全に時代遅れであるにも関わらず、今なお温存されています。

ただ、いきなりアメリカのような自由競争社会というのは日本人にとっては相当ハードルが高いように思います。肌感覚ですが。

では、終身雇用、年功序列のよくないところは具体的には何なのでしょうか。

 

日本人は会社がつぶれることを嫌います。大企業がつぶれそうになると国を挙げて大騒ぎです。税金を投入して一企業を救ったこともあります。このメンタリティーを捨て去ることは難しいかもしれません。考えてみると競争力がないからと言って、その企業をつぶせばいいというのは、ある意味極論です。ぶっつぶさなくても使えるようにできないのか?

 

一つの解決策は、労働の流動性を高めることだと思います。

企業をつぶさないような制度を温存するとしても、働く人が自由に働く場を変えられる(企業にとっては必要のない人材を解雇したり、事後的に必要な人材を採用できる)制度を作ることではないでしょうか。

「働かないおじさん」問題とか言われていますが、少子化の裏返しの高齢化社会になるに伴い、問題は顕在化しています。他方で、優秀な人材が合わない組織で腐っていっている。転職などで経験を積むことでさらなる能力の開花が見込める人材も同じ場所にいることで腐ってしまう。

 

ある職場を辞めたら、次の企業では即戦力でなければ採用しないという、できるはずのない要求はもうやめるべきだと思います。次の職場に移行する際のトレーニング込みで転職を考える制度を創設することを考えてはどうでしょうか。

職業訓練のハイレベルバージョンのようなイメージでしょうか。

 

転職しようとする人のハードルを下げ、転職によって給料が極端にダウンしない制度を作ること、本当の意味での同一労働、同一賃金を実現することだと思います。

経済の発展にも寄与するはずなのに、なぜか長い間これができない。

 

子育てを躊躇させるのは、目の前の給料が少ないというのもありますが、よりよい生活を目指せないという硬直した制度にも問題があります。

自分の能力に応じた報酬が得られるような社会であれば、それを見込んだ余裕を持って子育てをするという見通しが立てられるのです。

 

3 まとめ

結局、少子化問題を解決するには、(1)の冒頭で述べたように

 

1 保育、教育制度を見直す

 子供の居場所を確保して、そこで食事、教育などトータルなサービスが受けられる制度を創設する。

 

2 年功序列、終身雇用制度を作り直して、労働力の流動化を図る

 労働力の流動化を促し、能力のある人の活用を図る。制度の創設により、新たな産業も出てくると考えられます。そういう制度を維持、発展させるためには、能力のある人材で運営できるようにする。

 

ということになるのではないかと思います。

思い付きの一試案ですが、これに類することが政治の場で議論がされる必要があると思います。

現政権の岸田総理であるか、次の政権であるか、また、与党であるか野党であるか、わかりませんが、真摯に議論をして実現しようとして動いておられる方を応援していこうと思います。

 

子育てをした親が考える「異次元の少子化対策」(1)(現状の問題点)

1 異次元の少子化対策の内容(提言)

少子化対策のメニューについては、これから出てくるのだと思いますが、勝手ながら、個人的な提言を書いてみたいと思います。長くなるので2回に分けて記事をアップします。

 

最終的な結論としては、

 

1 保育、教育制度を見直す

2 年功序列、終身雇用制度を作り直して、労働力の流動性を高める

 

ということになります。今回はまず現状の問題点から考えたいと思います。

 

 

2 少子化をとりまく状況

私は、30年以上公務員として働きながら子供2人を育てました。私が子育てをしていた頃は育児休業制度がやっと整備され始めた時代で、夫婦共働きで「夫婦だけで」子供を育てるという人はまだまだ少ない時代で、男性の育児休業の取得率は1パーセントにも充たない状況でした。

他にも夫婦で働きながら子育てをしている人はいましたが、実家の援助などがある人が多く、「夫婦だけで」子育てをしている人は、まだまだ少なかったと思います。

お金の面では、医療費の援助や地方公共団体ごとの給付金などがありましたが、現在ほどではありませんでした。

 

これに対して、現在は当時に比べると育児休業制度のみならずそのほかの各種休暇制度も整い、制度の利用率、休暇の取得率も上がってきています。また、各種手当も、今回の少子化対策にもあるように充実してきています。

 

ある意味、国や地方公共団体も不十分との批判はあるにせよ、何もしてこなかったわけではない。

 

でも、出生率は下がり続けている。

 

 

 

3 少子化に向かう理由(何が子育てを阻んでいるのか)

子供を育てながら仕事をしてきた経験から、少子化になる理由に心当たりがあります。

 

「子供が生まれる」となった時、親はどう思うか。「これからこの子をちゃんと育てていかなければならない。」と思うのではないかと思います。

そういう思いを抱えながら1人目を育てますが、2人目をどうするかと考えた時に、現在の日本では、すぐに「是非ほしい」と思う人は、ほとんどいないのではないか。1人目を育てながら痛感するのは、

1 体力的な負担が大きすぎる

2 経済的、金銭的な負担が大きい

3 精神的負担が大きく、生活が硬直化する

ということです。

 

仕事に復帰するまでの間は基本的には母親任せです。実家の援助がない場合、夫婦で子育て全てをしなければなりません。仕事をしながら。

子供が成長して母親が仕事に復帰することになったら、次の問題は、保育園がなかなか見つからない。無事保育園が見つかって仕事に復帰した後は、仕事帰りに保育園に迎えに行き、夜はばたばたと過ごして翌朝また保育園に子供を連れていく。職場に着いたときにはへとへとになっています。それでも1日がんばって働き、その後また保育園のお迎え。

小学校に子供が上がると、保育園のように手厚く面倒はみてもらえなくなります。面倒を見てもらえないだけではなく、親に負担を強いる教育制度となっています。学校行事やPTAの負担も相当なものです。

さらに、現在の教育制度では満足な学力がつかないというのは公然の秘密のようなもので、だからこそ余裕のある家庭は必ず受験塾に通わせています。こういう負担も親が負わなければなりません。

現在、夫婦2人で子育てをしている人は、もっと言いたいことがあるでしょう。

当たり前すぎますが、体力的に、非常にきついです。

 

また、給料が全然上がらない世の中ですから、金銭的な負担はかなりのものだと思います。

国なども相当な予算を組んで給付金をバラまいていますが、焼け石に水。例えば、今回の東京都の給付金のように5000円が月々給付されたとして、どの程度家計の負担が減るでしょうか。ないよりはいいですが。

 

次に、この点は割と見過ごされていると思うのですが、子育てをしているとライフスタイルが固定化されます。

具体的には、仕事を辞められなくなります。どんなパワハラを受けても、どんな自分に合わない仕事でも、限界まで働いて、これ以上無理だと思っても、仕事を辞めてしまえば転職が著しく難しく、転職ができたとしても「転職した」という理由で給料が著しく減ってしまうからです。

子供がいなければ、転職してでも頑張れるとしても(本当は、それも難しいのが現状ですが)、子育てをしながらでは絶対に転職などできません。

言葉を変えて言えば、限界を超えて頑張ることを強要されるから、子供は作らないという選択になる。

 

日本の労働法制については、以前から問題点は指摘されていますが、本当に長い間、全然改善されません。

転職が著しく制約されるような現在の労働法制は絶対に見直されなければなりませんが、そこに、子育て少子化という視点も不可欠だと思われます。労働法制が、少子化を助長している側面に目を向けるべきだと思います。

この点は、これまでは「子育てとはそういうものだ」という思い込みで、触れられることもなかったのではないかと思います。

 

こういう状況で、だれが子供を2人、3人と育てようと思うでしょうか。

 

今、東京では長谷川等伯の多くの作品を同時に見ることができる。(東京国立博物館、サントリー美術館)

長谷川等伯の作品を観てきました。

 

今、東京では、東京国立博物館の「松林図屏風」と、京都の智積院の襖絵「楓図」が同時に観られます。(確か、もうすぐ終わります。)

松林図屏風については毎年正月に東京国立博物館で展示があります。それに加え、今年は六本木のサントリー美術館で「智積院展」が催されていて、その中に長谷川等伯の「楓図」があります。

 

 

松林図屏風を観て

東京国立博物館の松林図は、毎年展示されているようですが、必ずしもいつも同じ場所に展示されるとは限りません。

10年以上前に初めて観た時には、大きな部屋で他の作品と一緒に展示されていました。そのときは松林図を目当てに行ったわけではなかったのですが、前を通りかかった時に、「おっ!」という感じで惹きつけられました。

「なんでだろう。」と見入っていると、作品の方からも自分の心の底を覗き込まれている感じがしたものです。

 

今回は一部屋で1作品が展示されていました。一部屋に1作品だとその部屋全体が幽玄さに溢れる「松林ワールド」となります。作品の体現する世界に包まれているように感じます。

心の底を覗かれるちょっと怖い感じもいいですが、今回の幽玄さに覆われるような体験も捨てがたかった。

 

 

襖絵「楓図」を観て

もちろんすばらしいのですが、初見では「うーん?」という感じでした。

国宝に対して、「お前何様だ!」的な感想ですが。

 

理由は二つあって、一つは「もっと迫ってくる作品が隣にあったから」。

等伯の息子の久蔵(きゅうぞう)の襖絵「桜図」です。写実的ではないのですが、白い桜が「どうよ!」と迫ってくる感じがします。作品の方からパワーが発せられている。

余談ですが、久蔵はこの作品を最後に若くして急逝してしまいますが、対立する狩野派の暗殺説があります。真実かどうかはわかりませんが、うなずいてしまうくらいの完成度の作品だと思いました。狩野派からすれば、脅威だったのではないかと思います。

 

それに対して、等伯の楓図は、好みの問題もあるかもしれませんが、落ち着いている。制作当初と比べて色が落ちているからかもしれません。

 

まあ、そうは言っても、展示室内は智積院の所蔵する国宝で溢れており、その中での感想ですから、国宝のうちどちらがすごいと思うかという、わけのわからないレベルの話です。

当然のことながら、私個人の感想です。

 

 

二つ目の理由は、展示場所。

展示についてもおそらく考え抜かれており、すばらしいのだと思います。ただ、スペースの割に人が多く、落ち着いて見ることができない。わがままを言えば、コロナを理由するのではなく予約制にしてほしいと思いました(本当にわがままですので、聞き流していただければ。)。

また、飾る場所として想定されているのは、「襖絵」ですから美術館とはちょっと違う。東京国立博物館の松林図が博物館自体の雰囲気に「はまっている」のに比較すると、どうしても違和感がぬぐえない感じがします。

ちなみに、東京国立博物館の松林図は下絵ではないかとの説もあるくらいで、どこに飾るか想定したものか自体がわからないのですが、でも、現在の博物館にはまっています。

 

 

まとめ的な感想

長谷川等伯は、当時の主流派の狩野派に対抗して頭角を現し、個人の作家としての活動を超えて長谷川派を作ろうとしましたが、久蔵の死によってかなわず、悲しみのもと松林図が書かれたと言われています。

松林図は、等伯の作品の中でも異質な感じを受けますが、安定のすばらしさ。見るたびに違う発見があります。

 

智積院展で見られる作品は、等伯や息子の久蔵、それから弟子の作品に至るまでの、長谷川派が総力を挙げた作品群で、多くが国宝です。国宝に囲まれる体験ができただけでも、よかった(月並みな表現で恐縮です。)。

場所を変えて、京都の智積院で、再度見てみたいとも思いました。

 

 

 

 

「人と比較すること」が人を不幸にするか。

「人と比較することで不幸になる」と、最近よく言われます。

他人が評価の基準になっていて、「他人に比べて自分はだめだ」とか考えていると、結局、自分はどうしたいのかがわからなくなったり、やる気が起きなくなってしまいます。

他方で、いろいろなことを学んだり、仕事をしたりする場面では、他人と比較は成長を促すために不可欠のようにも思われます。

 

実際どうなのか、考えてみます。

前回のブログにアップした沢木耕太郎さんのルポタージュに出てくるボクサーの話があります。

カシアス内藤というその選手は将来を嘱望されていました。沢木さんの目から見ても、トレーナーの目から見ても才能は天下一品。しかも、トレーナーは世界チャンピオンを何人も育てた人です。
でも、カシアス内藤はチャンピオンになれない。あと一息でKOというところでパンチを出し続けることができない。練習でも突き抜けて努力ができない。弱い性格で優しすぎる。
ボクシングの世界では、だめな選手です。(*)

ボクシングの世界で、もがき苦しんで、結局芽が出ず引退することになるのですが、人生では幸せをつかむことがほのめかされて物語は終わっています。

 

(*)誤解のないように言えば、「世界」チャンピオンになれなかったということで、ものすごい選手です。

 

 

20年も前に読んだ物語で、読み方として正しいかどうかはわかりませんが、カシアス内藤の「幸せ」には、条件があったと私は思っています。
「やさしさ」とか「弱さ」を肯定的に捉えるメンタリティー
ボクシングの世界で絶対にマイナスになるその要素を、自分で自分を評価する「ものさし」として持つことができたのではないかと思うのです。


ボクシングの世界のものさしとしては、やさしさや弱さは、マイナス評価される。カシアス内藤も、他のボクサーと比較して自分の欠点だと理解して、克服しようと苦しみます。克服できていれば、ボクシング選手としては頂点を極めていたかもしれない。だから、読者は残念で仕方がない。
でも、他人の作ったものさし(評価)です。カシアス内藤は、その価値観を受け入れなかった。

 

これが「他人との比較しない」価値観だと思います。他人のものさしではなく、自分のものさしで自分の人生を見ると言ってもいいのではないでしょうか。
こういう自分が属する社会における価値観とは別に自分の価値観を持つ生き方は、難しいけれど、本当に人生において必要とされることだと思います。時として、その社会では成功しないことを意味することもあります。

 

 

 

このように、自分のものさしを持つことは大切なんですが、そうなるためには、それなりの経験が必要ということも言えると思います。他人と比較することは悪いことかというと、一概にそれ自体が悪いということではないと思います。


自分で選んで極めていこうと思った分野で他人と比較し、自分のできていない点を分析して能力を伸ばしていくのは、目標を達成するための一つの重要な方法だと思います。その努力はボクシングの世界でチャンピオンになるというような目標には直結します。
さらに、その後の人生を豊かにもする。

比較しながら頑張った経験は限定的な分野で目標を達成するためのものですから、目標を達成したとしても(チャンピオンになったとしても)、自分の幸せとは直接はリンクしない。加えて、多くの人はどんな分野であれチャンピオンになれるわけではないから、残念ながら、別の価値観を持つ必要がある。
でも、こういう価値観を多重的に理解していく経験は、確実にその後の人生に深みを与え、自分自身の価値観を持つことに寄与すると思うのです。

 

カシアス内藤も、ボクシングの世界の価値観とは違う価値観を持つ必要に迫られましたが、ボクシングの世界の価値観の中で、他人と比較され、もがき苦しむ経験がなかったら、深い意味での「やさしさ」、「弱さ」の大切さの理解を享受することはできなかったのではないでしょうか。

 

 

他人との比較は、そのこと自体悪いことではないけれど、自分の評価の基準を持っていないと不幸になる、ということだと思います。