スタイルのある生活~早期退職50代男子ハタさんの試行錯誤~

公務員を退職するに至る経緯からその後の生活まで

子育てをした親が考える「異次元の少子化対策」(2)(少子化対策の提言)

前回、現在の子育て環境の問題点として、

 

1 体力的な負担が大きすぎる

2 経済的、金銭的な負担が大きい

3 精神的負担が大きく、生活が硬直化する

 

ということを挙げました。

 

解決法を考えてみたいと思います。

個人的な思い付きのようなものですが、こういうことを考えることで、少子化問題がいかに国の制度の根本に関わっているかがわかると思います。制度の根本問題について議論がされることを願ってやみません。

 

 

1 体力的な負担について

子育てをしながら働くというのは、大きな負担がついてまわります。

この負担をどうするのか。従来の生活様式を前提とする限りはこの問題は解決しないと思います。専業主婦を前提とし、実家や地域の援助が見込めるような社会ではなくなってから随分経っていますが、役割分担は従来のままです。男女の役割分担、地域と家庭の役割分担、学校と家庭の役割分担、家庭と職場の役割分担。

男女の関係では、女性が子育てを一手に担うことが不可能という認識はできてきましたが、そこに夫も関与したら解決するという安易な雰囲気があります。

地域との関係では、地域社会は昔のように防犯機能や教育機能は期待できない。

だからと言って、教育、防犯、保育などの機能が、なし崩し的に学校に押し付けられているのが現状ですが、その期待に学校は答えられない(無理に決まっています。)。

 

一つのアイディアとしては、子供の居場所を確保する制度の創設が考えられます。生まれたばかりの子供から小学校を終了するくらいまで、日中(朝から夜まで)の生活をする場所を制度として提供する。そこでは食事や教育を提供して、原則として親とは仕事が終わって次の朝までも一緒に過ごすだけにする。

 

現在の制度を前提とすると荒唐無稽と考えられるかもしれません。

でも、保育園に入れないという問題の解決に10年スパンの時間をかけ、男性や職場の意識変革や協力に過大な期待を抱き、PTAは親の負担が・・とか議論している場合では、もはやないと思うのです。

 

 

 

2 経済的、経済的負担、精神的負担について

根本的な経済対策が必要だと考えられます。

労働法制も絡みますが、現在のような終身雇用、年功序列の制度は完全に時代遅れであるにも関わらず、今なお温存されています。

ただ、いきなりアメリカのような自由競争社会というのは日本人にとっては相当ハードルが高いように思います。肌感覚ですが。

では、終身雇用、年功序列のよくないところは具体的には何なのでしょうか。

 

日本人は会社がつぶれることを嫌います。大企業がつぶれそうになると国を挙げて大騒ぎです。税金を投入して一企業を救ったこともあります。このメンタリティーを捨て去ることは難しいかもしれません。考えてみると競争力がないからと言って、その企業をつぶせばいいというのは、ある意味極論です。ぶっつぶさなくても使えるようにできないのか?

 

一つの解決策は、労働の流動性を高めることだと思います。

企業をつぶさないような制度を温存するとしても、働く人が自由に働く場を変えられる(企業にとっては必要のない人材を解雇したり、事後的に必要な人材を採用できる)制度を作ることではないでしょうか。

「働かないおじさん」問題とか言われていますが、少子化の裏返しの高齢化社会になるに伴い、問題は顕在化しています。他方で、優秀な人材が合わない組織で腐っていっている。転職などで経験を積むことでさらなる能力の開花が見込める人材も同じ場所にいることで腐ってしまう。

 

ある職場を辞めたら、次の企業では即戦力でなければ採用しないという、できるはずのない要求はもうやめるべきだと思います。次の職場に移行する際のトレーニング込みで転職を考える制度を創設することを考えてはどうでしょうか。

職業訓練のハイレベルバージョンのようなイメージでしょうか。

 

転職しようとする人のハードルを下げ、転職によって給料が極端にダウンしない制度を作ること、本当の意味での同一労働、同一賃金を実現することだと思います。

経済の発展にも寄与するはずなのに、なぜか長い間これができない。

 

子育てを躊躇させるのは、目の前の給料が少ないというのもありますが、よりよい生活を目指せないという硬直した制度にも問題があります。

自分の能力に応じた報酬が得られるような社会であれば、それを見込んだ余裕を持って子育てをするという見通しが立てられるのです。

 

3 まとめ

結局、少子化問題を解決するには、(1)の冒頭で述べたように

 

1 保育、教育制度を見直す

 子供の居場所を確保して、そこで食事、教育などトータルなサービスが受けられる制度を創設する。

 

2 年功序列、終身雇用制度を作り直して、労働力の流動化を図る

 労働力の流動化を促し、能力のある人の活用を図る。制度の創設により、新たな産業も出てくると考えられます。そういう制度を維持、発展させるためには、能力のある人材で運営できるようにする。

 

ということになるのではないかと思います。

思い付きの一試案ですが、これに類することが政治の場で議論がされる必要があると思います。

現政権の岸田総理であるか、次の政権であるか、また、与党であるか野党であるか、わかりませんが、真摯に議論をして実現しようとして動いておられる方を応援していこうと思います。

 

子育てをした親が考える「異次元の少子化対策」(1)(現状の問題点)

1 異次元の少子化対策の内容(提言)

少子化対策のメニューについては、これから出てくるのだと思いますが、勝手ながら、個人的な提言を書いてみたいと思います。長くなるので2回に分けて記事をアップします。

 

最終的な結論としては、

 

1 保育、教育制度を見直す

2 年功序列、終身雇用制度を作り直して、労働力の流動性を高める

 

ということになります。今回はまず現状の問題点から考えたいと思います。

 

 

2 少子化をとりまく状況

私は、30年以上公務員として働きながら子供2人を育てました。私が子育てをしていた頃は育児休業制度がやっと整備され始めた時代で、夫婦共働きで「夫婦だけで」子供を育てるという人はまだまだ少ない時代で、男性の育児休業の取得率は1パーセントにも充たない状況でした。

他にも夫婦で働きながら子育てをしている人はいましたが、実家の援助などがある人が多く、「夫婦だけで」子育てをしている人は、まだまだ少なかったと思います。

お金の面では、医療費の援助や地方公共団体ごとの給付金などがありましたが、現在ほどではありませんでした。

 

これに対して、現在は当時に比べると育児休業制度のみならずそのほかの各種休暇制度も整い、制度の利用率、休暇の取得率も上がってきています。また、各種手当も、今回の少子化対策にもあるように充実してきています。

 

ある意味、国や地方公共団体も不十分との批判はあるにせよ、何もしてこなかったわけではない。

 

でも、出生率は下がり続けている。

 

 

 

3 少子化に向かう理由(何が子育てを阻んでいるのか)

子供を育てながら仕事をしてきた経験から、少子化になる理由に心当たりがあります。

 

「子供が生まれる」となった時、親はどう思うか。「これからこの子をちゃんと育てていかなければならない。」と思うのではないかと思います。

そういう思いを抱えながら1人目を育てますが、2人目をどうするかと考えた時に、現在の日本では、すぐに「是非ほしい」と思う人は、ほとんどいないのではないか。1人目を育てながら痛感するのは、

1 体力的な負担が大きすぎる

2 経済的、金銭的な負担が大きい

3 精神的負担が大きく、生活が硬直化する

ということです。

 

仕事に復帰するまでの間は基本的には母親任せです。実家の援助がない場合、夫婦で子育て全てをしなければなりません。仕事をしながら。

子供が成長して母親が仕事に復帰することになったら、次の問題は、保育園がなかなか見つからない。無事保育園が見つかって仕事に復帰した後は、仕事帰りに保育園に迎えに行き、夜はばたばたと過ごして翌朝また保育園に子供を連れていく。職場に着いたときにはへとへとになっています。それでも1日がんばって働き、その後また保育園のお迎え。

小学校に子供が上がると、保育園のように手厚く面倒はみてもらえなくなります。面倒を見てもらえないだけではなく、親に負担を強いる教育制度となっています。学校行事やPTAの負担も相当なものです。

さらに、現在の教育制度では満足な学力がつかないというのは公然の秘密のようなもので、だからこそ余裕のある家庭は必ず受験塾に通わせています。こういう負担も親が負わなければなりません。

現在、夫婦2人で子育てをしている人は、もっと言いたいことがあるでしょう。

当たり前すぎますが、体力的に、非常にきついです。

 

また、給料が全然上がらない世の中ですから、金銭的な負担はかなりのものだと思います。

国なども相当な予算を組んで給付金をバラまいていますが、焼け石に水。例えば、今回の東京都の給付金のように5000円が月々給付されたとして、どの程度家計の負担が減るでしょうか。ないよりはいいですが。

 

次に、この点は割と見過ごされていると思うのですが、子育てをしているとライフスタイルが固定化されます。

具体的には、仕事を辞められなくなります。どんなパワハラを受けても、どんな自分に合わない仕事でも、限界まで働いて、これ以上無理だと思っても、仕事を辞めてしまえば転職が著しく難しく、転職ができたとしても「転職した」という理由で給料が著しく減ってしまうからです。

子供がいなければ、転職してでも頑張れるとしても(本当は、それも難しいのが現状ですが)、子育てをしながらでは絶対に転職などできません。

言葉を変えて言えば、限界を超えて頑張ることを強要されるから、子供は作らないという選択になる。

 

日本の労働法制については、以前から問題点は指摘されていますが、本当に長い間、全然改善されません。

転職が著しく制約されるような現在の労働法制は絶対に見直されなければなりませんが、そこに、子育て少子化という視点も不可欠だと思われます。労働法制が、少子化を助長している側面に目を向けるべきだと思います。

この点は、これまでは「子育てとはそういうものだ」という思い込みで、触れられることもなかったのではないかと思います。

 

こういう状況で、だれが子供を2人、3人と育てようと思うでしょうか。

 

今、東京では長谷川等伯の多くの作品を同時に見ることができる。(東京国立博物館、サントリー美術館)

長谷川等伯の作品を観てきました。

 

今、東京では、東京国立博物館の「松林図屏風」と、京都の智積院の襖絵「楓図」が同時に観られます。(確か、もうすぐ終わります。)

松林図屏風については毎年正月に東京国立博物館で展示があります。それに加え、今年は六本木のサントリー美術館で「智積院展」が催されていて、その中に長谷川等伯の「楓図」があります。

 

 

松林図屏風を観て

東京国立博物館の松林図は、毎年展示されているようですが、必ずしもいつも同じ場所に展示されるとは限りません。

10年以上前に初めて観た時には、大きな部屋で他の作品と一緒に展示されていました。そのときは松林図を目当てに行ったわけではなかったのですが、前を通りかかった時に、「おっ!」という感じで惹きつけられました。

「なんでだろう。」と見入っていると、作品の方からも自分の心の底を覗き込まれている感じがしたものです。

 

今回は一部屋で1作品が展示されていました。一部屋に1作品だとその部屋全体が幽玄さに溢れる「松林ワールド」となります。作品の体現する世界に包まれているように感じます。

心の底を覗かれるちょっと怖い感じもいいですが、今回の幽玄さに覆われるような体験も捨てがたかった。

 

 

襖絵「楓図」を観て

もちろんすばらしいのですが、初見では「うーん?」という感じでした。

国宝に対して、「お前何様だ!」的な感想ですが。

 

理由は二つあって、一つは「もっと迫ってくる作品が隣にあったから」。

等伯の息子の久蔵(きゅうぞう)の襖絵「桜図」です。写実的ではないのですが、白い桜が「どうよ!」と迫ってくる感じがします。作品の方からパワーが発せられている。

余談ですが、久蔵はこの作品を最後に若くして急逝してしまいますが、対立する狩野派の暗殺説があります。真実かどうかはわかりませんが、うなずいてしまうくらいの完成度の作品だと思いました。狩野派からすれば、脅威だったのではないかと思います。

 

それに対して、等伯の楓図は、好みの問題もあるかもしれませんが、落ち着いている。制作当初と比べて色が落ちているからかもしれません。

 

まあ、そうは言っても、展示室内は智積院の所蔵する国宝で溢れており、その中での感想ですから、国宝のうちどちらがすごいと思うかという、わけのわからないレベルの話です。

当然のことながら、私個人の感想です。

 

 

二つ目の理由は、展示場所。

展示についてもおそらく考え抜かれており、すばらしいのだと思います。ただ、スペースの割に人が多く、落ち着いて見ることができない。わがままを言えば、コロナを理由するのではなく予約制にしてほしいと思いました(本当にわがままですので、聞き流していただければ。)。

また、飾る場所として想定されているのは、「襖絵」ですから美術館とはちょっと違う。東京国立博物館の松林図が博物館自体の雰囲気に「はまっている」のに比較すると、どうしても違和感がぬぐえない感じがします。

ちなみに、東京国立博物館の松林図は下絵ではないかとの説もあるくらいで、どこに飾るか想定したものか自体がわからないのですが、でも、現在の博物館にはまっています。

 

 

まとめ的な感想

長谷川等伯は、当時の主流派の狩野派に対抗して頭角を現し、個人の作家としての活動を超えて長谷川派を作ろうとしましたが、久蔵の死によってかなわず、悲しみのもと松林図が書かれたと言われています。

松林図は、等伯の作品の中でも異質な感じを受けますが、安定のすばらしさ。見るたびに違う発見があります。

 

智積院展で見られる作品は、等伯や息子の久蔵、それから弟子の作品に至るまでの、長谷川派が総力を挙げた作品群で、多くが国宝です。国宝に囲まれる体験ができただけでも、よかった(月並みな表現で恐縮です。)。

場所を変えて、京都の智積院で、再度見てみたいとも思いました。

 

 

 

 

「人と比較すること」が人を不幸にするか。

「人と比較することで不幸になる」と、最近よく言われます。

他人が評価の基準になっていて、「他人に比べて自分はだめだ」とか考えていると、結局、自分はどうしたいのかがわからなくなったり、やる気が起きなくなってしまいます。

他方で、いろいろなことを学んだり、仕事をしたりする場面では、他人と比較は成長を促すために不可欠のようにも思われます。

 

実際どうなのか、考えてみます。

前回のブログにアップした沢木耕太郎さんのルポタージュに出てくるボクサーの話があります。

カシアス内藤というその選手は将来を嘱望されていました。沢木さんの目から見ても、トレーナーの目から見ても才能は天下一品。しかも、トレーナーは世界チャンピオンを何人も育てた人です。
でも、カシアス内藤はチャンピオンになれない。あと一息でKOというところでパンチを出し続けることができない。練習でも突き抜けて努力ができない。弱い性格で優しすぎる。
ボクシングの世界では、だめな選手です。(*)

ボクシングの世界で、もがき苦しんで、結局芽が出ず引退することになるのですが、人生では幸せをつかむことがほのめかされて物語は終わっています。

 

(*)誤解のないように言えば、「世界」チャンピオンになれなかったということで、ものすごい選手です。

 

 

20年も前に読んだ物語で、読み方として正しいかどうかはわかりませんが、カシアス内藤の「幸せ」には、条件があったと私は思っています。
「やさしさ」とか「弱さ」を肯定的に捉えるメンタリティー
ボクシングの世界で絶対にマイナスになるその要素を、自分で自分を評価する「ものさし」として持つことができたのではないかと思うのです。


ボクシングの世界のものさしとしては、やさしさや弱さは、マイナス評価される。カシアス内藤も、他のボクサーと比較して自分の欠点だと理解して、克服しようと苦しみます。克服できていれば、ボクシング選手としては頂点を極めていたかもしれない。だから、読者は残念で仕方がない。
でも、他人の作ったものさし(評価)です。カシアス内藤は、その価値観を受け入れなかった。

 

これが「他人との比較しない」価値観だと思います。他人のものさしではなく、自分のものさしで自分の人生を見ると言ってもいいのではないでしょうか。
こういう自分が属する社会における価値観とは別に自分の価値観を持つ生き方は、難しいけれど、本当に人生において必要とされることだと思います。時として、その社会では成功しないことを意味することもあります。

 

 

 

このように、自分のものさしを持つことは大切なんですが、そうなるためには、それなりの経験が必要ということも言えると思います。他人と比較することは悪いことかというと、一概にそれ自体が悪いということではないと思います。


自分で選んで極めていこうと思った分野で他人と比較し、自分のできていない点を分析して能力を伸ばしていくのは、目標を達成するための一つの重要な方法だと思います。その努力はボクシングの世界でチャンピオンになるというような目標には直結します。
さらに、その後の人生を豊かにもする。

比較しながら頑張った経験は限定的な分野で目標を達成するためのものですから、目標を達成したとしても(チャンピオンになったとしても)、自分の幸せとは直接はリンクしない。加えて、多くの人はどんな分野であれチャンピオンになれるわけではないから、残念ながら、別の価値観を持つ必要がある。
でも、こういう価値観を多重的に理解していく経験は、確実にその後の人生に深みを与え、自分自身の価値観を持つことに寄与すると思うのです。

 

カシアス内藤も、ボクシングの世界の価値観とは違う価値観を持つ必要に迫られましたが、ボクシングの世界の価値観の中で、他人と比較され、もがき苦しむ経験がなかったら、深い意味での「やさしさ」、「弱さ」の大切さの理解を享受することはできなかったのではないでしょうか。

 

 

他人との比較は、そのこと自体悪いことではないけれど、自分の評価の基準を持っていないと不幸になる、ということだと思います。

 

自分の人生に最も大きな影響を与えた作家(沢木耕太郎「天路の旅人」)

作家の沢木耕太郎さんがNHKのインタビュー番組に出ておられました。(昨日、令和5年1月10日)

 

かっこいいですね。

大昔、大学受験に失敗した時に、予備校で紹介された「敗れざる者たち」を読んで深く感じ入りファンになりました。2度目の受験の前日に「深夜特急」を読み始めたら止まらなくなり、全巻読破。

当然、受験は失敗。

知らない人のために言い添えれば、「深夜特急」は文庫版で全7巻(たしか私が読んだ頃は7巻だったと思うんですが、今は6巻のようですね。)。面白すぎて、惹きこまれて1日で読んでしまいましたが、もうへとへとでした。もちろん作者のせいではありませんが、受験に失敗するはずです。

内容は、インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行ってみたいと作者が思い立つところから始まります。仕事を投げ出して今ある現金を持って、果たしてロンドンまで行けるのか?バックパッカーのバイブルと言われる作品です。

 

その後も、出る作品、出る作品が魅力的で読み続けました。

 

今、インタビューを受けているのを見て、自分自身におそらく一番大きな影響を与えた人だと思い出しました。

 

 

「思い出した」というのは、いつのころからか読まなくなったのです。理由は、仕事が忙しくなったから。

沢木さんの本は、それなりに気合いというか、ある程度の覚悟を持って読まなければ響かない作品だと思います。だから、仕事が忙しくなり、時間や気持ちの余裕がなくなったころから読むのをやめてしまったのです。

多分「」を読んだ後は読んでいないかもしれない。

 

 

私の勝手な沢木耕太郎さん(作品)の印象は、「やさしいハードボイルド」。

あくまで人を見る視線は優しい。でも、現実を見る目は非情なくらい客観的。

気づかないうちに自分自身の人生における理想になっていました。

到底届かない理想ですが。(苦笑)

 

一瞬の夏」という作品があります。

「敗れざる者たち」というルポタージュの1つに登場したボクサーのカシアス内藤の後日譚です。天才の才能を持ちながらテッペンを取れない人を描いたルポ。

 

今日のインタビュー番組では、カシアス内藤さんも語っておられました。「通常はこういう作品ではデコレーションがあるけど、沢木さんは全くそういうことはしない」と、涙を浮かべながら言っていました。徹底的にルポの対象となる人と向き合い、時には非情な分析をしながらも、真実を掘り出していく。

 

 

 

旅を愛し、インタビューをするため飛び回っている印象の強い沢木さんは、最新の作品「天路の旅人」の主人公を紹介しながら、極限の自由を経験した人が、最後は平凡な淡々とした生活をして人生を終えることに理想を感じると言っておられました。

 

 

沢木さんの現時点でたどり着いた境地なのでしょうか?

遅まきながら、読んでいなかった本を今から読もうと思います。大きな楽しみができました。自分の理想を、また追い求めていければいいなと思います。

 

アルコール依存になるところだった。(中島らも「今夜、すべてのバーで」を読んで気づいたこと)

アルコール依存症になるところだったと、最近気づきました。

 

振り返ってみると、退職から3~4年前ころから、お酒の飲み方が変わっていました。

当時、職場では6人のチームで仕事をしていましたが、3人は子育て中のお母さん、2人はまだ経験の浅い男性、それと私でした。子育て中の人たちは1時間とか2時間は時間を短縮しての勤務です。

でも、仕事量は6人分なので、できない部分のフォローは全部私に回ってきていて、ものすごい仕事量でした。それに加えて、働き方改革で残業は最小限にしなければならず、仕事の密度も濃くしないと間に合わない。

 

以前からお酒は嫌いではなく、ほどほどに美味しく飲んでいましたが、そういう環境の中で、次第に飲み方が変わっていったのだと思います。

美味しいから飲むのではなく、疲れを取るため(麻痺させるため)に飲むようになっていきました。

 

その後、転勤で職場が変わってからは、問題職員が複数いるような職場となり、そういうストレスも加わり、疲れをとるためとともに、緊張を緩めるためにも飲酒をするようになっていきました。

 

 

アルコール依存症になるプロセスと代表的な症状としては、

 

1 依存症との境界(精神的依存)

 酒が無いともの足りない、緊張をほぐすのに酒がほしい、ブラックアウト(記憶障害)・・・

2 初期(身体的依存)

 酒がないと落ち着かない、酒が原因の病気やけが、遅刻や欠勤等社会的な問題・・・

3 中期(トラブルが表面化)

 手の震え、恐怖感、酒が原因の問題を繰り返す・・・

4 後期(人生の破綻)

 食事をとらない、自分を保つために飲む、連続飲酒発作、幻覚、肝臓疾患などで仕事や日常生活が困難・・・

 

ということらしいのですが、自分自身、退職直前は仕事が終わったら酒で緊張を緩めないと落ち着かない、酒量は毎日ビールだと500ml缶2本程度では足りず、この辺でやめておこうと思っても、更に続けて飲んでしまうという状況でした。明らかに精神的な依存状態でした。

 

なぜ、今になってこんなことを考えたかと言うと、最近読んだ「今夜すべてのバーで」(中島らも著)という本で、アルコール依存が題材になっていたからです。

その中で、「好きで飲んでいるという人は意外とアルコール依存にはならない」「アルコールを何かの道具として使う人が危ない」というような表現が出てきます。つまり、お酒を楽しむのではなく、緊張を緩めるためや眠るための道具としてアルコールを使うようなことが習慣化すると、生活にアルコールが組み込まれて、その人にとってアルコールが「必要」なものとなってしまい、縁を切れなくなるということです。

 

そのときは激しいストレスや疲れから逃れるため、まさに「アルコールが組み込まれた」生活をしていました。

飲酒量が多いという自覚はありましたのでやめようと考えましたがやめられず、忙しさでずるずる時が過ぎ、退職までそれは続きました。

 

 

 

退職して半月後位に、酒を飲まない方が体調がいいということに気づき、それをきっかけに次第に飲む量が減り、今では週に何回か飲むだけになりました。量もビールで350mlを1~2本が普通です。

 

何より変わったのは、必要だから飲むということが無くなったことです。その日の食べ物や気分で、美味しくお酒を嗜んでいます。

飲まない日は、読書や映画を見たりすることができます。

 

「やばかったなあ」「結構危なかったなあ」というのが今の心境です。

 

呪術廻戦0と村上春樹さんの小説「7番目の男」

映画「呪術廻戦0」を見ました。よかったです。

 

人の暗部をえぐるようなアニメですが、考えさせる作品です。

正しいことばかりを追い求める現代社会で、なんでこういう作品が出てくるんだろうなとも思いました。ジブリがアニメを日本の誇るべき文化へ押し上げた後、更にその文化を広げることに成功しているように思いました。

 

怖れ、恨み、呪いという人間の負の感情がテーマです。

ただ、道徳や情という正の感情と表裏のものとしつつも、相反するものとは描いていないところがいい。

 

一人の人間の心には、明るいところもあれば暗いところもある。それを見て見ぬふりをしよう、暗部をどこかに押し込めようとするのが人間の歴史です。現代社会でも激しく人間の負の感情を否定し、拒絶しようとして、正しいことを追い求めるのは、テレビを漫然と見ているだけでよくわかります。

 

でも、暗部を否定し抑圧すると歪みが生じます。暗部も人間にとっては必要なものです。

 

精神分析でも、負の感情を無意識に押し込めることで人格に不協和音が生じるのを精神的な病と考えますが、その反面、ユングなどは想像の源とも考えます。

芸術は暗部の表出とも考えられます。規則正しい芸術というのはちょっと魅力が乏しい。負の感情の方が実は生命力に満ちていてみずみずしい。宗教的な絵画や浮世絵などで、おどろおどろしいものがよくあります。

昔話や童話には、残酷なものもたくさんあります。でも、皆がそれに惹かれるから、長い歴史を経ても残っている。正しいファンタジーには誰も魅力を感じないでしょう(それがいいと声高に叫ぶ人たちも存在しますが)。

 

 

結局、人間は自分の負の部分に向き合うことで成長するし、人生がみずみずしいものとなるのではないかと思います。負の感情(の経験)に支えられているからこそ余計に深い愛情もあると思います。

 

 

村上春樹さんの短編で「7番目の男」という作品があります。「レキシントンの幽霊」という短編集に収められています。

主人公は、津波の際に自分だけ逃げだし友人を失ってしまい、その後友人の恨みから逃れようとしますが・・・、というストーリーですが、人間の感情の負の部分に徹底的に向かった(向き合わざるを得なかった)ことで、次の大きな視野を手に入れます。

ある程度大人になってから読むと、なんだかとても心が温かくなったのを覚えています。

 

とても感動したのですが、これ以上書くとネタバレになるところが歯がゆいです(笑)。